スタートライン~9~

 「し…知らない人、ですか…」

 ぽつんとつぶやいて、やや、呆然としている佐織を残して―。

 “ものをあげすぎ”との指摘を受けた香坂先生が、軽く胸を張っていた。

 「まあな。俺はKCGのお袋さんを目指しているからな」

 「お袋さんって…また、似合わないことを」

 苦笑する彼に、なっちゃんが大きくうなずいて力強く賛同した。

 「こんなお袋さんやったら、ちっとも気ぃ休めへんわ。なーんかギラギラした視線で、いっつも狙われてる気して」

 「人をスナイパー扱いすんじゃねーよ」

 眉間に皺を寄せつつ、頬杖をついたところで。
 テーブルの上、その肘に触れた1枚のプリントに気がついて、香坂先生はそれをめくり上げた。

 「あ、そうだ。丁度いいし、せっかくだからコレ、来ない?」

 テーブルの向こうにいる彼に、一瞬、緊張が走ったのを横目に見つつ、香坂先生はそのプリントを佐織に向けた。
 A4サイズの用紙に大きく書かれた文字が、茫然自失状態だった佐織の心を呼び戻した。

 「え、えっと…。KCGあわーど……?」

 疑問を含んだ言葉に、香坂先生は大きくうなずく。

 「うん、KCG AWARDS 。んー、簡単に言うと、“KCG在学生の勝ち抜き選手権”とでも言おうかなあ。ま、そんな感じだな」

 「勝ち抜き選手権……」

 ――と、1人で目を丸くしたあとに感心していたら。

 その横でプリントをのぞきこんでいたなっちゃんが手を挙げた。

 「はい、先生、しつもーん」

 そのノリに便乗して、先生も咳払いして指をさす。

 「はい、どうぞ。受験生のお嬢ちゃん」

 「お嬢ちゃん…って、嫌やわぁ、いくらアタシが大和撫子やからって、そんなもぉ。新城なつみだよぉ…」

 どうやら、こういうギャル風味な格好をしていても、中身はわりと純粋なトコロがあったりするらしい。わずかに身をくねらせてテレたあと、なっちゃんは質問をした。

 「えっと、その“KCG 何とかド”いうのは…」

 言いかけたのを、ちょっと待ったとばかりに手のひらを立てて先生が割り込んでくる。

 「アワード、言うただろうが。速攻で忘れるなよ」

 「いいやん、そんな冷たいこと言いひんでも。でな、そのKCG AWARD なんやけど…その、部外者とか来ていいん? あと、どんな服装で来たらええんやろか…」

 服装、と口にしたところで、着ているワンピースのような長いトレーナーの裾を軽く引っ張る。はたから見たら、ただのギャルっぽい女の子でも、本人的にはそれなりのこだわりがあるらしい。
 その不安げなさまを微笑ましく思ったのか、香坂先生は頬杖をつきながらニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 「あー、大丈夫。つか、部外者NGなら、そもそも誘わんし。服はなー、そんなに気を使わなくても…まあ、俗っぽいことをいえば“常識の範囲内”ってやつなら問題ないよ」

 「そっか、良かった」

 なんだかもう行く気になっているらしい。
 自分はどうしようかな――と佐織がプリントを眺めていると、なっちゃんは度肝を抜くようなことをサラリと言ってのけた。

 「じゃ、2人で行くわ。サオリンと私の2人で」

 「えっ!?」

 今、何て言った、と横を勢い良く見る佐織をよそに、なっちゃんはにこやかに話を進めていく。

 「この日、たぶん行けると思うし。うん、たぶん大丈夫やわ」

 携帯電話を出して、スケジュール確認をしつつ、OKを出すなっちゃん――。
 佐織はちょっと待ってとばかりに、トレーナーの袖を引いた。

 「ちょ、ちょっと待ってよ。私は……」

 たった今、あの人が自分のことを覚えていないと知って、まだ心の整理がついていない、というか。いや、むしろ、そこまでショックを受けた自分にショックを受けている、というか。
 だからまだ正直、何も考えられない―。

 と、そんな佐織の小さな言葉に気付かなかったのだろうか。香坂先生は親指を反らせて、テーブルを挟んで後ろに座る彼を軽く指した。

 「そりゃ良かった。今年のアワード、彼も出る予定だから。未来の後輩が来てくれるとなると、発表にも熱が入るってものだろ」

 「え………?」

 佐織が固まる。
 何ですって、今、何と?

 頭の中で、耳が受け取ったばかりの言葉を反芻する。

 “カレ モ デル ヨテイダカラ”

 それはつまり、

 “彼も出る予定だから”

 なわけで、―――ということはこのアワードにこの人が出るかもしれないんだ……!!

 「KCG アワード、ひらたく言えば発表会。この建物の上、6階のホールで学業発表会みたいなことをする、ってこと」

 「なるほど…」

 学業発表会、かぁ―。
 そうか、発表するんだ。

 佐織の頭に、ある景色が浮かんだ。

 ホールの壇上で、彼は拍手喝采を受けている。そこに上がってきた佐織は、うやうやしく花束贈呈をする―――。
 それは優雅に、気品高く、美しく――。

 ――と、そこまで想像した瞬間だった。
 佐織がプリントを取り落とし、先生の手を取ってガシッと握り締め、ぶんぶん振ったのは―。

 「行きます、行きます、KCG AWARDS! 絶対行きますからっ!!」

 「は、はあ…、ありがとう…」

 突然、手を取られて、ぽかんとする香坂先生の背後で彼は、曖昧な笑みを浮かべてこちらを見ていたのだった。

 「まったく、どういうこっちゃ…?」

 なっちゃんの呆れ声が、人気のないインフォメーションルームに響いていた。

       次回”あずたん、アワードへ行く”につづく

 

神崎佐織ラフスケッチ決定分その3
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お知らせ

皆様、こんにちは。
ウェブ小説を書いているマカロニと申します。

今回は別館が出来ましたので、そのご紹介にとやってきました。

どうぞよろしくお願いいたします。

別館への入り口

かわ
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スタートライン~8~

 「おーい、サオリン?」

 目の前で、パタパタと手が振られている。

 京都コンピュータ学院2階事務室の廊下にて―。
 ただ、呆然とたたずむ佐織の視界を手のひらがパタパタと扇がれていた。

 「…あ、そうだった!」

 はたと我に返る。
 どうやらあのとき、香坂先生とかの人に会った瞬間、まるで何かの呪文にかかったかのように動けなくなって。
 そのままほんのわずかな時間、茫然としてしまっていたようだった。

 すぐ耳元では、なっちゃんが囁いているというのに―。

 「サ・オ・リ・ンってばー」

 って―――あれ?

 「………耳元?」

 と、浮かんだ疑問を肩の重みが瞬時に払拭していく。

 「ちょ、ちょっと、人の耳元で何を囁いてるのよっ!?」

 驚いて飛びのくと、なっちゃんがちょこんと舌を出した。

 「囁いてなんかいーひんもーん。呼んであげただけやんかー」

 「呼ぶにしても、もっとまともな呼び方があるでしょうが!」

 「だって、サオリン、アタシをほっといて何か楽しいこと考えてるみたいやったから…。寂しゅうて寂しゅうて…」

 そう言って、軽く握った拳を立てて口元から下に引く。
 サングラスからもわかるような激しい嘘泣きから見るに、どうやらハンカチを噛む真似をしているらしい。
――なんて、わかってしまう自分にも複雑だけれど。

 頭を抱え込んでいる佐織の肩を、話題転換とばかりに手を打ったなっちゃんが押してきた。

 「そんなことより。行くで、インフォメーションルーム」

 「え、え?」

 先ほどから、彼女の突飛な言動にも慣れてきたつもりだったけれど、行くとかインフォメーションルームとか――何を言っているんだろう。
 確認する間もなく引きずられながら、佐織は事務室の廊下を挟んだ向かい――談話室のような部屋へ連れて行かれてしまった。

 2人とも、いつの間に入っていかれたんだろう。
 ガラス張りの壁の向こうの部屋には、パソコンの載った丸いテーブルがいくつかあって、そのうちの1つを挟むようにして、香坂先生とあの人がにこやかに談笑していた。

 ――そう、間違いなくあの人、だ。

 それを見た佐織は、なっちゃんの手を軽く払って、重い扉をゆっくり押した。
 中にいる香坂先生には、自分にも、それからなっちゃんにも――確か受験票を届けてくれたお礼を言いたいとかで、用事があったから。

 「失礼しまーす……」

 まるでお化け屋敷にでも入るかのように、そっと、ゆっくりガラス戸を押し開けていく。
 振り向いた香坂先生が、眉根を寄せてこちらを伺った。

 「……あれ。さっきの腹痛の…?」

 言われて、佐織はというと。

 「あっ、あっ、あーーーーっ!!」

 両手を振り振り、真っ赤になって香坂先生に走り寄った。
 薬をくれて、しかも水までおすそ分けしてくれた香坂先生には悪いけれど、……すっごくすっごく悪いんだけれど、今は勘弁してほしい。

