「たっだいま~♪」
懐かしい声が、耳に届く。
思い出しかけたことに蓋をして、佐織はつぶやいた。
「…あ、実佐だ」
口にして、それがずいぶん久しぶりなことに気がつく。
別にケンカをしているわけでも、気まずい仲なわけでも何でもないのに。
なんだか変な気分―。
佐織はふと指を折って、数えてみた。
「私が中学2年…3年…1年…2年……3年…。5年かぁ…」
実佐が家を出て、約5年。
佐織は自分が、彼女を抜いた家族4人の暮らしに、すっかり慣れてしまっていることに少しばかりショックを受けた。確かに最初は、さびしいと思う気持ちがあったはずなのに。今はそれすら忘れてしまった、というか―。
「なんだかちょっと・・・・ひどくない・・・私?」
妹なのに――。
ベッドの上でゴロゴロしながら、白い壁に“みさ”と書きながら、かけがえのない妹のことを思い出していた。
神崎実佐、17歳―。
彼女は佐織と同じフワフワの毛質で、背中まで届く長い髪を結わえたポニーテールがトレードマークの高校2年生だ。まあ正確には、今、通っている学校では規則上、5年生という扱いになっているらしいけれど、それはおいといて。
彼女はどちらかといえば保守的な姉とは違って、流行やファッション、それからお菓子大好きのいわゆる“ミーハー”で。付け加えるならば、貯金という言葉を知らない。
…と、この時点で、姉である自分とはあまり共通の話題がないように思えるわけだけれど、さらに性格も違っていて。
基本的に甘えん坊で、なおかつ、おねだり上手。
それらの特性を生かして昔から自分の望みを叶えるために、しょっちゅう両親や祖父母の家を回って、お小遣いをおねだりし続けていた。
そしてしまいには、親戚巡りなんかも始めちゃって。
そうやって、お金の遣い方をどんどんエスカレートさせていったので、お父さんもお母さんもものすごく焦って、考えたのだ。
「このままじゃ、とんでもない大人になってしまう…」
って。
それでああでもない、こうでもないと策を練り上げた末―。
2人は、彼女を県境にある全寮制の中高一貫教育校に入れることにしたのだ。
「制服がすごく可愛いのよ~。ほら、このパンフレット見て♪」
とか、
「校舎も改築したばかりでキレイよね~。いいなぁ、カッコイイわ~」
なんて殺し文句並べて、実佐の気持ちをどんどんヒートアップさせて。
そうやって頑張って勉強した甲斐あって、彼女はめでたく合格した…のだけれど。
「う、うそ…」
入学式のその日、実佐は愕然とした。
可愛い制服に袖を通した彼女を迎えたのは、確かに真新しくて洗練されたデザインの校舎で。いかにも、実佐の好きそうなドラマに出てきそう…だったんだけれど、周辺は、ひたすら豊かな自然ばかり。
コンビニ、ショッピングセンター、雑貨屋さんなどなど…。
実佐の大好きなものはどれも、バスと電車をいくつも乗り継がなければたどり着けない場所へと遠ざかってしまっていた。
入学してから初めての休みに、実佐が戻ったとき。
「”深窓の令嬢”みたいじゃない。きっと将来、モテモテになるわよ」
なんて、お母さんが慰めていたのが忘れられない。目にいっぱい涙をためていた実佐の、ものすごーーく凹んだ姿も。
「それをいうなら、”深緑の令嬢”でしょ。まわりに家一軒ないのよ。本当に何もない。まるで巌流島よ!」
あわれ、妹よ…。
というか、巌流島なんて言葉を知っていたんだね。宮本武蔵と小次郎が対決したあの島の名前を。いつも流行とファッションの話ばかり話題にしているから、そんな名前知らないかと思ってたよ、お姉さんは。
なんて、もらい泣きしたのも今や懐かしい話で。
5年目になると要領もよくなってきたのか、最近は図書委員会に入るなどして委員会活動に勤しんでいるらしい。もちろん、人様のために便利な施設を…なんていう大層な考えは微塵もない。
