ターニングポイント~9~

 自分自身を落ち着かせるような長い長い深呼吸のあとで―。
 静かな眼差しをこちらに向け、あずさは宣言した。

 「佐織ちゃん。私ね、第一志望を京都の学校にする。京都に行くわ」

 たくさん考えて、悩みもしたのだろう。
 言い切って、もう一度深呼吸したあずさはとても大人びて見えた。

 とりあえず一山、越えてきましたとでも言わんばかりに――。

 対して佐織はというと。

 「京……」

 小さくつぶやくように驚いてから、うつむいて目線を迷わせた。

 「えっと。そ、そうなんだー…。決めたんだ…」

 なんとなくあずさの顔が見れなくて―いや、見たくなくて、カーペットの模様ばかりを眺めていた。

 こういうときは、どうすればいいのだろう。
 笑って、“そうなんだ。頑張ってね”って励ます? 
 それとも純粋に、“びっくりしたわ~”ってオーバーリアクションを取る?

 でも――。
 たとえ、今、その場に相応しい態度がわかったとしても、佐織にはそう振舞う自信なんてなかった。

 頑張ってほしい気持ちはある。
 びっくりしたという思いもある。

 だけど、それ以上に簡単には片付けられない何かが大きすぎて、よくわからなくなっていたのだ。

 『私の気持ち………?』

 そんな時だった。
 階下から、助けともいえる声が響いてきたのは。

 「お姉ちゃん、ご飯だよー」

 それを受けて、佐織は応える。

 「今、行くー!」

 思ったより大きめのボリュームになってしまったけれど、仕方がない。
 首を振って気を取り直して、目前のあずさの肩にふれた。

 「いこう」

 「ええ」

 唇を左右に引いて、あずさは目を細めている。
 その真意がわからなくて、佐織は戸惑いながら立ち上がり、ジーンズの膝を払う。あずさが椅子を机に戻しながら、尋ねた。

 「お夕飯、シチューだってね」

 「みたいね」

 動揺を気取られないように短く答えると、あずさはいつもと変わらぬ口調でおだやかに話し始めた。まるで何でもないことを話すように。

 「今日ね、おばさんに言っておいたの。大事なお話をしたいって。だからかな、シチューになったのって」

 「あ」

 そこまで言われて、ふと、お母さんの作るシチューは、もともとおばさんから教わったレシピだったことを思い出す。

 クローゼットにはめこまれた姿見で、髪の撥ねをチェックしてから、佐織はつとめて明るく振り返った。

 「そっか。進学先のことを報告するんだね」

 佐織の家族は、あずさの家族でもあるから。
 でも今は、ここで話題を広げる気持ちにもなれなかった。これ以上、予想外の話が出てきては困るから。思わぬ反応をして、今の悩みがバレてしまうのだけは避けたい。

