司馬懿(仲達:179-251)は諸葛孔明(181-234)のライバル。若いころ曹操に才能を見出され長男曹丕(魏の初代皇帝文帝)に仕え、絶大な信頼を得ました。文帝の次の明帝のもとで大将軍となり孔明と五丈原で戦います(234年)。結果は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」ながら蜀を敗退させます。その4年後今度は遼東で反乱を起こした公孫淵の征討に派遣されます。これによって朝鮮半島北部は魏の領内になりました。
この情報をすぐに察知し、翌239年には魏の都洛陽に使者を派遣した仲達や孔明と同世代の(少しばかり年上)女性がいます。その名は邪馬台国の女王ヒミコです。彼女の素早い対応を思うと、国際情報の収集に熱心だったのでしょう。明帝は東夷すなわち海の向こうの野蛮国からの使者を歓待し「よう来た、よう来た」ということでお土産をいっぱい与えました。中国では女王女帝はいないので、非常に珍しがられたに違いない。ヒミコはもっともらしい位や金印や鏡百枚をもらって、有頂天。ところで明帝の手紙はちゃんと読めたのでしょうね。ヒミコおよびその周りではすでに漢字が使われていた!!
ひょっとしたら司馬仲達はヒミコからの手紙を読んでいたかも。彼の死はヒミコ(247年没)より後ですから、トヨのことも知っていたでしょう、きっと。
2009-10-17 22:44:00|
三国志
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気がつけば中国史には女性があまり活躍しませんね。紫式部や清少納言のような才女はいないし、三国志や西遊記にも女性はほとんど登場しない。
女帝はただ一人いますが、唐をのっとったトンデモナイ女帝として描かれています。漢の呂后、清の西太后なども悪役。楊貴妃は悲劇の妃か、それとも妖婦なのか? 美女はとにかく傾城なのですから。
わが国では女帝は7人、そして女王ヒミコがいます。さらに日本書紀には大和朝廷に滅ぼされた女首長のことも書かれています。江戸時代初期までは女性の力は結構認めれていたそうです。
どっちが特殊なんでしょう?
2009-10-17 21:24:00|
カテゴリなし
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ども、季節の中では秋が一番好きなサスペンダーです。
春秋時代の小説を読むと、『史記』や『春秋』と同じくらい出てくるのが、『春秋左氏伝』です。
これは、『春秋』と何が違うのでしょうか?
この『左氏伝』のような書物にはあと2つあります。
『春秋公羊伝』と『春秋穀梁伝』です。
この2つに、先の『春秋左氏伝』を加えて「春秋三伝」といいます。
これらは、『春秋』の注釈書です。
この『春秋』は歴史書でもありますが、同時に経書でもあります。
経書ってなにでしょう?
経書とは、儒教の経典のようなもので、もっとも大事な書物のことです。
この「経」とは織物の「たていと」のことです。織物の「たていと」は固定されるので、不動なものという意味があり、人の世の「たていと」は倫(みち)のことです。
つまり、「経書」とは「倫理書」のことです。
この『春秋』から倫理を引き出そうとした研究結果が、これらの「伝」となったわけです。
それぞれ別々の人が注釈したもので、それらの人の名前からこう呼ばれるようになりました。
著者は、
『春秋公羊伝』は公羊高、
『春秋穀梁伝』は穀梁赤、
『春秋左氏伝』は左丘明(宮城谷さんは、これを信じる人は少なく、著者は不明であるといいます。)
『春秋』の1文について、これらはさまざまな解釈をしています。
読み比べてみると、面白そうです。
たとえば『春秋』で、「12月に祭伯が魯に来た。」という文があれば、
『春秋公羊伝』では、