冬休みだったか、帰省してきたときに言っていたっけ。
「私が好きな雑誌を図書館に置いてもらったの。でね、貸し出し記録を見て、同じ趣味の子たちと友達になって、サークル作って情報交換してるんだ♪」
今の環境で出来る楽しみをしっかり見つけ出して、実佐は日々を謳歌している。
まったくちゃっかりしているというか、なんというか…。
そんな妹が、冬休みを迎えて家に戻ってきたらしい。
「あずさお姉ちゃん、久しぶり♪」
はずんだ声が、数ヶ月ぶりに玄関に響く。
7箱目の段ボール箱がもたらした重苦しい空気が、一気になごやかなものへと変化した。
「あら、早かったわねー。お母さん、駅前まで迎えに行って、一緒にお買い物しようかと思ったのに」
“お買いもの”の言葉に、実佐が小さく歓声を上げ、そのまま即答した。
「いいよ。行こう」
カバンを持ったまま、玄関のドアノブに手をかける。もう、今すぐにでもドアを開け放して飛び出して行ってしまいそうだ。
そのあまりのわかりやすい態度に、お母さんが苦笑いする。
「言っておくけど、駅前のスーパーしか行かないわよ? ジャガイモ欲しいだけだから」
すると実佐は露骨にテンションと、ついでにカバンも一緒に床に落としてしまった。
「えーーー…。ショッピングセンターにしようよー」
ちなみに駅前のスーパーより、ショッピングセンターは1キロほど遠い。お母さんはきっと車で行くのだろうから、どちらにするかは…まあ、微妙なところだけれど、今回のケースなら、どう考えても前者に決まりだろう。
なぜって、同伴者が実佐だから。
久しぶりに町へと戻った彼女がショッピングセンターなんか行ったら、もう大変。自動ドアの向こうに足を踏み入れた瞬間から、ジャガイモのことなんて忘却の彼方にいってしまうこと間違いなし。
閉店間際まで何時間もうろつくはめになることは目に見えている。
心の奥底で我慢していた何かを覚醒させて、大喜びで歩き回って―。
「わーっ。これ、超可愛いーー♪」
とか、
「やだ。あれ、カッコよすぎー! 着てみるー♪」
とかいう具合に、あちこちひたすらウロウロウロウロ。
そして―。
そう思ったのは、どうやら、いつの間にかドアに耳をつけて様子をうかがっていた佐織だけではなかったようで。
「駄目よ。早く買って帰って、夕飯を作らないと。今日はお父さん、実佐に会うために早く帰ってくるって言ってたし。おばあちゃんだって、もうすぐ戻ってこられるはずよ。…あ、あずさちゃんも食べていけるわよね?」
話をふられて、あずさが答える。
「ええ。おばさんのシチューって美味しいもの」
優等生モードで、この場にふさわしい回答をするあずさ。どうやら無難なことを言って、この場から存在感を消す作戦に出たようだ。
…もちろん、お母さんは赤ちゃんの頃からあずさを見てきたわけだから、それも見抜いているはずで。
「ありがとう。そう言って貰えると、作りがいがあるわ」
妨害されないと確認して、余裕たっぷりに笑っている。
それを聞いて、佐織は小さく手を打った。
「やった。今日はシチューかぁ♪」
お母さんのレシピはかつて、あずさのお母さんが作ったというとっておきのものだ。ちなみに、すごーくまろやかで程よい甘さで・・・何よりすっごく美味しい。
それを思い出して気分が上がったついでに、佐織はなんだか様子が気になって、ついにドアをゆっくりと開けて、手すり越しにこっそりと下を見、首を傾げた。
『あれ…、そういえば。お母さん、今日の献立がシチューだって言ってたっけ?』
踊り場でくの字に折れた階段の下では、3人が依然として立ったまま会話を繰り広げていた。
次回、”ターニングポイント~6~”に続く