  この人の前でだけは、絶対絶対―――。

 そんな乙女心を知ってか知らずか、香坂先生はというと―。
 とても素敵な笑顔で、無情にもハッキリと言い放った。

 「いやぁ、元気そうで良かったよ。さっきは今にもトイレに駆け込みます、駆け込ませてくださいってばかりの表情を浮かべてたし」

 あぁぁ………言っちゃった……この先生、言ってしまったよ……。
 トイレ行きたい種類の辛さじゃなかったのに、ただ、胃がキリキリ痛いってだけだったのに。

 何、この状態。
 当時を知る人の発言は、当時を知らない2人に果てしない説得力をもって受け止められていた。

 ここに来るまでやたらとハイテンションだったなっちゃんなんて、変に涙ぐんでるし。

 「そっか。アンタもアンタで辛かったんやな…」

 テーブルの向こう、香坂先生に向かいあうようにして座っているあの人も、

 「そうなんだ。大変だったね…」

 なんて沈痛な面持ちを浮かべているし。
 あぁ、なんて再会なんだろう。

 佐織は頭を抱えて、膝からかくんと折れてしゃがみこんだ。

 「あぁぁぁ………」

 京都に来る、KCGを受験すると決めてから、はや1ヶ月少々。
 その間、折にふれては思い出していたあの人、京都駅で出会ったあの人が今、ここにいる。

 素敵な再会を夢見ていた人が、――手を伸ばせばすぐに届く場所にいるのに――。

 え、手を伸ばせばすぐに届く―?

 『!』

 引きかけていた頬の赤みが、またボンッと広がっていく。

 手を伸ばせばすぐそこに、彼がいる。
 夢見た再会、優しげな表情の彼、そして――。

 ポンッ

 ふいに肩をたたかれて、走りかけた妄想特急が急停車する。
 見上げた先には、慈愛に満ちたなっちゃんの顔があった。

 「どしたの、赤くなって。トイレ、一緒に行ったげよか?」

 …………!!

 肩の手を振り払って、佐織は満ちていく微妙な雰囲気も払うべく、パタパタと両手を振った。

 そうだった。
 妄想特急ってる場合じゃなかったのだ、今は。

 佐織はあたふたと弁解を始めた。

 「いやいやいや、だから、そうじゃないんですってば。誤解です、誤解! 胃が痛かっただけなんですってば! トイレに行きたいとか、そんなのちっともなくって、症状としては全然そんなのなくって、でも胃がキリキリ痛くって、それで…それで…」

 あわあわと身振り手振りで解説する彼女の言葉に、香坂先生はのんびりとアゴに指をかけた。

 「あ、そうだっけ。…そういや確かに総合胃腸薬を渡した…ような」

 しまったしまったとばかりに頭をかく香坂先生に、かの人が苦笑いした。

 「また、先生は。いろんな人にいろいろなものをあげてるから、混同するんですよ」

 その優しげな言葉を耳にしながら、佐織はゆっくりと立ち上がる。

 ぼうっとした頭に蘇るのは、京都駅での出会い。

 『あぶないっ』
 『すみません お怪我はないですか』
 『すいません。ちょっと急いでいたものですから…』

 彼が発した言葉が、ぐるぐると頭を巡っていく。駆け抜けていく。

 やっぱりこの人、いい人なんだ―。

 ――と、再び現実から離れていきそうになったので、佐織は慌てて首を振って意識を戻したとき、テーブルの向こう側にいる彼が、思わぬ声をかけてきた。

 軽く香坂先生を見遣って、佐織に初めて、声をかけてくれた――。

 それなのに。
 次の瞬間、彼の口から出たのは、こんな言葉だった。

 「ごめんねー。知らない人に、トイレ話を聞かれたら凹んじゃうよね?」

 「しら……」

 知ら、ない人――?
 今、知らない人って言ったよね―?
 佐織の中で、時間が止まる。

 駅で初めて出会ったときのこと。
 それを追いかけてロビーで見かけたときのこと。
 そして今、インフォメーションルームで――――。

 それぞれのシーンが頭をよぎっていった果てに、浮かんだ5文字がずっしりと肩にのしかかるのを感じながら、佐織は事実を反芻していた。

 衝撃で固まってしまった気持ちとともに。 

 『私のこと……覚えて…ない………?』

       次回”スタートライン9”につづく

 

神崎佐織ラフスケッチ決定分その3
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スタートライン~7~

 「ごめんな。なんか、無理やり連れ出したみたいで」

 そう言って、なつみさんはわずかにうつむいて、サングラスの奥のまぶたを伏せて。
 さっきとは打って変わって、しんみりとした雰囲気で廊下を歩き続ける。

 その高低の激しさに面食らいつつも、佐織は答えた。

 「…いや、“みたい”じゃなくて、実際にそうなんですけど…」

 傍若無人な振る舞いにつられて、佐織も本音をこぼしてしまう。
 するとなつみさんは苦笑いしつつ、肘でつついてきた。

 「バカ正直な子やなー。こういうときは、“そんなことないよ。なっちゃん、凹んでたみたいだから。1人にしておくの心配だったし”とか言うもんやで、まったく…」

 「だって、違うもん」

 自分の用事を後回しにされた恨みをこめて言い返すと、なつみさんは先回りして奥にあるエレベーターホールに入り、呼び出しボタンを押す。

 ダメだ、全然聞いていないっぽい。
 やがて追いついた佐織とともに、ホールで待つ間、なつみさんは自虐的に笑ってみせた。

 「ま、凹んでたのは事実なんやけどな」

 「え?」

 「ここに来た時とか、来る前とか、―――昨夜、とか」

 さっきまで太陽みたいにはしゃいでいたのが、嘘のように沈んでいく。
その空気がいたたまれなくて、佐織は視線を高く上げ、点滅する階数ランプを眺めた。

 「そっか…」

 ここに来る前―。
 佐織にも一応、それなりの騒動があった。
 それと事情も環境も違えど、彼女にもいろいろなことがあったのだろう。

 ふいに訪れた沈黙の中、階下で止まっているエレベーターの階数ランプを見ながら、佐織は独り言のようにつぶやいた。

 「どんなことがあったか、よく知らないけど……というか全く知らないけど。たぶん、大丈夫だよ」

 「大丈夫、って?」

 人の気も知らないで、とばかりに沈んだままで視線を向けてくるのを感じながら、佐織はランプを見つめ続けていた。

 「人間ってさ、たぶん、自分が思ってるよりうんと強いものだと思うから。だからきっと、大丈夫」

 過去の自分―。
 振り子が揺れる掛け時計の下で、泣きじゃくる自分を思い出しながら、佐織はつぶやく。
 自分で発した言葉が、自分をあのときの感覚へと引き戻していく。

 私はきっと、自分で思うよりもずっと強いんだ――って、そう信じ始めた瞬間へと。

 そんな佐織の様子を珍しそうに眺めながら、なつみさんはちょっとだけ首を傾げた。

 「強い、かぁ………。そうなんかなあ…?」

 心細げにつぶやいて、なつみさんは視線を階数ランプへと移す。

 「うん。たぶん」

 「そっかぁ、そうなんかぁ……」

 1階、2階、3階、どんどん近づいてくる、こちらに向けて上がってくる―。
 そしてもうすぐ、というところで、なつみさんがこちらに両腕を伸ばしてきた。

 「え?」

 振り返る、と同時に視界に入ってきたのは―。

 「ありがとっ。もぉ、ティッシュのことといい、今の話といい、アンタいいっ! もう大好きやわ!!」

 至近距離を通り過ぎ、肩へかかる重み―そして上半身にかかる温かさ――。

 一瞬のうちに、佐織はなつみさんに抱きしめられていた。
 それもこんな、誰がいつ来るかわからないエレベーターホールで。

 「ちょ、ちょっと、なつみさん!?」

 エレベーターが近づいてくる。
 慌てて引き剥がそうとするも、しかし、興奮したなつみさんは離れない――どころか、泣きじゃくり始めている。

 「嫌だぁー、もう、なっちゃんって呼んでー。私も名前呼ぶから」

 そこまで言って、なつみさん改めなっちゃんはぴたりとしゃくり上げるのをやめた。

 「あ。アンタ、何て名前だっけ?」

 「……神崎佐織っていいます」

 もう何なんだ、この人は。
 人の名前も知らないくせに抱きついて――しかも離れないし。

 しかし、一方のなっちゃんはというと。

 「わかった」

 こくんとうなずいて、再び泣きじゃくり始めた。

 「わーーーん、サオリーン!! 私な、もうメチャクチャ辛かったんよー……! まさか受験の前日に、あんなことが起こるなんてー…。もう、さんざんやわ。人生、お先真っ暗やわー。わーん!!」

