京都コンピュータ学院京都駅前校・2階事務室前―。
入学試験開始まで、あと15分―。
手首を裏返してそう確認したあと、佐織は高ぶった気持ちを整えるべく深呼吸した。
本当ならもうそろそろ、試験会場となる教室へ移動していなければならない。
だって、15分前。不慣れな場所でロスする移動時間を鑑みて、さらに若干の余裕をプラスするなら、そうしていなければならない時刻である。
事実、ロビーでざわめいていた受験生たちも、大半がいなくなっているし。
それなのに、それなのに。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
受験生たちの流れを外れて、やってきたある場所で、佐織は小さくため息をついた。
「私、試験を受けに来ただけなのに……」
もともと、それほど“予想外の展開”を好む性質ではない。
できればすべて“予想できる範囲内”におさまっていて欲しい、いつだってそう思っている。
今日みたいな、ビッグイベントのときは特にそう。
出来ればつつがなく試験をこなして、そのまま帰れたら良かったのだけれど――。
実際には、そういうわけにもいかないようで――。
「う」
いきなりのテンションダウンにつき、負担がかかったのだろうか。
再び、悲鳴を上げかけたお腹をなだめるべく、そっと手のひらを当てて、佐織はカウンター前へと踏み出した。
カウンターの向こうにいる先生たちに、勇気を振り絞って呼びかける。
「あの…その、すみませーん」
受験前だからか、はたまた慣れない環境だからか、……おそらく、その両方だろうけど。
語尾にいくに従って急速に落ちていく声を意識して、うつむいてしまう。
そんな小さな声が聞こえなかったのだろう。
カウンターの内側では、パソコンに向かって作業をしていたり、軽い打ち合わせのようなものを交わしたりしていたりと、先生らしき人々が数人、それぞれに忙しそうにしている。
どうやら、聞こえていないようだ。
どうしよう、忙しそう。
あとにした方がいいのかな?
でも――えっと、しん………新城さんっていったっけ。あの人は受験票が無くて、佐織がこうしている今も困り果てているかもしれない。
彼女のサングラス越しに見えた腫れぼったい目元と、ほんのり赤くなっていた鼻を思い出して、佐織はカバンに添えた手をきゅっと握り締めた。
「ちゃんと言わなくちゃ」
と、決意したその横をすっとすり抜けるようにして、1人の少女がカウンターへ手をかけた。
かすかにこちらを振り返って、無愛想にボソッと言い置いて。
「何をグズグズしてるんだか。そんな小さな声じゃ、気付いてもらえないわよ。くだらない」
彼女はすうっと深呼吸して、ショートカットの髪を軽く撫で付けて。
それから女子のこちらが見惚れるほどの微笑を浮かべて、声を張り上げた。
「お忙しい中を失礼致します。私、本日、奨学金制度について詳しくお聞きしたいとご連絡しておりました、桂木えりと申します」
瞬時にガラリと変わった印象、そして雰囲気に圧倒されながら、佐織は彼女を食い入るように見つめて、――気がついた。
『うわ。この人、美人だ!』
切れ長の目や薄い唇、それから形の整った鼻が絶妙な位置に収まっていて、シンプルなシャツと、すらりとしたジーンズから伸びた手足は長くて細い。
しかもスリムなだけではなく、どうやらちゃんと出てるとこ出てますっていわんばかりのスタイルだし……。
対して、隣にいる自分はというと。
顔立ちは幼くて、身長は低いし、ついでに食べすぎで胃痛に悩まされている。
あぁ、京都は美人の多い土地だというけれど、まさかこんなに早くに出会ってしまうとは―!
