「さて、と」
1階のやりとりがひと段落したのを確認して、爪先立ちで自室へと戻る。
ゆっくりと扉を閉めてそこにもたれて、佐織はため息をついた。
「そっか、実佐が戻ってきたんだ…」
普段、家を離れて寮暮らしをしている妹。
だから会えるのは基本的に季節ごとにある長期休暇の間だけだし、それ以外は携帯と実佐のパソコンとでメールのやりとりをするくらい。
そんなふうな姉妹なのでたまにこうして声を聞くと、ちょっとだけ変な気持ちになるのだ。
なんというか、くすぐったいようなうれしいような―。
もちろん、そんなこと恥ずかしくて、誰にも話せないけれど。
でもまあ正直、日々、暮らしていると、ちょっと寂しくなることもあるのだ。
たとえば夜、ご飯もお風呂もすませて2階に上がってきて、ふと、こぎれいに片付けられたひと気のない隣室を見たときとか。
アルバムの整理をしていて、実佐と過ごした古い写真が出てきたりしたときとか。
そのときの心理状況などによってなんだか無性に、寂しくなるときがあるのだ。
まあ、それも5年も経ったから、もうずいぶん慣れたけれど。
…いや、ただ慣れたというわけではないのかもしれない。
たぶん―。
「あずさのおかげ、だよね…」
自然と口に出た言葉に、一人、うなずく。
そうなんだ。
きっと、彼女のおかげなんだ―と。
あずさにはこれまで、どんな些細なことでも話してきたし、両親に報告する前のこともいろいろと相談してきた。
思い返してみれば、秘密というのを持つことも、それほどなかったはずだ。
…まあ、隠し事をしようとしても、勘の鋭いあずさにすぐに見破られて、口を割らされていた……というのも事実といえば事実なのだけれど。
でも、それが今―。
「…隠し事…しちゃってる…のかな」
つぶやきながら、右手を胸に当てる。
視線の先―机上には、白いパンフレットが置かれたままだった。正直、自分でもどうしたらいいかわからない、"別の未来"を指し示すパンフレットが―。
「…」
左手を上げて、右手に重ねる。
まぶたを軽く閉じて、熟考しようとしたその時だった。
トン…トン…トン…
まずい。
誰かが階段を上がってくる。
もたれていた扉から飛びのいて、佐織はあたふたと机に駆け寄った。
「や、やばいっ!」
パンフレットやプリントなど、その他もろもろを手に取り、おろおろと左右を行き来する。
「うわ…わわ……!」
そしてはたと、そんな自分の混乱ぶりに嫌気がさして、ひとり、突っ込む。
「何を焦ってるの。…あ、引き出し!」
焦って、机の一番下にある引き出しに、パンフレットとプリントの束、それからその横にあったゴミ箱から、封筒を取り出した。
あずさは鋭い。
変なところで鼻がきくし。
もちろんそれは、本当に嗅覚が優れているということではなくて、ただ単に勘が鋭いという話なのだけれど。
それはさておき。
トン…トン……トン…
あずさが迫ってくる。
一瞬だけリズムが落ちたのはたぶん、踊り場を通ったせい。
「これでよしっと!」
引き出しを勢いよく閉めて、佐織は、クローゼットにはめ込まれた鏡に自分を映して、深呼吸を繰り返した。
「すぅーっ、はぁーっ、すぅーっ、はぁーっ…」
落ち着け、落ち着くのよ、私。
私は悪いことなんかしていない。だって仕方がないもの、だって、だって―。
言い聞かせていく視界のすみに、先ほどの引き出しが入り込んで、再び心拍数を上がる。
封筒の角が、はみ出しているではないか。
「わ!」
あたふたと駆け寄り、中へと押し込む。
直後、鏡の前で、寝ぐせのチェックをしたところで―。
コンコン
「き、きたっ!」
びくっと肩が上がる。
ノック音に続いて、はずんだ声が尋ねてきた。
「佐織ちゃん、入ってもいい?」