 「さ、さおりん…って…」

 身も心も固まった状態で、佐織は困惑した。

 どうしよう。
 何か良くないスイッチでも押してしまったのだろうか。
 食べすぎから始まって、ギャルにニヒルにギャル、なんだかとんでもない1日だ。

 「えっと、こんなときは……っと」

 迫り来るエレベーターを前に、頭の中の引き出しをひっくり返す。
使えそうな豆知識を探し始める。何か…なかったかな…即効性があってとっておきの何かが…。

 そしてエレベーターが到着し、今、まさに開こうとしたその時。

 「あった!」

 佐織はさっと両手をなっちゃんの腰に回して、指先を立て、一気にくすぐり始めた。

 「や、やだ、やめて…!」

 さっと両腕を離し、くすぐりから逃れるなっちゃんと、ほっと胸をなでおろす佐織。
 そんな2人の前に現れた先客たちは、ほんの少しだけ不可解といった表情を浮かべたものの、特にこれといった反応もせずに。

 「きゃはははは…!」

 「失礼しま~す」

 ツボにはまったのか、大笑いが止まらないなっちゃんを引っ張って、佐織はエレベーターに乗り込んだ。

 「きゃはははは…!」

 「ちょっと、静かにしてよ」

 お腹を抱えて笑い続けるなっちゃんと、困惑しきりの佐織、それからその他数人を乗せてエレベーターは独特のふわりとした感覚を経て、下へ下へと進んでいった。

 そして階数ランプの“2”が灯って扉が開いたとき、佐織は目を丸くした。

 「え、2階って…もしかして…」

 受験後、佐織が漠然と予定していたことが蘇る。

 “2階事務室へ香坂先生を訪ねる”―。

 もしかして彼女も、自分と同じ場所へ行こうとしているのだろうか。
 しかし、そう考えるすきも与えず、弾かれたように飛び出したなっちゃんが佐織の手を引いた。

 「さー、行くでぇ」

 「い、痛いっ! そんなに引っ張らなくても行くってば」

 手を振り払うと、なっちゃんはニヤニヤと笑った。

 「なーにを大袈裟なこと言うてんだか~」

 そのまま身を翻し、蝶々のように軽やかな足取りでエレベーターホールを出て右に曲がる。

 その後に、嫌々ながら着いていった佐織は、ふと、見覚えのある“あの人”に釘付けになった。

 「あれは、まさか………」

 事務室と、パソコンが何台か置かれた談話室のような部屋の間にある廊下の奥―。
 1階ロビーから吹き抜けている階段から、2人の男性が上がってくるのが見えたのだ。

 「そっか、順調か。なら、良かった。お前のことだから、熱中しすぎてぶっ倒れてんのかと思ってたんだぞ」

 と、片手をポケットに突っ込んだまま、目を細めているのはニヒルな香坂先生。
 佐織が会いたいと思っていた人だ――――ったのだけれど。

 「……あ!」

 階段から上がってくるもう1人の、その姿が見えたとき。

 「あはは、信用ないなぁ。香坂先生には」

 苦笑いする、その顔が見えたとき。
 ここに来た目的は即座に消えうせて、瞬間、高速回転で、佐織の脳裏にあのシーンが蘇り始めた。

 クリスマスの京都駅。
 ぶつかる衝撃。降り注ぐ、ツリーの飾りたち。

 そしてその後の言葉―。

 『すみません! お怪我はないですか!』

 あぁ……まさか、こんなときに出会うなんて。
 ……………まさか、こんな……いきなりすぎて、心の準備ができていないよ――。
 
 戸惑いをこめて、カバンをぎゅっと握り締めた佐織の視界のすみに、事務室のカウンターで大手を振って、中にいる先生に質問しているなっちゃんの姿が入っていた。

 「すーいませーんっ。香坂先生、いませんかー? 受験票のお礼に来た、新城なつみでーすっ」

 
       次回”スタートライン~8~”につづく

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スタートライン~6~

 試験終了のチャイムが鳴り響く中―。

 「はい、やめてください」

 中年くらいの試験監督の指示に従って、受験生たちが筆記用具を置く。カサカサと紙が裏返される音がして、後ろから順々に解答用紙が集められていく。

 「お疲れ様でした。皆さん、気をつけて帰ってくださいね」

 用紙の枚数を確認しつつ、言い残して、試験監督が去っていく。

 その姿を見送って、佐織は小さくガッツポーズした。

 『よく頑張りました、私!』

 心の中でつぶやきながら、今日という日を感慨深く思い返した。

 お腹が痛くなったり、ギャルに会ったり、ニヒルな先生に薬をもらったりと、…まあ、いろいろあったけれど、なんとか実力も出し切ったし、とりあえずこれで一安心。

 大事なポイントをクリアした。

 良かった、これで地元に胸を張って帰れる。

 佐織はほっと一息ついて、席を立つ。
 と、その背後から突然、かすれ気味の声が話しかけてきた。

 「ちょっと、あなた」

 思いのほか近距離から呼びかけられて、佐織はぞくっとして身を翻した。

 「な、何なんですか、あなたは………って、さっきのギャ…」

 言いかけて、再び、口元を手で覆うと。
 彼女は少し長めの前髪をさらりと払い流して、つんとすまして見せた。

 「そう、ギャルギャル言わない、でくださる? 一応、これでもちゃんとした名前がございますのですから」

 「は、はぁ……」

 戸惑いを帯びた言葉を返してしまったのは、彼女の話しぶりが変だったから。
 ――無理してしゃべっているというか、発する声に抑揚がないというか……。

 そうだ、ぎこちないんだ。

 でも、どうして―――?

 「…?」

 佐織は疑問を抱えたまま、まるでブリキのおもちゃみたいに、ぎこちなく首を傾げる。
 
 それを見て、その人はうつむき、肩をふるわせ、大きく息を吐いた。
 突如として変化したアクセントと、しゃべり言葉とともに―。

 「あぁぁぁ~~~~~~~、もぉ、ダメや」

 「?!」

 ギョッとして、咄嗟に両手を顔にかざして身を守ろうとする佐織の前で、彼女は両手を握り締めて、小さく地団駄を踏んだ。

 「もう嫌っ、気持ち悪っ、むず痒いっ。こんなんやっぱ無理やわ。私のキャラにあわへん!」

 「へ、へ??」

 完全に理解不能。
 いったいこの人は何を言っているのだろう――と、 警戒をゆるめて、顔をのぞきこもうとした瞬間。
 彼女はガバッと顔を上げて、こちらを見つめ返してきた。

 「あのなあ」

 「は、はい?」

 思わず、どきんとした胸を押さえながら、佐織は目だけ動かして辺りの様子を伺った。

 試験が終わり、少しずつ人気がなくなっていく教室―。
 そしてそこで向き合う2人。
 1人は普通の女子高生で、その相手はまるでバラエティ番組に出てくるような、“ギャル”そのものの女の子―。

 はたから見たら、“違う世界を生きている2人”―――のように見えなくもない。

 第一、佐織にはこういうタイプの知り合いはいなかったし。
 そういう意味だけ考えても、確かに“違う世界を生きている”に違いなかった。

 ―――今、その人生が交差するわけだけれど。

 「すぅーっ…」

 ふいに彼女は大きく息を吸い込んで、やがて満面の笑みとともに息を吐き出した。
 どこか物悲しい、それでいてさばけた雰囲気をかもし出しながら。

 「やっぱ、あかんな。人間、そう簡単に自分を変えれへんってことやね、きっと」

 「?」

 いや、そういきなり“結論”みたいに話されても、困るというか。何がなんだか、ちっともわからない。
 目の前の本人は大袈裟に腕組みして、うんうん納得しているけれど。

 『これで、いいのかなあ……?』

 とりあえず、つられて腕組みしていると。
 彼女はパンと手をたたいて、人差し指を立てて宣言した。

 「こうなったら、仕切りなおしな。ほら、前見て前見て」

 「へ、へ、えっ?」

 両肩をつかまれて、無理やり前方を向かされる。

 「な、何なんですか?」

 それでもなお向き直ろうと振り返ったところで、彼女は言った。

 「ちょっとアンタ!」

 「は、はあ…」

 「ちょっと。“あなたは………って、さっきのギャ…”ってのが抜けてる! ちゃんとしゃべってくれんと困るわ~」

 人差し指をワイパーのように振って、ダメだしする彼女に佐織は諦めて棒読みで付き合う。

 「“あなたは………って、さっきのギャ…”」

 よしよしとばかりに大きくうなずいて、彼女は続けた。

 「そう、ギャルギャルいわんでくれへんって言うてるの。これでもアタシはな、ちゃんとした可愛い名前があるんやから!」

 「は、はぁ…。カワイイ…ね」

 自分で自分の名前を可愛いと言うなんて…。
 なんかこの人、変。それに何なんだろ、この流れは。

 関西ってお笑いの土地だとは知っていたけど、道行くおばちゃんも漫才風の会話をしていると聞いていたけど、これもそれらと同じ“道端お笑い劇場”なのだろうか。
 ホント、関西って不思議なところだ。
 
 ――などと、1人で考えて1人で感心している佐織に、彼女はふくれっつらを向けた。

 「うるさいな。つべこべ言わんで付き合ってくれてもええやん。せっかくこうして知り合えたんやし」

 「あ、ごめん」

 思わず、反射的に頭を下げかけて、佐織は眉根を寄せる。

 『あれ。私、そんなに悪いことしたっけ?』

 「ま、別に謝られても困るけどな」

 ぶっきらぼうに言って、ずれかけたサングラスをさっと眉間に押し当てる。
 どうやら、目の腫れをものすごく気にしているようだ。
 まあ、女の子だし、ギャルとはいえ、見た目にものすごく気を使っているようだから、無理も無いんだけど。

 でもまあ―。
 それらを差し引いても、やっぱり変わった人には違いないはず。
 いや、差し引かなくてじゅうぶん――?