佐織は、軽くショックを受けていた。
―――って、そんな場合ではなかった。
パソコンから目を上げた先生が、こちらへとやってくる。
「あ、桂木さんですね。ちょっと待ってくださいね、担当の先生を呼びますから」
先ほど、佐織に向けた無愛想さなんてカケラもない。
桂木さんは、にこにこと愛想笑いを浮かべてお辞儀をした。
「はい。よろしくお願いいたします」
内線電話だろうか。
数回、プッシュして相手を待つ間、先生は佐織の姿をみとめて尋ねた。
「あなたは付き添いの方?」
良かった、声をかけてもらえるだなんて。
渡りに船とばかりに、佐織は激しく首を振った。
「い、いえ。私は別の用事で…」
すると先生は、相手が出たのか受話器の口元をふさいで、微笑んだ。
「そうなんだ。ごめんなさいね、お待たせして」
顔の前で手を振る佐織に頭を下げて、彼女は辺りを見渡す。
事務所の奥、窓際そばの机から立ち上がろうとしていた男性に声をかけた。
「コウサカ先生。対応、お願いします」
「あ、はい。俺ですかー?」
男性がこちらを見上げたので、彼女は無言でうなずくと、受話器にかけていた指先を外して話し始めた。
「あ、もしもし、2階事務室ですけど。奨学金制度のことでお約束のあった桂木さんがみえてますので…」
依頼を引き受けた男性は手元の作業に集中していたのか、しばし目をパソコンに落としたまま、佐織に向かって手を振った。
「ごめんねー、ちょっと待っててくれない。2秒で行くから」
言いながら手元にあるプリントの束を起こしてトントンと角を揃えてから、薄い本とともに小脇に抱えてこちらへやってくる。
カウンターのそばに荷物を置いて、彼はこちらを向いた。
「こんにちは。どんな御用かな?」
「こんにちは、コーサカ先生」
「あ、”ー”って伸ばすんじゃなくて、”ウ”を入れといて。コウサカっていいます。ちなみに漢字は香川県の香に、坂道の坂」
「”香坂先生”…」
「そ。よろしくね」
さらっと自己紹介して、にやりと笑う姿はどこかニヒルな雰囲気を漂わせている。
推定年齢は30代前半というところだろうか。
がっしりとした体つきに、どことなく斜にかまえたような目つき―。
もう少し年を重ねたら、葉巻の似合う“ダンディなタイプ”になること確実なタイプに見える。
こうしている今も、学校の先生のはずなのに、初対面の女子高生に対して柔和な笑みを向けてくれているはずなのに、大人の香りがぷんぷんする、というか――。
こんなタイプ、テレビでしか見たことが無い。
まったく今日は、初体験の多い日だ。
と、息を呑んだところで、佐織ははたと気がついた。
『……って、見惚れている場合じゃなかった!』
首を振って妄想モードを切り替え、スクールコートのポケットから、例の紙切れを出す。
「あの。こんなものを拾って。…その、大事なものかと思いましたから」
前置きして、カウンターの上に置いたそれを、香坂先生が探るように細長い指先でつまみあげる。
もう片方の手をアゴに当てて唸りながら、彼は苦笑いをした。
「あー、受験票かぁ。確かに大事なものだなあ…」
困ったもんだ、と苦笑いをして、まるで幼い子供を見るように、温かい眼差しを受験票に注いでいる。
あれ、もしかしてこの先生、優しい――?
ニヒルだけではなく、こういう一面もあるだなんて。きっと、この落差にまいってしまう女性は多いと思われる。ギャップっていうのかな、そういうのに弱い人って多いらしいから。
―――なんて、全部、恋愛小説の受け売りだけれど。
さて、目の前の少女がそんなふうに納得しているとは露知らず、先生はプリントの束の上にそれを置いた。
「ありがとう。俺から渡しておくよ。………えっと、ほかに何か聞きたいことはある?」
「え、えっと…」
手首を裏返して、時間を確認する。
受験開始まで、あと10分―。
そろそろ、――というか絶対にもう移動しなければならない時刻である。
それなのに。
自分が気付くより先に、口は――勝手に脳みその意向を無視して、体のそれを優先させていた。
「あ、あのっ……!」
次回”スタートライン~5~”へつづく
↓桂木えり・ラフスケッチ~藤崎聖・画~