自分自身を落ち着かせるような長い長い深呼吸のあとで―。
静かな眼差しをこちらに向け、あずさは宣言した。
「佐織ちゃん。私ね、第一志望を京都の学校にする。京都に行くわ」
たくさん考えて、悩みもしたのだろう。
言い切って、もう一度深呼吸したあずさはとても大人びて見えた。
とりあえず一山、越えてきましたとでも言わんばかりに――。
対して佐織はというと。
「京……」
小さくつぶやくように驚いてから、うつむいて目線を迷わせた。
「えっと。そ、そうなんだー…。決めたんだ…」
なんとなくあずさの顔が見れなくて―いや、見たくなくて、カーペットの模様ばかりを眺めていた。
こういうときは、どうすればいいのだろう。
笑って、“そうなんだ。頑張ってね”って励ます?
それとも純粋に、“びっくりしたわ~”ってオーバーリアクションを取る?
でも――。
たとえ、今、その場に相応しい態度がわかったとしても、佐織にはそう振舞う自信なんてなかった。
頑張ってほしい気持ちはある。
びっくりしたという思いもある。
だけど、それ以上に簡単には片付けられない何かが大きすぎて、よくわからなくなっていたのだ。
『私の気持ち………?』
そんな時だった。
階下から、助けともいえる声が響いてきたのは。
「お姉ちゃん、ご飯だよー」
それを受けて、佐織は応える。
「今、行くー!」
思ったより大きめのボリュームになってしまったけれど、仕方がない。
首を振って気を取り直して、目前のあずさの肩にふれた。
「いこう」
「ええ」
唇を左右に引いて、あずさは目を細めている。
その真意がわからなくて、佐織は戸惑いながら立ち上がり、ジーンズの膝を払う。あずさが椅子を机に戻しながら、尋ねた。
「お夕飯、シチューだってね」
「みたいね」
動揺を気取られないように短く答えると、あずさはいつもと変わらぬ口調でおだやかに話し始めた。まるで何でもないことを話すように。
「今日ね、おばさんに言っておいたの。大事なお話をしたいって。だからかな、シチューになったのって」
「あ」
そこまで言われて、ふと、お母さんの作るシチューは、もともとおばさんから教わったレシピだったことを思い出す。
クローゼットにはめこまれた姿見で、髪の撥ねをチェックしてから、佐織はつとめて明るく振り返った。
「そっか。進学先のことを報告するんだね」
佐織の家族は、あずさの家族でもあるから。
でも今は、ここで話題を広げる気持ちにもなれなかった。これ以上、予想外の話が出てきては困るから。思わぬ反応をして、今の悩みがバレてしまうのだけは避けたい。
ただでさえ、さっきまで微妙な態度を見せてしまったのだから。
そんな動揺を見抜けなかったのか、それともあえて見過ごしたのか―。
「うん。そういうこと」
あっさりとうなずいて、あずさがドアへと向かった。
ホッと胸をなでおろして、後を追う。階段を下りながら、佐織はひそかに深く息を吸って、暗い気持ちを追い出して。
そうして頭の中を整理し始めた。
佐織には今、気になっている学校がある。それは京都にある、京都コンピュータ学院。IT系の専門学校だ。そしてあずさは、京都の学校へ行きたいと言っている。
…って。
『なんで2人とも京都なのよ!?』
今更ながら、控えめに両手を握り締める。
前を行くあずさのこめかみをグリグリしたい衝動を抑えつつ、また深く息を吸って、吐いて。
ようやく冷静になったところで、あずさは階段を折りきって右に折れ、リビングへと入っていった。
「あ、待って」
慌てて追いかけていくと、お父さんがリビングのソファに座って、ネクタイをゆるめているのが目に入った。
「あ。おかえり、お父さん」
「おかえりなさい、おじさん」
ほぼ同時に挨拶を受けて、お父さんが目を細めて、背もたれから身を起こした。
「ただいま」
いつもと同じ、優しくておだやかなお父さん―。
でも、佐織の目はある一点にじーっと注がれていた。
『お父さん、…太った?』
もちろん、口にはしていない。あくまで心の声だ。
そもそも、お腹が出てしまったのは、佐織のせいもあるかもしれないし。
例のシステム手帳のために“ドーナツざんまいの生活”に巻き込んだ自分が、太ったんじゃないって聞くのはあまりに無神経だ。
そう、わかっていたんだけど。
「悪かったね、ちょっとメタボっぽくなって」
少し恨みを含んだ口調で言われて、佐織は慌てて手を振った。
「え、いや、その、そんなことは…」
すると、あずさが助け舟を出してくれた。
「そこまでは思ってないわよね。おなか、じーっと見てたけど」
え、何それ?
助け舟じゃないし!
軽くあずさを睨んでいると、キッチンで鍋をグルグルかき回していたお母さんが振り返った。
「そんなにいじめないの。ちゃんと今日から、運動するんだから」
首だけ動かして、お父さんがお母さんに尋ねる。
「あ、あれ、届いたのか?」
「ええ。箱から出しておいたから、ちゃんと使ってね。…まったくあんな単純な作りのものに29800円もするだなんて…」
思い出しただけでちょっとイライラしたのだろう。鍋をかき混ぜるスピードが上がった。手を止めて、もう片方の手で調味料をふって、またグルグルやっている。
対して、お父さんは実にのん気なもので。
「そんなにしたかな?」
再び前を向いて、アゴをさすっている。その小声をお母さんは聞き逃さなかった。
「しましたよ。しかも代金引換で頼むだなんて。今度からちゃんとお小遣いで先払いしておいてくださいね」
言葉に棘を感じて、お父さんは振り向いて手を合わせた。
「うん、わかった。ごめんな、お母さん」
そのさわやかな笑顔に、お母さんは苦笑いして。
「もう」
と、頬をゆるませてしまった。
さすがはお父さん。
そしておそるべし、相手を笑顔でKOする神崎家の血筋―。
なんて感心しかけて、佐織はハテと首をかしげた。
「あれ。私も同じ血を引いているはずなんだけどな」
もしかしてまだ開花してないのだろうか、その手の才能が。いや、その手なんて言ったら、ちょっとアヤシイかな。
『どうなんだろう――?』
なんて、少しだけ妄想しかけたところへ絶妙なタイミングで、おばあちゃんがやってきた。
「あらあら、いいにおいがするねえ」
柔和な笑みに、その場の空気が溶かされていく。さすがはおばあちゃん、癒しパワーが炸裂している。
「佐和子さんは本当にお料理が上手だねえ。わたしゃ幸せだよ」
すると、あら不思議。
半ば苦笑いしていたお母さんの顔が、ほんのり赤くなった。
「そうですか? もう、お義母さんったら♪ あ、実佐ちゃん、お皿並べてちょうだい。そろそろご飯にするわよ♪」
実佐“ちゃん”って………―。
普段、娘たちのことは呼び捨てなくせに……―。
実佐がダイニングテーブルに手を着いて立ち上がったのが見えた。
「お、お母様、お手伝いするわね」
声も動きも緊張しているのは、ご機嫌がきちんと直っているか確かめるためかもしれない。
離れて暮らしていると、意外な部分で免疫がなくなってしまうのだろうか。目のはしで様子をうかがいながら、そそくさと食器棚へ向かい、扉をスライドさせてお皿を選んでいる。
なにはともあれ、お母さんのご機嫌は直ったみたい。
よかった、よかった。
もうすぐ夕ご飯の時間だ。
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~次回”迷いの中で~1~”へつづく~