「はっ、はいぃっ、どーぞ!」
反射的にベッドに座って、入ってきたあずさに小さく手を振る。
この位置なら机も斜め前に見張っていられるし…、大丈夫、引き出し対策は万全――なはずなのだけれど。
「や、やっほー」
だめだ。一瞬の沈黙も耐えられずに、いきなり声が裏返ってるし。
案の定、あずさが眉根を寄せて、怪訝そうにこちらを見つめていた。
「…どうしたの。佐織ちゃん、何か変」
「そ、そんなことないよー」
「そう? ま、いいけど」
胸の鼓動が高鳴るのと、額にうっすらと汗が浮かぶのを感じている佐織の膝先を通って、あずさは学習机の椅子に腰掛けた。
「おじゃましまーす♪」
さきほどのやりとりを思い出したのか、ふいに唇のはしを上げて、目を細めた。
「ね、聞こえてた?」
尋ねられて、あいまいに笑みを浮かべてうなずくと、あずさは上機嫌で続けた。
「いやー、すごいわよね、おばあちゃんってば。いじけていた実佐ちゃんには悪いけれど、まだまだレベルが違うって感じ。ちょっと感動しちゃったわ」
笑いながらいったん立ち上がり、背もたれの向きをきちんと後ろ側にして座りなおす。
自然と、佐織と向かい合うのは、いつもと同じ位置関係だ。
それでいて、今日はどこかが違う気がする、というか―。
「そ、そうだね~」
どこか浮ついた相槌をうって、ふと、思い返す。
そういえば先ほど、あずさが持ってきたみかん。
あれは確か、お昼前に届いたと言っていたっけ。
そしたら、もしかして、あのみかん箱は――パンフレットと同じ車で運ばれてきたのだろうか。
みかんとパンフレットがそっと寄り添って。
その図を想像して、佐織はうつむいて笑いをかみ殺した。その風景、なんだかちょっとオモシロイ。
「ふふふ…」
予期せず漏れた笑い声に、あずさが、解せないといったようにこちらを見た。
「何?」
慌てて佐織が首を振る。
「別に。ちょっと昨日のお笑い番組を思い出してただけ」
「…昨日? ああ、あの面白くないって文句ばかり言ってた、あれ?」
しまった、そうだった。
アレで思い出し笑いするだなんて、ありえない。
佐織は自分の“ごまかしスキル”のなさに、苛立ちを覚えた。
『私のばか、ばか!』
言葉には出さないけれど、心の中で地団駄を踏んで。
―というのも。
普段は大人しそうに思われがちな佐織だが、こう見えて、お笑いは大好きでなおかつ、厳しいのだ。だからこないだの旅行だって、関西地方にしたわけで。
つまり、いろいろとアンテナ張って、目も耳も通しているわけなのだ。
そんな自分だから、見る目も肥えていて、昨日も、家のリビングであずさ相手にあれこれぼやいていたような気がする。
「ちょっとー…。この質で、期待の新人って字幕はないわよねー」
とか、
「始めは良かったんだけど、あとがダルダルでダメねー」
とか。
とにかく、酷評ばかりしていたような気がする。
『駄目じゃない、私!』
動揺して顔が火照るのを感じながら、両手でパタパタあおいだ。
「いやー、今日はちょっと暑いわねー。暖房が効きすぎてるのかな?」
なんて、今更、苦し紛れの言い訳なんかしちゃったりして。
その真意を察しかねたのか、まじめなあずさは、机の上のリモコンを手に取る。
「23度だけど…。そんなに暑いかなぁ?」
なんて首をひねりながら、リモコンの先を暖房へ向けて、何度かボタンを押した。
しかし、暖房はうんともすんとも言わずに、風を送り続けていた。
「ん? 電池切れかな?」
首をひねりながら、あずさはリモコンをひっくり返す。ふたを開けて、電池を取り出そうとしたとき、その顔に笑顔があふれた。
~次回”ターニングポイント8”に続く~
↓三倉あずさのラフスケッチ(髪型・顔の輪郭等の変更前) 藤崎聖・画