マグロが危ない②

マスコミで大間のマグロを食すタレントの番組が放映される。
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たいして味もわからないような若いタレントが,それを美味い!と連呼する。
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それを見た視聴者が,マグロを食べたくなる。
あるいは,グルメ漫画を読んで,マグロを食べたくなる。
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そして,仕事帰りの飲み屋で注文したり,近所のスーパーで冷凍マグロを買って食べ,食欲を満たす。

このロジックにある徹底的な誤謬は,マグロという名称,あるいは,マグロを食すという行為のパラダイムに残る,マグロという概念のすり替わりである。それは本当に美味いマグロなのかどうかということである。
それは,放映されたり,漫画に描かれた「美味いマグロ」なのではなく,かつてマグロであった魚肉の冷凍あるいは冷蔵の流通品に過ぎず,そこには,その本来の味覚など無い。そこにあるのは,元,マグロであった,唯の屍であり,肉汁が抜けた藁である。冷凍戻しのトロが美味いと騒がれるが,冷凍戻しの脂質に舌が反応しているだけである。

食べ物は,冷凍したり古くなると味が変わる。本来はわざわざそのようなものを食べなくても,他にもっと美味いものがあるはずなのだが,人間は言説に左右されるので,「それが美味いマグロであると信じること」と,もうひとつ,「実際に今,空腹である」ことの二つのファクターにより,古くなった,あるいは味の変化したそれを食べて,実際に満足するのである。それは,大手流通会社や大量捕獲企業が跋扈するマーケットとなる。ミシェル・フーコーの言う「パワー(権力)」であり,「言説」である。
ここに,資源枯渇の一番の原因がある。

爆発的に増加する人口の食料確保の問題と,言説に振り回される哀れな消費者の問題とは,明確に分離して考察するべきだろう。海洋資源を大量消費しているのは,人口増加に苦しむ途上国ではなくて,大量消費の国々なのだ。

人類学でも明らかなように,人間は,味覚の学習の結果,どのような食べ物にも順応する。つまり,ある文化様式の中で,それが食べ物である限り,何らかの理由でそれが食べられるようになると,その人々はそれが美味いと言うのである。

例えば,日本人の好きな梅干や納豆は,それを知らない,慣れていない外国人にとっては,信じ難い食べ物である。フランスのウォッシュチーズも,昔の日本人ならば多くは「ゲーッ?!」と言っていたのだが,今は学習した日本人が多いので,それが「美味い」ということになっている。何の栄養にもならないコンニャクなども,その証左のひとつであろう。いずれも,その文化においては,それなりに美味いものとして認知されている。

江戸時代に,それまではむしろ軽視されていたマグロを,美味く食べる方法が発明された。最初は廉く美味いものだった訳だ。
それがやがて多くの日本人にとって「ご馳走だ」ということになり,冷凍技術の進化に伴って,昭和の時代の後半には,日本国内で大量に流通するようになった。それが海外に伝播し,「マグロを食すという行為」が流行していったという,たったそれだけのことである。そこに本質的な意味でのマグロの味覚に対する認識など無い。流行したのは,「言説」だけである。

海洋資源を枯渇させているのは,美食でも味覚でも無く,ましてや人口増加のための対策事業でもない。あるのは,「言説」に過ぎず,それに乗じた営利事業だけである。元々は美味いものを冷凍したり冷蔵したり加工して不味いものに変換し,言説と学習によってそれを大量消費しているのは,実に「もったいない」と思う。

数年に一度でよいから,和歌山の勝浦や,伊豆に旅行して,新鮮なマグロを食べることができたら,それで幸せになれるのだから,仕事帰りの飲み屋や近所のスーパーの冷凍マグロなどに騙されないようにしたい。

美味いものを食べたい,美味いものを食べる,という行為と,言説に騙されてとりあえず今の空腹を満たして満足した気になるという行為の間には,徹底的な差異がある。食欲を満たす行為に観念の所産が加わり,まるでそれがグルメであり,美食であると誤解されているが,そのような消費者が増加する一方で,味覚の本質が雲散霧消していくのは,愚かな話だ。

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