 あぁ、また妄想特急るところだった。
 さっさとやりとりを終わらせるべく、佐織は軽く頭を下げた。

 「ごめんなさい。で、何の用ですか、新城なつみさん」

 少し構えつつ、返事をすると。
 ギャル―――じゃない、なつみさんは口をぽかんと開け、やがて大げさにのけぞった。

 「え、嘘。アンタ、私の名前知ってんの? どこからどー見ても、ただのあかぬけない小娘のくせに。実はものすごーーく情報通!?」

 「あ、あかぬけない小娘って……」

 初対面のくせに、なんだかとっても失礼な人。
 ――まあ、確かに、制服をそれほど着崩す習慣がないし、だいだい、服装にそれほどこだわっているわけではないから、そう見えてしまうのかもしれないけれど。

 その思いが顔に出ていたのか、なつみさんはぱちんと手を合わせた。

 「ごめん。今日のアタシ、ちょっとオカシイから。あんま気にしないで」

 「気にしないでって言われても……」

 「うん。アンタに関係ないってのは、重々、承知の上や。でもな、人間生きてりゃ、たまに凹むこともある。そしたら関係ない人にもビシバシ言ってまうこと、あるやろ?」

 「は、はぁ……」

 確かにそういうのって、ある。
 何かしらのことに腹を立てて、それでたまたま出会った人に冷たくしてしまいそうなことが―――って、ちょっと待てよ。
 
 わずかに後ろに視線を投げ、佐織は、自分にすら聞こえるか聞こえないかのかすかな声でつぶやいた。

 「何か私、誤魔化されてない…?」

 すると、なつみさんは耳も良かったらしく。
 手のひらをこちらに向けて、佐織の言葉を遮った。

 「誤魔化されてなんか、ナイナイ。ま、ええわ。あんま急いで帰ろうとしてへんとこ見ると、時間はたっぷりあるんやろ。ちょっと付き合ってや」

 そう言って彼女は、カバンに添えたのとは逆の手をつかんで、ぐいぐい引っ張っていく。

 「ちょ、痛…。痛いよ…!」

 別に用事がなかったわけではない。
 この後は、もう一度、二階の事務室に行って、さっきの先生にお礼を言おうと思っていたのだ。
 香坂先生にお薬のお礼を――。

 『ありがとうございます。おかげさまで、つつがなく試験を終えることができました』

 って、きちんと感謝あふれる態度で、うやうやしく頭を下げながら。
 先ほどのバタバタぶりを帳消しにして、4月からは楽しくてスマートな学院生活を送るんだ。

 礼儀正しく、かっこよく―。

 でもなぜか、頭の中に描き出されるイメージは、先ほどの美人さんだったりするけれど。
 受験票を届けに来た佐織とほぼ同時に事務室へやってきた、あの人。同い年とは思えない、とても大人びたあの人は確か――奨学金制度、とか言ってたっけ。

 そっか、奨学金制度について考えてるんだ。
 なんか、自分とは全然違うタイプ。自立してる強い女性のようだ。

 そして自分はというと―――。

 「痛い、痛いってば!」

 「まあ、ええやん。ちょっとくらい付き合ってくれても」

 出会ったばかりのギャル―――もとい、新城なつみさんのペースにすっかり巻き込まれて、教室を出て歩き出す。やがて、佐織が逃げないと思ったのか、なつみさんはその手をほどいて、横に並んで歩き始めた。

       次回”スタートライン~7~”につづく

神崎佐織ラフスケッチ決定分その3
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スタートライン~5~

 「あのっ。この近くでお薬を買えるところ、ご存じないですかっ?」

 「お薬…? 薬って、薬屋でいいの?」

 「は、はい、はい、はい」

 意表をつかれたとばかりに面食らっている先生を前に、佐織は何度もうなずく。

 生まれて初めての1人旅で、生まれて初めてビュッフェという言葉の意味を知って食べ過ぎて、そして生まれて初めてギャルに会い、さらにニヒルな人にも会う。
 初めてづくしのオンパレードに、佐織の胃は思ったよりもキツイ状態に追い込まれていたようだった。

 一方、対する香坂先生はというと。
 どこからどう見ても、ごくごく普通の女の子が――それも、程よい緊張感を漂わせ、高校らしき制服を纏っている女の子が、いきなり薬屋さんの場所について聞いてくるだなんて挙動不審というか、何と言うか―。

 なんだか、ちょっと不可解。
 明らかにそういう複雑な表情を浮かべつつ、ついでに首をひねりながら、取り出したメモ用紙に簡単な地図を描き始めた。

 「えっと、ここが今いる場所ね。ここから向かって左に出たら、……ここ、大きな通りに出る。それでさらにそこを左に曲がって直進したら、交差点があるよね。そこから道なりに沿って行ったら、駅舎が見えてくるから、そこに入って―――だからえっと、歩いて10分かかるかかからないか、かな」

 「10分!?」

 思わず出た声のボリュームに驚いて、口をふさぐ。
 カウンターの奥から注がれた注目に、目の前の先生に、赤面しながら頭を下げる。
 自分から聞いておいて、なんだか文句をつけているような反応をしてしまったから。

 …にしても、10分もかかるだなんて。

 自分1人で行ったら、比較的、順調に迷ったとしても25分くらい。往復50分かかる。

 ――って、50分!?
 そんなに経過したら、どうなる? 
 胃薬を買って飲んで、無事、元気を取り戻したとして。
 そこで能天気にルンルン状態・健康気分で戻ったとして、そのときは入学試験開始から、約1時間経過している。

 どこをどう考えても、不合格、間違いない――。

 どうしよう。
 地元にトボトボ戻って、学校で先生とやりとりする自分が目に浮かぶ。

 「あら、神崎さん。受験、どうだった?」

 「それが…、薬屋さんの場所がわからなくて、道に迷って、それでも頑張って戻ったら、…試験開始から1時間くらい過ぎていて…。受験し損ねてしまいました…」

 『そんなのいやぁぁーーーーーーー!』

 声に出さずに、佐織は叫ぶ。
 そんな目に遭うために京都へ来たわけじゃない。
 だいたい、頑張ってお金貯めて旅行して、そこで道に迷っただけで地元へ戻るだなんて、何をやってるんだって話だ。

 でも、どうしよう。

 受験したい。
 できれば合格したい。
 そして京都で暮らしたい―。
 だけど、だけど、だけど―――!

 …と、佐織が顔を赤くしたり、青くしたりしているのをどう思ったのか―。

 「えーっと、そのー……神崎さん?」

 突然、名前を呼ばれて、現実へと舞い戻る。

 「え、な、な、なんで知ってるんですか、私の名前!」

 「そ、そりゃあ…、制服に名札ついてるもん。それはそうと、薬屋に大事な用事でもあるの? 見た感じ、特売のシャンプーをまとめ買いしたいとか、そういうふうにも見えないけど」

 どこからどう見てもニヒルな雰囲気漂う人が、低い声で“特売”なんていうと、なんだかそこだけ浮いているように聞こえる。佐織は視線をさ迷わせつつ、考えた。

 「はあ…。まあ、そうですね…」

 ここで打ち明けた方がいいのだろうか。
 “浮かれて朝ごはんを食べ過ぎて、胃痛をおこしてしまいました”って。
 ――いや、そこまでバカ正直に言う必要もないかもしれない。

 じゃあ、どこまで言えばいいのだろう………?