「祭伯とはだれか?天子の部下である。天子の部下であれば、”来た”のではなく、”天子が使わす”と書く。ではなぜ”来た”と書いたかというと、亡命したからだ。しかし、亡命したのであれば、”奔った”と書くが、それでは天子に外があるようなので、”来た”と書いた。」
となるらしい。
『春秋穀梁伝』では、
「”来た”というのは、”来朝した”ということ。しかし、”来朝”と書かなかったのは、天子の領土内の諸侯は、天子の命令がない限りそこから出て外の諸侯に会うことができないためである。祭伯は天子の許しがないの”来朝した”、つまり正しくない外交なので、”来た”と書いた。」
となるらしい。ここで、「公羊伝」との違いは、亡命ではないということです。
『春秋左氏伝』では、
「12月に祭伯が魯に来たのは、王命ではなかった。」
と、これだけらしいです。しかし、他の2つと違い余計な解釈の加味や倫理の抽出がない分信用できるそうです。
こういった、事が書かれているんだそうです。
真実はどうなんでしょうね。
想像が膨らんで面白いですね。
2009-09-07 17:37:00|
春秋戦国
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ども、春秋名臣列伝を読むのを中断したサスペンダーです。
さて、春秋名臣列伝を途中まで読んだのですが、この本は小説ではありません。どちらかというと解説本です。
ある人物について、その人が生きた時代や環境そういった話が多いものです。もちろんその人がどういった行動をしたのか、なぜ名臣なのかも書かれています。
中国の歴史を知る上で重要なのが資料です。
数千年前の出来事ですから、資料といっても多くあるわけではありません。
その資料の中でも、有名なのが、司馬遷の「史記」です。
この史記の作者「司馬遷」は漢の時代の人です。
もちろん、数百年前の春秋の時代には生きていません。
だから、史記は司馬遷が昔話を人から聞いたりしてまとめたものです。
実は史記に代表される資料ですが、春秋時代にもそれぞれの国が歴史書としてまとめたものがありました。
その一つで、現在確認できる中国最古の歴史書は、「春秋」といいます。
ただこの春秋は、あの孔子が、魯の国の歴史書「魯春秋」に、手を加えたものです。
だから、この最古の歴史書は、魯の国が中心に書かれています。
春秋の記事の最初は魯の隠公’(BC722年)から始まります。
したがって、春秋時代は、春秋によると魯の隠公から始まります。
しかし、この時代にはまだ周王朝は続いていますから、周王がいるわけです。
しかも、魯は周王朝下の一国なわけです。
そこで、魯の隠公の時代の周王は平王ですから、春秋時代は周の平王から始まることになります。
だから、資料に「桓5」とあれば、「魯の桓公5年」のことで、「周の桓王5年」ではないのだそうです。といっても、そんな資料は僕らが目にすることはないと思うのですが。
2009-09-06 23:15:00|
春秋戦国
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- 宋の太祖 趙匡胤 (講談社文庫)

ども、サスペンダーです。
「サスペンダーの秘密」でも紹介した趙匡胤について、少し解説しておきたいと思います。
趙匡胤はもともとは武人です。
後周という国の将軍でした。
後周は唐が滅んでからいくつもの国ができては滅んだ中の一つです。
趙匡胤は、後周の殿前都点検(近衛軍長官)として世宗につかえました。
世宗は名君で、彼が長生きしたなら趙匡胤は皇帝にはなれなかったでしょう。
しかし、残念なことに世宗は早くになくなり、後を継いだのが7歳の子供でした。
この時代は、中国は統一されておらず、北には契丹族の遼と手を結んだ北漢、南には南唐や呉越、西には後蜀など有力な国がありました。世宗はこれらの国を弱小化していったのですが、統一までは時間が足りませんでした。それどころか後周も7歳の皇帝ではいつ何どき他の国に攻め込まれるかわからない状況でした。
