「あら?」
いぶかしがるような声を耳にして、思わず顔を上げる。
どうやら気付かないうちに、うつむき加減になっていたようだ。
こんな明るくてにぎやかな雰囲気―、それも大好きなお買い物の最中に、自分ではどうしようもないことを考えて凹むだなんて。
『なんて自分らしくない―――!』
心の中でつぶやいて、ちょっと愕然として、唇のはしをきゅっと上げる。
瞬く間に気持ちは軽やか、いつものゴキゲン状態に戻った実佐は声のした方へと振り返った。
「お母さん?」
「あ、やっぱり実佐だった。ね、お父さん。私の言った通りだったでしょう?」
弾むように手をたたいて、目を輝かせているお母さんの後ろで、ビニールの買い物袋を山ほど抱えたお父さんが苦笑いしていた。
「本当。あんな遠くからよくわかったなあ…。しかも後姿で」
それを聞いて、お母さんは得意げに胸を張る。
「それはもう、親ですもの。5キロ先からでもわかる自信があるわ」
「5キロって……」
お父さんと実佐が声を重ねて、言葉を失う。
何、5キロって。
普通の日本人なら無理でしょう――とは思っていても、母の勘は侮れないわよって息をまいているお母さんに突っ込む勇気はないけれど。
現に、今も。
「ま、実佐もお母さんくらいのレベルになればわかるわよ」
なんだか嬉しそうにしているし…。
我が親ながら、計り知れない人だ。
そうやって小さくため息を逃がしていると、お母さんがショーウィンドウを見て目を丸くした。
「あら、珍しい。実佐がジーンズだなんて、どういう心境の変化。失恋でもしたの?」
じっと顔をのぞきこむようにして、目線を合わせようとする。
それを振り切るように顎を上げ、実佐は首を振った。
「失恋って、何なのよ。女子高通ってる娘に向かって」
赤面して否定する娘に、お母さんは頬杖をついて軽く首をかしげた。
「あら。でも、最近はそういうのも流行っているって、サークル仲間に聞いたんだけれど。いろいろな漫画やDVDが出てるんでしょ。本当、エネルギッシュな時代になったものよね…」
「え、えねるぎっしゅって……。いったいどこで、どんな知識を拾ってきてるのよ、お母さん……」
恐るべし、大人世代―。
日々、接しているお姉ちゃんならそうでもないかもしれないけれど、たまに会う娘にはちょっと刺激が強すぎる…というか。
そうして頭の中を整理しつつ、曖昧な笑みを浮かべていると、
「そう、そうなのね。お母さん、わかったわ」
勝手に納得しかけているし―!
これじゃあ、勝手に解釈して認識して悲嘆に暮れて、そのサークル仲間とやらに嘆いて回るかもしれない。
「うちの娘がね、学校で失恋したみたいで…。母としてどうやって慰めていいかわからないの…」
なんて涙を1粒、ぽろりと流しながら。
そ、そ、そんなの困る。
高校生活もあと1年ちょっとだというのに、町に戻ってそんな噂が浸透していたら。
実佐は慌てて手を振って、語調を強めて否定した。
「違うから! 失恋なんてしてないから!」
「だって、実佐…」
「まあまあ、いいじゃないか。2人とも」
大きな手を広げて、割って入るお父さん。
その微妙なタイミングが、実佐をさらに焦らせていく。
「良くないわよ、お父さん。だって私、単にお姉ちゃんのこと考えてただけなのよ? これ、お姉ちゃんが好きそうなコーディネートだなーって思って、それで」
一息に言い切って、すうっと深呼吸する。
するとお母さんがポンと手を打った。
「そっか、佐織。確かにこの服、あの子っぽいわね。ね、お父さんもそう思わない?」
「そうかぁー?」
首をひねる姿に、お母さんはニヤリと余裕たっぷりに腕組みした。
「そうよ、親ですもの。私、自信があるわ。お父さんも私くらいのレベルになればわかるわよ」
…いったい何のレベルなのよ、何の。
第一、お父さんもお母さんも同じ親でしょうに…。
そんなふうに脱力していると、お母さんはふと何か閃いたかのように目を見開いた。
「そういえばあの子、どうしたのかしらね…最近」
「どうしたって?」
お父さんに尋ねられて、お母さんは目線をどこかに投げて記憶を手繰り寄せながら話し始めた。
「どこかボーッとしたかと思ったら、変に赤くなったり慌てたりして。何て言うのかしら…。悩んでいるというか…考えている様子なのよ。そう、突然、京都から何かをお取り寄せしたりして」
『お取り寄せ?』
そのキーワードに、実佐の片眉がぴくっと上がる。
何、その流行好きなOLさんが使っていそうな単語は。
使用例は“昭和初期から続く名店××亭の、ベルギーワッフルをお取り寄せしました”というところだろうか。笑顔で高そうなお菓子の入った箱をこちらに向かって傾けて見せているイメージが浮かぶ。
とにかく。
これは、流行のりの字も疎いお姉ちゃんには全く…いや、絶対に係わり合いのなさそうな世界の言葉だ。
でも…でも…、たとえばもしかして。
初めて出かけた京都での旅が、お姉ちゃんを大きく変えてしまっていたとしたら。初めて訪れた地元以外の町、それも100万人都市の雰囲気に飲まれてしまったとしたら。
『ありうる……かもしれない……?』
あの純粋だったお姉ちゃんが、まさか流行に関して自分の先に行ってしまうとは―!
衝撃のあまり、実佐はウィンドウを見上げて固まってしまった。
「そ、そんなバカな……」
なんて、絶句するすぐ横では、お父さんとお母さんがやりとりを続けている。
けれど“あやふや”なお母さんの勘に基づく話は、やっぱり“あやふや”だったから、お父さんとしても大事に受け取ってもらえるはずもなく。
「何かおかしいと思うのよ。不安定というか、落ち着きがないというか」
「まあまあ。年頃なんだから、不安定だったり落ち着きがなかったりもするだろう。それに卒業したら、あずさちゃんとも離れ離れになるわけだし。あの子なりに考えるところもあると思うよ」
「そうねえ…」
お母さんは、記憶を辿りながらもイマイチ納得できないようで。
それでもそろそろいい時間だったし、お腹もすいたしで、思考力の落ちた3人はお昼ご飯を食べにレストランゾーンへ移動することにした。
この“あやふや”が、あとで我が家に大激震をもたらすことなんて、想像だにしないで―。
~次回”迷いの中で~6~”につづく~