 「うーん………、えっと、そのー……」

 何気なく、お腹をさする。
 すると香坂先生が閃いたように、笑みを浮かべた。

 「ああ、なるほどね」

 そのまま踵を返し、窓際の席まで行って引き出しを開ける。

 「えーっと。確か、まだ残ってたよな………お、あったあった」
 
 縦に長い、小さくて薄めの袋と水の入ったペットボトルを出してきて、こちらへ戻り、カウンターに置く。
 袋に書かれた文字に、佐織は目頭が熱くなった。

 市販の“総合胃腸薬”―。
 瞬間、香坂先生の姿が天使に見えた。

 「先生、これ……」

 「いやぁ、悪い悪い。さっきから、やたらと腹をさすってんなーと思ったんだけど、確証がなかったというか。鈍くてごめんな」

 これでいいんだよな、と念押しされて、佐織は何度も何度もうなずいた。
そして気がついて、カバンに手を入れる。肌に馴染んだ財布を取り出して、尋ねた。

 「あの。おいくらですか?」

 「え? 何。お金くれるの」

 からかうような返事に、佐織は大真面目に見つめ返す。

 「はい。だって、タダではもらえませんから…」

 頑なな態度に、香坂先生はふーんと感心したように腕組みした。

 「のほほんとしてそうで、意外と固いんだなあー。もらえるものはもらっとけばいいのに」

 「でも、タダでなんて……」

 「ま、いいや。じゃ、出世払いってことにしよう。これは”さ迷える受験生”への、俺の個人的好意だから、…それでも気がすまないっていうなら、そうだな。きみが大人になって、就職でもしたときに飲み代でもおごってくれ。それでいいや」

 「…え、飲み代…って」

 未成年だからよく知らないけれど、飲み代って結構、高くなかっただろうか。
 胃薬とお水を飲み代と引き換えにするだなんて、この先生、意外と――。

 「ケチだって思ってるだろ?」

 いきなり核心を突かれて、佐織は大きく手を振る。

 「い、い、いえ、いえ、いえ。べ、別に、そんなこと…」

 「ま、いいや。何も本当におごってもらおうだなんて思ってないし。とりあえず、飲んだ方がいいよ。試験が始まるまで、もうそんなにないから」

 言われて、香坂先生の背後――壁にかかった丸い時計を見る。
 開始時間まで10分を切っていた。

 「わ! じゃ、お言葉に甘えて…いただきますっ」

 薬袋の切り込み部分に指を当て、封を切って、口に入れる。
 と、同時に、香坂先生がフタを回し開けてくれた。

 「はい、どうぞ。受験生さん」

 「はひ…」

 一息に飲み込む。
 口の中に広がった粉を流し込む。

 苦い、ものすごーく苦い―――。
 けれど、なぜだか体の奥からは、ぐんぐん力がみなぎってくるような気がして、佐織は気がついた。

 『頑張ろう…』

 もらったのは薬だけじゃない。
 きっと、ほかにもっと……ありがたいものをもらったのだ、と。

        次回”スタートライン~6~”へつづく

  

神崎佐織ラフスケッチ決定分その1
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スタートライン~4~

 京都コンピュータ学院京都駅前校・2階事務室前―。

 入学試験開始まで、あと15分―。
 手首を裏返してそう確認したあと、佐織は高ぶった気持ちを整えるべく深呼吸した。

 本当ならもうそろそろ、試験会場となる教室へ移動していなければならない。

 だって、15分前。不慣れな場所でロスする移動時間を鑑みて、さらに若干の余裕をプラスするなら、そうしていなければならない時刻である。
 
 事実、ロビーでざわめいていた受験生たちも、大半がいなくなっているし。

 それなのに、それなのに。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 受験生たちの流れを外れて、やってきたある場所で、佐織は小さくため息をついた。

 「私、試験を受けに来ただけなのに……」

 もともと、それほど“予想外の展開”を好む性質ではない。
 できればすべて“予想できる範囲内”におさまっていて欲しい、いつだってそう思っている。

 今日みたいな、ビッグイベントのときは特にそう。
 出来ればつつがなく試験をこなして、そのまま帰れたら良かったのだけれど――。

 実際には、そういうわけにもいかないようで――。

 「う」

 いきなりのテンションダウンにつき、負担がかかったのだろうか。
 再び、悲鳴を上げかけたお腹をなだめるべく、そっと手のひらを当てて、佐織はカウンター前へと踏み出した。

 カウンターの向こうにいる先生たちに、勇気を振り絞って呼びかける。

 「あの…その、すみませーん」

 受験前だからか、はたまた慣れない環境だからか、……おそらく、その両方だろうけど。
 語尾にいくに従って急速に落ちていく声を意識して、うつむいてしまう。

 そんな小さな声が聞こえなかったのだろう。
 カウンターの内側では、パソコンに向かって作業をしていたり、軽い打ち合わせのようなものを交わしたりしていたりと、先生らしき人々が数人、それぞれに忙しそうにしている。

 どうやら、聞こえていないようだ。

 どうしよう、忙しそう。
 あとにした方がいいのかな?
 でも――えっと、しん………新城さんっていったっけ。あの人は受験票が無くて、佐織がこうしている今も困り果てているかもしれない。

 彼女のサングラス越しに見えた腫れぼったい目元と、ほんのり赤くなっていた鼻を思い出して、佐織はカバンに添えた手をきゅっと握り締めた。

 「ちゃんと言わなくちゃ」

 と、決意したその横をすっとすり抜けるようにして、1人の少女がカウンターへ手をかけた。
 かすかにこちらを振り返って、無愛想にボソッと言い置いて。

 「何をグズグズしてるんだか。そんな小さな声じゃ、気付いてもらえないわよ。くだらない」

 彼女はすうっと深呼吸して、ショートカットの髪を軽く撫で付けて。
 それから女子のこちらが見惚れるほどの微笑を浮かべて、声を張り上げた。

 「お忙しい中を失礼致します。私、本日、奨学金制度について詳しくお聞きしたいとご連絡しておりました、桂木えりと申します」

 瞬時にガラリと変わった印象、そして雰囲気に圧倒されながら、佐織は彼女を食い入るように見つめて、――気がついた。

 『うわ。この人、美人だ!』

 切れ長の目や薄い唇、それから形の整った鼻が絶妙な位置に収まっていて、シンプルなシャツと、すらりとしたジーンズから伸びた手足は長くて細い。
しかもスリムなだけではなく、どうやらちゃんと出てるとこ出てますっていわんばかりのスタイルだし……。

 対して、隣にいる自分はというと。
 顔立ちは幼くて、身長は低いし、ついでに食べすぎで胃痛に悩まされている。

 あぁ、京都は美人の多い土地だというけれど、まさかこんなに早くに出会ってしまうとは―!
 佐織は、軽くショックを受けていた。

 ―――って、そんな場合ではなかった。

 パソコンから目を上げた先生が、こちらへとやってくる。

 「あ、桂木さんですね。ちょっと待ってくださいね、担当の先生を呼びますから」

 先ほど、佐織に向けた無愛想さなんてカケラもない。
 桂木さんは、にこにこと愛想笑いを浮かべてお辞儀をした。

 「はい。よろしくお願いいたします」

 内線電話だろうか。
 数回、プッシュして相手を待つ間、先生は佐織の姿をみとめて尋ねた。

 「あなたは付き添いの方?」

 良かった、声をかけてもらえるだなんて。
 渡りに船とばかりに、佐織は激しく首を振った。

 「い、いえ。私は別の用事で…」

 すると先生は、相手が出たのか受話器の口元をふさいで、微笑んだ。

 「そうなんだ。ごめんなさいね、お待たせして」

 顔の前で手を振る佐織に頭を下げて、彼女は辺りを見渡す。
 事務所の奥、窓際そばの机から立ち上がろうとしていた男性に声をかけた。

 「コウサカ先生。対応、お願いします」

 「あ、はい。俺ですかー?」

 男性がこちらを見上げたので、彼女は無言でうなずくと、受話器にかけていた指先を外して話し始めた。

 「あ、もしもし、2階事務室ですけど。奨学金制度のことでお約束のあった桂木さんがみえてますので…」

 依頼を引き受けた男性は手元の作業に集中していたのか、しばし目をパソコンに落としたまま、佐織に向かって手を振った。

 「ごめんねー、ちょっと待っててくれない。2秒で行くから」

 言いながら手元にあるプリントの束を起こしてトントンと角を揃えてから、薄い本とともに小脇に抱えてこちらへやってくる。
 カウンターのそばに荷物を置いて、彼はこちらを向いた。

 「こんにちは。どんな御用かな?」

 「こんにちは、コーサカ先生」

 「あ、”ー”って伸ばすんじゃなくて、”ウ”を入れといて。コウサカっていいます。ちなみに漢字は香川県の香に、坂道の坂」

 「”香坂先生”…」

 「そ。よろしくね」

 さらっと自己紹介して、にやりと笑う姿はどこかニヒルな雰囲気を漂わせている。

 推定年齢は30代前半というところだろうか。
 がっしりとした体つきに、どことなく斜にかまえたような目つき―。
もう少し年を重ねたら、葉巻の似合う“ダンディなタイプ”になること確実なタイプに見える。