そこで、兵士たちは強い皇帝を望んだのでした。
そして、目を付けられたのが、将軍「趙匡胤」だったわけです。
趙匡胤はもちろん強く、公正で、しかも兵士たちからも人気がありました。
そこで、彼が酒を飲んで酔いつぶれているうちに、皇帝にされてしまったというわけです。
もちろん、これが本当なのか、どうかという議論はあります。
しかし、これが本当であろうと、芝居であろうと、彼を皇帝にした張本人は彼の弟である、趙匡義(趙光義)であることは間違いないと思います。
この弟は、趙匡胤亡き後、皇帝になります。宗の太宗です。
さて、趙匡胤という皇帝は名君です。
彼のもっとうは無理をしないだったそうです。
だから、戦は強いが無理をせずに退却したり、さまざまな改革も徐々にすすめられていったそうです。
急激な改革は、人民が混乱するだけですから。
結局、趙匡胤の時代には中国は統一されることなく、彼は50歳という若さで世を去ります。酒の飲みすぎが原因ではないかといわれています。
といった人物でした。
この本、面白いですから、是非11月祭では、中国古代史座談会のブースに足を運んでください。
2009-09-02 01:20:00|
カテゴリなし
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- 奇貨居くべし 天命篇 (中公文庫)

呂不韋は、始皇帝の父親と噂される人物です。
大商人でありながら、秦の宰相(正確には相国)になった人物です。
彼は「呂氏春秋」を編纂した人物としても有名です。
「呂氏春秋」は当時の学者を集めて作った百科事典です。
しかし、実際に呂不韋がどんな人物だったのかは謎に包まれています。
おそらく、始皇帝の前の王(始皇帝の父親)と前の前の王(始皇帝の祖父)がもっと長生きしていれば彼の功績はもっと輝かしいものになったんだと思います。
しかし、前の前の王は在位期間たったの3日、前の王もすぐに亡くなり若き始皇帝(政)が王になったことで、残念ながらあまり輝かしい功績は残っていません。といっても領土はかなり拡大して、後の中華統一の礎の一つは築いたんですけどね。
そもそも、秦という国は西の端にあり、魏や趙、韓に比べると文化的に遅れていた国だったんです。
しかし、そのおかげといっては言いすぎかもしれませんが、有能な人材を登用することに国の枠を設けなかったことが幸いして、どんどん有能な人材が政権を握ったことで強くなったわけです。
中でも、「商鞅」(衛)は法に重きをおいて法治国家を作ったことで知られ、このことで秦は格段に強くなりました。
その後も連衡の「張儀」(魏?)、遠交近攻策の「范雎」(魏)などを登用しどんどん強くなりました。
そして呂不韋もその一人です。彼は戦って勝つだけではなく、奪った土地の行政に力を入れ奪った土地は手放さないようにしました。このことで秦は東にどんどん勢力を伸ばしていったわけです。それまでは奪った土地の人民が秦をいやがり、秦の領地といっても、心は他の国を望んでいたのですぐに奪われてしまったり反乱がおこったりしていたのです。
もしかすると、呂不韋が長く政権をとっていたら、項羽や劉邦の出番はなかったかもしれませんね。
2009-08-27 11:01:00|
春秋戦国
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『レックリ通信』によると,今年で第三回三国志祭が神戸市長田区で開催されるとの事です。
えっ,『レックリ通信』って?レッドクリフのメルマガです。
今年は,『レッドクリフ』の撮影で使用された孔明や周瑜の衣装も展示!本物の衣装が見られる貴重なチャンスなんだそうです。
そして,人形劇三国志「趙雲」の人形がメイン会場に登場決定!!
その他、「三国志」グッズ販売や、ステージイベントなど盛り沢山!との事。
これは行きたい。
ところで,なぜ神戸なのか?