 ただでさえ、さっきまで微妙な態度を見せてしまったのだから。

 そんな動揺を見抜けなかったのか、それともあえて見過ごしたのか―。

 「うん。そういうこと」

 あっさりとうなずいて、あずさがドアへと向かった。
 ホッと胸をなでおろして、後を追う。階段を下りながら、佐織はひそかに深く息を吸って、暗い気持ちを追い出して。

 そうして頭の中を整理し始めた。

 佐織には今、気になっている学校がある。それは京都にある、京都コンピュータ学院。IT系の専門学校だ。そしてあずさは、京都の学校へ行きたいと言っている。

 …って。

 『なんで2人とも京都なのよ!?』

 今更ながら、控えめに両手を握り締める。
 前を行くあずさのこめかみをグリグリしたい衝動を抑えつつ、また深く息を吸って、吐いて。

 ようやく冷静になったところで、あずさは階段を折りきって右に折れ、リビングへと入っていった。

 「あ、待って」

 慌てて追いかけていくと、お父さんがリビングのソファに座って、ネクタイをゆるめているのが目に入った。

 「あ。おかえり、お父さん」

 「おかえりなさい、おじさん」

 ほぼ同時に挨拶を受けて、お父さんが目を細めて、背もたれから身を起こした。

 「ただいま」

 いつもと同じ、優しくておだやかなお父さん―。
 でも、佐織の目はある一点にじーっと注がれていた。

 『お父さん、…太った?』

 もちろん、口にはしていない。あくまで心の声だ。
 そもそも、お腹が出てしまったのは、佐織のせいもあるかもしれないし。

 例のシステム手帳のために“ドーナツざんまいの生活”に巻き込んだ自分が、太ったんじゃないって聞くのはあまりに無神経だ。

 そう、わかっていたんだけど。

 「悪かったね、ちょっとメタボっぽくなって」

 少し恨みを含んだ口調で言われて、佐織は慌てて手を振った。

 「え、いや、その、そんなことは…」

 すると、あずさが助け舟を出してくれた。

 「そこまでは思ってないわよね。おなか、じーっと見てたけど」

 え、何それ?
 助け舟じゃないし!
 軽くあずさを睨んでいると、キッチンで鍋をグルグルかき回していたお母さんが振り返った。

 「そんなにいじめないの。ちゃんと今日から、運動するんだから」

 首だけ動かして、お父さんがお母さんに尋ねる。

 「あ、あれ、届いたのか?」

 「ええ。箱から出しておいたから、ちゃんと使ってね。…まったくあんな単純な作りのものに29800円もするだなんて…」

 思い出しただけでちょっとイライラしたのだろう。鍋をかき混ぜるスピードが上がった。手を止めて、もう片方の手で調味料をふって、またグルグルやっている。

 対して、お父さんは実にのん気なもので。

 「そんなにしたかな?」

 再び前を向いて、アゴをさすっている。その小声をお母さんは聞き逃さなかった。

 「しましたよ。しかも代金引換で頼むだなんて。今度からちゃんとお小遣いで先払いしておいてくださいね」

 言葉に棘を感じて、お父さんは振り向いて手を合わせた。

 「うん、わかった。ごめんな、お母さん」

 そのさわやかな笑顔に、お母さんは苦笑いして。

 「もう」

 と、頬をゆるませてしまった。

 さすがはお父さん。
 そしておそるべし、相手を笑顔でKOする神崎家の血筋―。

 なんて感心しかけて、佐織はハテと首をかしげた。

 「あれ。私も同じ血を引いているはずなんだけどな」

 もしかしてまだ開花してないのだろうか、その手の才能が。いや、その手なんて言ったら、ちょっとアヤシイかな。

 『どうなんだろう――?』

 なんて、少しだけ妄想しかけたところへ絶妙なタイミングで、おばあちゃんがやってきた。

 「あらあら、いいにおいがするねえ」

 柔和な笑みに、その場の空気が溶かされていく。さすがはおばあちゃん、癒しパワーが炸裂している。

 「佐和子さんは本当にお料理が上手だねえ。わたしゃ幸せだよ」

 すると、あら不思議。
 半ば苦笑いしていたお母さんの顔が、ほんのり赤くなった。

 「そうですか? もう、お義母さんったら♪ あ、実佐ちゃん、お皿並べてちょうだい。そろそろご飯にするわよ♪」 

 実佐“ちゃん”って………―。
 普段、娘たちのことは呼び捨てなくせに……―。

 実佐がダイニングテーブルに手を着いて立ち上がったのが見えた。

 「お、お母様、お手伝いするわね」

 声も動きも緊張しているのは、ご機嫌がきちんと直っているか確かめるためかもしれない。
 
 離れて暮らしていると、意外な部分で免疫がなくなってしまうのだろうか。目のはしで様子をうかがいながら、そそくさと食器棚へ向かい、扉をスライドさせてお皿を選んでいる。

 なにはともあれ、お母さんのご機嫌は直ったみたい。
 よかった、よかった。
 
 もうすぐ夕ご飯の時間だ。

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       ~次回”迷いの中で~1~”へつづく~

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