 こうしている今も、学校の先生のはずなのに、初対面の女子高生に対して柔和な笑みを向けてくれているはずなのに、大人の香りがぷんぷんする、というか――。

 こんなタイプ、テレビでしか見たことが無い。
 まったく今日は、初体験の多い日だ。

 と、息を呑んだところで、佐織ははたと気がついた。

 『……って、見惚れている場合じゃなかった!』

 首を振って妄想モードを切り替え、スクールコートのポケットから、例の紙切れを出す。

 「あの。こんなものを拾って。…その、大事なものかと思いましたから」

 前置きして、カウンターの上に置いたそれを、香坂先生が探るように細長い指先でつまみあげる。
 もう片方の手をアゴに当てて唸りながら、彼は苦笑いをした。

 「あー、受験票かぁ。確かに大事なものだなあ…」

 困ったもんだ、と苦笑いをして、まるで幼い子供を見るように、温かい眼差しを受験票に注いでいる。

 あれ、もしかしてこの先生、優しい――?
 ニヒルだけではなく、こういう一面もあるだなんて。きっと、この落差にまいってしまう女性は多いと思われる。ギャップっていうのかな、そういうのに弱い人って多いらしいから。

 ―――なんて、全部、恋愛小説の受け売りだけれど。

 さて、目の前の少女がそんなふうに納得しているとは露知らず、先生はプリントの束の上にそれを置いた。

 「ありがとう。俺から渡しておくよ。………えっと、ほかに何か聞きたいことはある?」

 「え、えっと…」

 手首を裏返して、時間を確認する。
 受験開始まで、あと10分―。
 そろそろ、――というか絶対にもう移動しなければならない時刻である。

 それなのに。
 自分が気付くより先に、口は――勝手に脳みその意向を無視して、体のそれを優先させていた。

 「あ、あのっ……!」

       次回”スタートライン~5~”へつづく

 ↓桂木えり・ラフスケッチ~藤崎聖・画~

 

桂木えりラフスケッチ
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スタートライン~3~

 京都コンピュータ学院京都駅前校・正面入り口―。

 「…あれ?」

 入学試験開始まで、あと30分―。
 手首を裏返してそう確認したあと、佐織は体のどこかに違和感を覚えた。

 まずい。
 何だかものすごーく、良くないことが起きるような気がする…ような――?

 片手を肩掛けカバンに添えたまま、もう片方の手を恐る恐るお腹に当てる。
 瞬間、予感が確信へと変わった。

 「お腹が…痛い……」

 つぶやいて自覚したとたんに“食べすぎ”の4文字が、重く体にのしかかる。さーっと顔から血の気が引いていく。
 同時に、待っていましたとばかりにみぞおち付近から、小さな痛みが走り始めた。

 キリキリ…キリキリ…キリキリ……

 悲しいほどに規則正しいリズムに、わずかに体をくの字に曲げる。

 「う…」

 これでも無事、時間通りに着くまではと遠慮してくれていたのだろう。
 心配事から解き放たれた胃は、次第に痛みを増していくように思われた。

 キリキリ…キリキリ…キリキリ……

 こんなことなら、最後のデザートを控えておけばよかった。
 甘いあずきと、その中でプカプカ浮いていた白玉団子が頭の中に蘇る。甘いものは別腹だって言い訳して、ぱくっと食べてしまったけれど、あそこできちんと自分にブレーキをかけておけばよかったのだ。

 今日は受験日なんだぞ、食べ過ぎちゃダメだぞ。しっかりしなさいって。

 いや、もしかしたら、それでもやっぱりお腹は痛めていたかもしれない。
 あのパンパンになったお腹から、小皿入りのデザートを引いたくらいで、さほど容量が変わるとも思えないから。

 ――なんて、どちらにしても後の祭りなわけだから、今更、どう嘆いても手の尽くしようがないんだけど。

 深呼吸を何度かして、ちょっとだけ楽になった体を休めるべく、辺りを見渡す。
 試験が始まるまで、まだ時間がある。とりあえず、どこかに座ろう。座って、自然と楽になってくることを祈ろう。自己治癒力を信じよう。

 階段を軸にして、半ば祈るような気持ちでその周囲を歩く。
 刻々と迫る時間の中で、少しずつロビーにはひと気が増えてきているように思えた。

 ウィィン…

 自動ドアが開く音がして、足音が響いてくる。
 佐織と同じように1人だったり、友人と思われる人と一緒だったり、さまざまな組み合わせがロビーへ集まってくる。理系というだけあって男子が多いけれど、女子がいないわけでもなく。

 ただ、ほぼ全員が、特に派手でも地味でもなく、わりとどこにでもいるような平均的な高校生に見えたので、佐織はちょっとだけホッとしつつ、歩き続ける。

 自分の同級生になるかもしれない人々が、もしかしたら友達になるかもしれない人々が、参考書を開いて復習していたり、友人らしき組み合わせで歓談しているそばを、ひたすら休憩できる場所を求めてさまよい続けた。

 そして。

 「あった」

 か弱くつぶやいた視線の先は、階段の真後ろ―。
 学生たちが等間隔を開けて座るベンチの隅に空席を見つけて、佐織は力なく笑んだ。

 良かった、人生悪いことばかりじゃない。
 佐織はひとまずそこへ腰掛けて、カバンから取り出したハンカチで額の汗をぬぐった。

 「ふぅー……」

 うつむいて肩を落とし、ゆっくりと息を吐き出す。
 どうか痛みが出て行きますように、もしそれが無理なら、せめて午前中は静まってくれますようにと願いながら。

 と、そこへ―。

 ウィィン……

 自動ドアが開く音がして、一瞬、ロビーのざわめきが止まった。
 人々の視線がドアに集中する。

 ある人は目を丸くし、またある人は眉根をひそめて怪訝そうに、正面入り口に注目している。

 なんだか異様な雰囲気が漂い始める中、 佐織は痛みを忘れて、軽く腰を浮かせた。

 「どうしたんだろ?」

 お腹に手を当てたまま、人影の合間から、彼らの視界をとらえようとする。立ち上がって軽くジャンプしたり、再びベンチに座って身を傾けてみたり…。

 考え付く限りの案を実行して、佐織は足を投げ出してため息をついた。

 「この人たち、なんでこんなに背が高いんだろ?」

 正解は前の人垣の多くが、男子だから――と言われれば、それまでなんだけど。
 思いもかけずに訪れた状況に、佐織は久しぶりに自分の身長について思い出した。

 「そっか。私って、本当に背が低かったんだ…」

 ちょっと感動。
 そうか、男子がいるってこういうことなんだ。

 ほとんどの注目が前方に注がれる中、佐織はそのことも忘れて1人、小さく手を打って納得していた。

 と、その時―。

 コツコツコツコツ…

 静まり返ったロビーに、足音が反響し始めた。

 これまで集まってきた、誰の足音でもない。
 スニーカーでもローファーでもない、低くて強いこの音は――ブーツ。
思い出したように見やると、たくさんの足の合間からのベージュのブーツが近づいてきていた。

 あずさが履いているようなスリムなものではなく、もっとヒールが太くて筒の部分に大きなボンボンがついているような、いわばちょっとギャルっぽいブーツが―。

 受験にこんな靴で来るなんて。
 これが関西のスタンダードなのだろうか。
 都会の女の子にとって、これは普通の格好なのだろうか。

 驚きで目を丸くしながらも、佐織は首を振った。

 いや、そんなはずはない。
 出願する際に問い合わせた入学事務室の人も、そんなこと言っていなかった。

 「ギャル系の女の子は、ギャルっぽい格好で来てくださいねー」

 なんてことは、全然。

 そもそも、趣味や嗜好で受験の服装が変わるだなんて聞いたことがない、何かのオーディションじゃあるまいし。

 『でも、受験って考えようによっては、一種のオーディションと言えなくもないよね…?』

 と、頭の中の話が、だんだん脱線気味になってきたところで。

 コツ…

 ある人垣の前で、ブーツの足音が止まった。
 すかさず、その人は険のある声を出した。

 「ちょっと、邪魔。どいてもらえる?」

 低い。
 それになんだか、かすれているような――?
 喉でも痛めているのだろうか?