それは,三国志といえば・・・・の大先生の故郷なんだとか。
さて,その大先生とは,「横山光輝」大先生なのです。
な,なんと今年で3回目。
知らなかった~。
行きたい~。
詳しくは→
三国志祭
2009-08-06 19:00:00|
三国志
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本日,大阪国際大学で開催されたゲーム学会に参加するために,現地へいくと,「三国志検定」なる試験が実施されていました。これは…

図 左がゲーム学会,まっすぐが三国志検定@大阪国際大学守口
三国志検定公式ポータルサイト
2009-07-12 22:49:00|
三国志
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斉と言えば、太公望から始まった国ですが、繁栄したのは桓公からです。
斉では内紛があり、公子である糾(きゅう)と小白(しょうはく)は他国に亡命しました。
兄である糾は魯へ、小白は「きょ」(草かんむりに呂)へそれぞれ亡命しました。
ある日、二人の所に斉から手紙が届きます。
「先に斉に帰った方を君主とする」
二人は君主となるべく急ぎ斉を目指しました。
その時、糾を補佐したのが管仲で、小白を補佐したのが鮑叔牙でした。
管仲は小白より先回りして、暗殺をしようとしました。
管仲の放った矢は見事、小白に命中し小白は倒れました。
管仲は意気揚々と糾の所に戻りました。
糾はそれを聞いて、もはや急ぐ必要はないと判断しゆっくりと斉へ向かいました。
一方、小白はというと管仲の矢は運良く帯のバックルにあたりほぼ無傷のままでした。
しかし、小白は死んだフリをし、逆に急いで斉を目指しました。
その結果、先に斉についたのは小白で見事君主の座についたのです。
糾は急いで魯に逃げ帰りました。
しかし、斉の君主になった小白は、魯に対し兄である糾を斉に戻し、命を狙った管仲を殺すように命じました。
魯の君主は、斉の君主に対して逆らう事はしませんでした。
それどころか、小白と君主の座を争った糾を殺してしまい、命を狙った管仲は小白の手で始末させ恨みを晴らさせた方がよいと判断したのです。
その結果、糾は殺され、管仲は斉にとらえられ、送り返されました。
この君主になった小白こそ、春秋五覇の筆頭にあげられる、桓公その人なのです。
桓公を補佐し亡命に付き従った鮑叔牙はこの時、ある人物を推挙します。
「管仲」
です。もちろん桓公は難色を示します。自分を殺そうとしたからです。
鮑叔牙はいいました。
「私は君にお仕えし、管仲は糾様にお仕えしたからこその行動で、当たり前の事をしただけの事です。管仲が君にお仕えしたならば、きっとそれ以上の事をしてくれるに違いありません。君は今、斉の君主にお成りです。このまま斉一国を治められるのであれば、私一人で十分です。しかし、この戦国の世の覇者を望まれるのであれば、管仲がいなくては出来ません。」
桓公は、鮑叔牙の言う通り管仲に国政を任せました。鮑叔牙は恩着せがましい事は何も言わず大臣職を退きました。
この、管仲と鮑叔牙の友情のあり方を、
「管鮑の交わり」と言います。
管仲の才能は素晴らしく、斉は富国強兵の道を歩み、桓公は春秋一覇となったのです。
2009-01-14 00:00:00|
春秋戦国
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あけましておめでとうございます。
中国古代史座談会では、今年も中国古代史の話題についてトピックとたてていきますので、よろしくお願いいたします。
さて、中国古代史座談会2009年最初のトピックは戦国七雄の「斉」についてです。
斉は東方の国です。
斉を建国したのは周が殷を倒した時、周の武王を佐けた「太公望」です。
太公望というと、釣り人のように思われるかもしれませんが、彼は遊牧民族「羌(きょう)族」の出身で釣りなどはまったく知らないはずなのです。
さてこの羌族の太公望と西の大勢力「周」の文王との出会いのシーンで、釣り人として太公望が出てくるのです。
文王はこの人物こそ太公(祖父)が望んだ人物ということで太公望と言われるようになりました。
この太公望と文王との出会いというのは、つまり周と羌族との同盟が成立したということになります。
ちなみに、羌族は殷によって中国の様々なところに移住した部族だそうです。
周の文王は一度は殷に捕まり死にかけますが、なんとか生き延び周の富国強兵に力を注ぎました。
残念ながら文王は殷を討つことはなく、子の武王に引き継がれました。
武王は太公望を軍師とし多くの部族や諸候を率い殷を牧野(ぼくや)にて倒し周王朝を開きました。
そして、この戦いの功労者、太公望に東方の地を授けられました。この国を「斉」といいます。
「斉」の姓は羌です。
2009-01-03 00:00:00|
春秋戦国
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