 自分自身が先ほどまで強い腹痛に悩まされていたので、きゅっと胸が痛くなった。

 でも、そう同情的になったのは、どうやら佐織だけだったようで。

 「は、はいっ」

 迫力に圧されたのか、言われた男子がたじろいで道を開けた。

 そっけなく、どうもと言い残して、少女は歩き出す。

 「…ったく、なんでこんなに人がいるのよ」

 聞こえよがしにつぶやいて、女子よりもはるかに多い男子の群れを突っ切っていく。

 コツコツコツコツ……

 静まり返る人々の上を、ブーツの足音が反響していく。

 迫ってくる彼女に気おされたのか、佐織の目の前、ちょうど人の垣根がほどけたところに彼女が姿を現した。

 「ぎゃ……」

 思わず漏れた言葉を、口を覆って封じる。
 周囲の注目がいっせいに佐織に注がれると同時に、少女は立ち止まって、正面からこちらを見据えた。

 「何か?」

 「い、いいえ」

 ぶんぶんっと首を振る。

 手のひらの下で、声を出さずに唇だけ動かした。

 『ギャルだ、ギャルだ。ホンモノのギャルだ~~~』

 テレビ番組で見たことはあるけれど、実際に遭遇するのは初めて。まさか、こんな場所で会えるだなんて。きっと、あずさが聞いたら、地団太踏んで悔しがるだろう。

 茶色というよりはそれを通り越して若干、白くなっている髪も、長いトレーナーの裾からフリルを出した膝上10センチはありそうな服も、ついでにブーツも。
 どこをどう取っても、ギャル。ホンモノのギャルだった。

 ただ1つ、大きなサングラスをかけていること以外は――。

 サングラスを外せば、もっとそれらしくなるだろうに。
 その部分だけが、まるで取ってつけたかのように違和感を生み出していた。

 まぁ、だからと言って、初対面の女子に無邪気に尋ねるようなこと、できるはずもない。。

 もしかしたら、将来のクラスメイトかもしれないのに、そんな目で見ちゃ、ダメ。
 佐織は現実では愛想笑いを、心の中では自分の頭をぽかぽか叩いていた。

 その様子を、少女は苦虫を噛み潰したように見つめ返している。

 ――と、まじまじと見つめあったところで、佐織はあることに気がついた。

 『あれ。この子の鼻、ちょっと赤い?』

 注意してみれば、サングラスの奥にあるまぶたも腫れぼったいような――?

 「あ、そうか」

 ここで佐織は、ぽんと手を打った。

 そうか、わかったぞ。
 あれが原因で彼女は機嫌が悪かったんだ。
 おばあちゃんが昔から言い聞かせてくれた言葉を思い出す。

 『困っている人がいたら、親切にしようね』

 それにうなずきながら佐織はカバンに手をいれ、ポケットティッシュを差し出した。

 「花粉症ですか、もしかして」

 問われて、少女は一瞬だけぽかんと口を開けて、それから顔を赤らめて否定した。

 「ち、違うわよっ!」

 なんだ、見当違いだったのか。
 ぽりぽりと頭をかく佐織をよそに、彼女は歩き出した。

 「さよならっ」

 戸惑いを含んだ言葉を残して、迷うことなく建物の奥へ奥へと進んでいく。歩みにブレがないところを見ると、どうやらここに来るのは初めてというわけではなさそうだ。

 「さよなら…」

 突き返されたティッシュをしまいながら、その背中に挨拶を返したあとで。
 
 「あれ」

 ひらっと何かが、彼女のコートのポケットから流れ落ちた。

 「え?」

 思わず、駆け寄って拾い上げる。

 一度、握りつぶしたような跡がついたそれは一枚の紙切れ―。
 佐織が今朝、ホテルを出る前に何度も持ち物確認したうちの1つ。

 今日の必須アイテム、受験票だった。

 「ちょ…!」

 こんなものを落としては大変だ、すぐに届けてあげないと。

 佐織はベンチから立ち上がり、少女が歩いていった方向へと突き進む。

 ロビーの奥へ、奥へと進んでいく―。

 そして、左に折れたところで愕然とした。

 「あっ!」

 しまった、知らなかった。
 閉じたばかりの扉の上で、数字が1つずつ点滅していく。上へ、上へと上がっていく。

 ロビーの奥はエレベーターホールだったのだ。
 で、彼女はそれに乗って違うフロアへと行ってしまったのだ。

 「あーあ……」

 どうするんだろう、受験票なんて落っことして。
 ちゃんと試験、受けられるのかしら。

 困ったなあとため息をつきながら、佐織はそこに記された名前をつぶやいた。

 「“新城なつみ”さん、かぁ……」

 大丈夫なのかなぁ、という心配の気持ちをこめて――で、次の瞬間。

 キリキリキリキリ……

 「うっ!」

 心配事にひと段落ついたと判断したのだろう。
 またまた、ほっとしたところで、胃が痛み始めたのだった。

       次回”スタートライン~4~”へつづく

 ↓ 新城なつみのラフスケッチ~藤崎聖・画~
 

新城なつみラフスケッチ

 

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スタートライン~2~

 これは一体、何を示す文字なのだろう。

 受験日の朝―。
 泊まっていた部屋を出て、ホテルのレストランまでやってきた佐織を見慣れない単語が出迎えていた。

 「ビュッ…フェ……?」

 ゆっくりと首を傾げる。
 
 そう。
 目の前にある、斜めに傾いたオシャレな看板にはめ込まれたメニューの先頭には、確かにそう大きく書いてあった。

 カタカナで5文字、“ビュッフェ”。
 その下には和食やら洋食やらのメニューが並び、反対側にはいくつもの大皿に盛られた色味あざやかなお料理の写真が、“メニュー例”と称してくっついていた。

 もうかれこれ、5分は経過しているだろうか。ずっと立ち尽くしたまま、佐織は1人、頭を抱え続けていた。

 「ビュッ…フェ……って何?」

 と、ぽつりとつぶやいたりして。
 はたから見たら、ちょっと怪しい人かもしれないけれど、この時期はどうやら観光シーズンではないらしく。先ほどからレストランの奥から、時折、カチャカチャと食器を準備する音がするだけで、人っ子一人通らない。

 せっかく張り切って、朝食開始前にやってきたのに。
 部屋から出てカードキーをポケットにしまって、貴重品も持って、万全の体制で臨んだはずなのに。

 エレベーターを出て、少し歩いてレストランを見つけて、はずんでいた歩みはそこでピタッと止まってしまった。

 「ビュッ…フェ……って何?」

 って―。

 こういうとき、あずさならきっと無難に人に聞くことができるかもしれない。いや、むしろ、そんなの聞くまでもないのかもしれない。18になる今まで、ほとんど地元から出ることなく過ごしてきた佐織とは違い、あちこち旅行へ出かけることに慣れたあずさだから。

 きっと、佐織がこうしてレストラン前でオロオロしているのを見かけたら、いつものように意地の悪い笑みを浮かべて、こう、アゴに指なんかかけて上から目線で言うに違いない。

 「ビュッフェって何、ですって。まさか佐織ちゃん、ビュッフェも知らないの。おっくれてる~。それでも18歳なの?」

 …いや、いくらあずさでも、ここまでキツイことは言わないだろうけれど。

 でも、何しろ、ただ今混乱中の佐織にとっては、この見知らぬ単語の意味を知らないということは、ものすごく恥ずかしい気持ちになっていたのだ。

 「え、えっと…」

 最後の頼みとばかりに、肩から斜めがけしたポーチからチケットを取り出す。
 正面にはお食事券という文字、裏面にはレストランまでの簡単なフロア地図…それだけ。

 けれど、場所も時間も間違っていない。

 だからたぶん、このお食事券と引き換えに朝食が食べれるのだと思う。

 食べれる、はず……なんだけ…ど。

 迷えば迷うほどに、佐織は自信をなくしてしまっていた。

 「ビュッ…フェ……」

 看板を前にしたまま、うなだれる。
 “バイキング”なら、知っているんだけど。
 
 思い出せば出すほどにこの写真は、どう見ても地元のホテルでやっている“バイキング! シェフ自慢の料理が120分食べ放題!”という広告に使われているものと似ている気がするんだけど。

 『でも、でも、でも……!』

 心の中でつぶやいて、佐織は頭を抱えた。

 もしこれが、自分の知る“バイキング”ではなかったらどうしよう?
 おなかいっぱい食べて、お会計のときにお食事券を出したときに、

 「申し訳ございません。お客様、こちらのチケットはお使いいただけません」

 なんて冷たい眼差しで言われたら、それで法外な金額を請求されたらどうしよう?!

 混乱する頭の中に、以前、大好きなお笑い番組で芸人さんたちがやっていたやりとりが蘇った。

 「さんざん食っておいて、金がないだと!?」
 
 「すいません、ないんです。皿洗いさせてください」

 「さ、皿洗い……!?」

 佐織は愕然とした。
 街角の定食屋さんならまだしも、ここ、佐織が今回泊まったホテルはそれなりの大きさで。

 そしたらたぶん、想像以上のお皿、それからたくさんの大きなお鍋やフライパンもあるはずで、そしたら…そしたら…。

 「受験に…間に合わない…?」

 どうしよう。
 地元にトボトボ戻って、学校で先生とやりとりする自分が目に浮かぶ。

 「あら、神崎さん。受験、どうだった?」

 「それが…、ビュッフェの意味がわからなくて、おなかいっぱい食べ過ぎて、追加料金を請求されて…それで払えなくて…。ずっと皿洗いしているうちに、受験し損ねてしまいました…」

 『そんなのいやぁぁーーーーーーー!』

 声に出さずに、佐織は叫ぶ。
 そんな目に遭うために京都へ来たわけじゃない。
 だいたい、頑張ってお金貯めて旅行して、そこで皿洗いして地元へ戻るだなんて、何をやってるんだって話だ。

 でも、どうしよう。
 ビュッフェって何?
 追加料金はいくら必要?
 でもそれって、レストランに入って聞けばいいの?
 
 なんだかわからないことがいっぱい…。質問するの、恥ずかしいよ………。

 混乱の中をさまざまな思いが駆け巡っていく。
 
 と、その時だった。

 ぶるぶるぶる……

 「ひゃっ!」

 奇妙な物音に、パニック状態から現実へと舞い戻る。

 「誰よ、こんな朝から…?」

 コートから携帯電話を出して、折りたたまれた携帯の小さなディスプレイに“Eメール受信”の文字を見つける。
 親指を何度か押して、差出人の項目に“実佐”と出たそのメールに添付された写真に佐織は思わず、顔をほころばせた。

 「わ…キレイ…」

 朝陽を浴びてきらめく桜並木の一本道が、おそらくシャッターを切る前に手元を動かしてしまったのだろう、少し滲んで写っていた。

 普段は、機械系が大の苦手なくせに。
 自分は女子として撮るより撮られる側でありたい、だなんて言って、カメラを持つことすらも拒否しているくせに。そんな妹がわざわざ、友達に借りたカメラで写真を送ってくれたのだ。

 うれしくないはずがない。
 佐織は胸がじーんと熱くなった。

 「ありがとう、実佐…。私、頑張る……」

 そうつぶやいて目のふちをぬぐい、幸せな気持ちでいっぱいになったとき。

 「あ」

 ぽんと手を打って、佐織は気がついた。
 そうかその手があったんだ、って。

 「また、妄想特急しちゃったよぅ…」

頭をぽりぽりかいて、佐織は親指を動かして、メールボックスを閉じる。
 インターネットに切り替えて、つい最近読んだばかりの説明書を頭の中でめくっていく。まったく新しい機種ではないけれど、IT系に興味を持ったときから少しずつ読んで使い方を覚える努力をしてきたのだ。
 
この際だからパソコンだけではなく、ほかの家電にも強くなってみようかなーと思って、ほんのちょっとだけ。
 それがこんなときに役に立つだなんて。これも頑張った賜物、ってものだろうか。

 佐織は1人で大きくうなずきながら、ボタンを押して、少しずつサイトの中を進み――そして。

 「あった!」

 たどり着いた検索サイトに“ビュッフェ 意味”と打ち込んだ結果――。

 「そっか。ビュッフェってフランス語なんだー。バイキングと同じ意味なんだー」

 ぐずぐずしていた原因をすっきり取り去った佐織はようやく胸を張って、レストランに入っていった。

 「おはようございまーす」

 店員さんの明るい笑顔に、なぜだか誇らしい気分になりながら佐織は元気に挨拶を返す。

 「おはようございまーーす」

 ご飯をたくさん食べてお腹いっぱいになったら、KCGに行こう。
 合格して、この町でたくさんたくさんレベルアップしていこう。さっきみたいに少しずつ、少しずつ…。

 こうして佐織の受験日が始まった。

       次回”スタートライン~3~”へつづく

 

神崎佐織ラフスケッチ決定分その3
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スタートライン~1~

 ゴトン…ゴトン……

 電車が揺れている。
 そのリズムが疲れた体に心地いい。
 思えば今朝は早くから起き出して移動に移動を重ねた上に、あちこち道を間違ってしまったから。

 出なくていい改札口を通り抜け、乗らなくていい電車に乗り込み、逆に乗るべき電車を逃し、ホームで途方にくれていたところを駅員さんに助けられたり――。

 一応、二回目なのに。
 以前に辿った道をそのまま、辿りなおしているだけのはずなのに。

 それなのに、それなのに――!

 乗り換え不要、目的地まで直行の車両に揺られながら、佐織は控えめに地団駄ふんだ。

 「どうしてこんなに迷うのよぉぉ~~~……」

 こんなことなら、昨夜、“出陣祝い”と称してあずさが来てくれたときに、ちゃんと受け取っておけばよかった。“あずさちゃん特製・市販の地図よりも、ネットの路線案内よりもわかりやすい、佐織ちゃんのための京都行き詳細マップ”とやらを。

 そしたらこんな、移動時間が倍近くかかってしまうなんてことはなかったはずだ。

 細く長く息を吐き出しながら、佐織は心の底から自分の持って生まれた特性を恨んだ。

 それからすっかり“出陣祝い”ムードな夕食の中でカッコつけちゃって、

 「大丈夫大丈夫。1回行ったんだもん。京都くらいすんなり行けちゃうよー」

 なんて、見栄を張ってしまった自分の口も。
 こうしている今も、人目がなかったら、つまんでしまいたいくらいだ。そうしたら少しは気がまぎれるかもしれないから。

 道を間違えたことへの恥ずかしさ、そしてそれ以上に自分に重くのしかかっている、……”緊張”、という状態から。

 「まずい、まずい」

 自覚しそうになって、佐織は大きく首を振る。
 そして気分転換にと外の景色を眺め、あれこれ考えているうちにまた、旅行カバンがずれ落ちそうになっていたり……して―?

 「!?」

 前回のことを思い出して、佐織ははっと下を向いた。
 良かった、手はしっかり膝の上にある旅行カバンを抑えている。
 ずり落ち防止対策は万全だ。

 1人で大きくうなずいて、佐織はふとネームタグのそばで揺れているものを手に取った。
 同じ神社の、同じ色の、同じ目的のためのお守りが2つ―。
 1つは自分、もう1つはあずさが買ってくれたそれらを交互に撫でながら、佐織はこの怒涛の1ヶ月を思い返した。

 年明け早々―。
 進路変更への決意を固めたものの、迷ったり、決意したり、でもまた迷ったりで、なかなか言い出せない時が過ぎた、新年最初の家族団らんにて―。
 
 おせち料理を前に、佐織はついに宣言してしまった。

 「私、N大学には行かない。京都行くっ!!」

 なんて―。

 今思えば、どう考えてもよくないタイミングだったよなー…と思う。
何秒かの静寂を経て、家族はみんないっせいに大騒ぎし始めたし。

 「さ、佐織。何を言ってるんだ。大学行かずに旅行するだなんて何をわけのわからないことを…わっ!」

 と、立ち上がりかけて、飲みかけのグラスを倒してしまうお父さんの横で、お母さんはふきんを使って畳の上を拭った。

 「お父さんったら、ビールこぼれてる。ほら、私の言ったとおりだったでしょ。お母さんわかってたわ。佐織はやっぱり、何か悩みを抱えてたのね…………って、え、京都?」

 その向かいにいた実佐が、急速な雰囲気の変化に一瞬、顔を青くして腕を伸ばした。

 「まずっ!」

 小さくつぶやいて、即座にお母さんの手元にあったぽち袋を1枚、回収する。そのままの勢いで、ぺこりと頭を下げ、彼女は早口にお礼を述べた。

 「あけましておめでとうございます。お年玉、いただきます」

 そそくさとポケットにしまう。
 直後、おばあちゃんがずずっとお茶をすすったところで―。

 説得が、始まった。
 神崎佐織、一世一代の大説得が――。

 それから学校へ進路変更の手続きをして、あずさには合格するまで打ち明けられなくて、でもバレて、それが原因で気まずくなった時期もあった………けれど、けれど…。

 大丈夫。
 もう凹まない。
 きっと、うまくいく。

 思いのたけをすべて話して理解を得たとき、自分が選んだ道を手に入れた爽快感が、佐織の心をすうっと突き抜けていった。

 あれは大人になるための第一歩…だったのだろうか……なんちゃって、思い出すと照れてしまうけれど。

 そして今――。

 ゴトン…ゴトン……

 あの年末と同じ。
 佐織は、京都へと向かっていた。

 けれどもちろん、悩んだり凹んだりしながら電車に揺られていたあのときとすべてが同じ、というわけではなくて。

 重い気持ちなんて、微塵もない。
 心の奥から、強い力が流れてきているのを感じていた。

 流れる景色は夕焼けに包まれていて、とても優しくて、それだけなのにほほがゆるんでしまう。

 ほんの数ヶ月前までは、知りもしなかった世界が。
 思いもしなかった未来が、どんどん近づいてくる――。

 そんな世界で暮らす自分を思うと、胸が躍る。いろいろなシーンを想像しては、ついついニヤけてしまう。

 受験は明日だというのに、もう受かってしまったかのような言い方だけれど、別にかまわない。楽しい気持ちでリラックスして受ければ、きっと、大丈夫。
 限られた時間の中で、自分なりに準備してきたのだもの、大丈夫。自分に自信を持って、しっかりつかんでみよう。

 「私の、未来を…」

 流れる景色を横に噛み締めた言葉に、車内アナウンスが重なった。

 「まもなく京都―、京都。○○線お乗換えの方は△番乗り場から…××線お乗換えの方は…」

 新たな出会いが、すぐそこに迫っていた。

       次回”スタートライン~2~”へつづく

  

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