カチ…コチ…カチ…コチ…
壁掛け時計が、時を刻んでいく。
そのリズムが懐かしくて、心地よくて。
自然と閉じたまぶたの裏に、ぼんやりと色あせた風景が蘇ってきた。
13年前のある日―。
幼稚園から帰ったその足で、あずさと2人でおばあちゃんの家を訪れたときのことだった。
「こんにちはー」
「あらあら、2人ともよく来てくれたねえ」
読んでいた新聞から顔を上げて老眼鏡を外すとおばあちゃんは、今と同じ――いや、ほんの少しだけ溌剌とした笑顔で迎えてくれたっけ。
「さあさあ、お入りなさい。寒かったでしょう」
おばあちゃんは2人をコタツに勧めたあとで、しばらく孫たちの幼稚園話に目を細めてうなずきながらお茶を淹れてくれた。
幼稚園で最近、運動会の練習が始まったこと。
駆けっこしたり、お遊戯用のお花を紙を折って作ったり、日々の生活が運動会一色になっていることなど―。
矢継ぎ早でしゃべり続けるのを、うれしそうにうんうん聞いてくれていた。
「だからねだからね。いっぱいいーっぱい頑張るから、おばあちゃんも見にきてね」
小さな指先を大ぶりな湯飲みで温めてから、佐織が得意げにプリントを渡すと、おばあちゃんは老眼鏡をかけながらそれを受け取って、佐織とあずさを代わる代わる見つめて大きくうなづいた。
「もちろん。大事な孫たちの運動会だからね。都合つけておじいちゃんと一緒に見に行くよ。…ああ、そうだ」
ふいに何かを思い出したのか、おだやかな表情に閃きのようなものを灯らせて、おばあちゃんは立ち上がった。
「頂き物のお菓子があったんだ。ちょっと、待っていておくれ」
座布団のそばに畳んであった割烹着に袖を通し、障子の向こうへと行ってしまった。
「切り分けてくるから、それまで2人で仲良く遊んでなさい」
そう言い置いて。
でも当時、幼稚園児の佐織たちにしてみれば、不必要なものをほとんどカットしたような簡素な家で、時間をつぶすのも退屈に感じられたし、それに日々の練習で、いつもより活発に動き回っていたから。
「んっとー…。どうしようかなー」
あちこち見回し、しばし考えた挙句―。
カチ…コチ…カチ…コチ…
柱にかけられた壁掛け時計の…振り子に目を留めて。
「あ、そうだ」
思い付いてしまったのだ。
「どうしたの、佐織ちゃん?」
お茶をふうふうしながら、眼鏡を曇らせているあずさに、人差し指をぴんと立てて宣言した。
「せのびごっこ、しよう?」
「背伸びごっこ?」
解せない、とばかりに復唱するあずさをよそに、佐織はコタツから抜け出て、壁際の本棚に歩み寄った。
そしてそこから1冊、2冊、本を抜き出していく。
冠婚葬祭の実用書から、辞書、果ては電話帳などなど―。
あまりにイキイキとしていたからだろう。あずさがコタツを出て、目を輝かせた。
「ね、佐織ちゃん。これ、どうするの。”イベント”?」
幼い頃から”;イベント”大好きなあずさにまとわりつかれて、意味深な笑みを投げかけてから、本を数冊ずつ柱の下に積み上げていく。
1冊、2冊、3冊………
やがて、高さが自分たちの腰くらいになったところで、佐織は趣旨を発表した。
「これに乗って、あの時計のブランコに触るの」
明らかに誤っている単語名に、あずさが首を傾げる。
「ブランコ…って、ふりこのこと?」
「う、うん、ぷりこ。あれとね、おんなじくらいの高さになって、ふたを開けて、あれに触るの」
積みあがった本に手をかけて、佐織は胸を張る。
木枠にはめ込まれた小さなガラス戸の向こうで、左右に揺れる振り子…。
それに触れると考えただけで、胸がワクワクした。
時計自体は、それほど大きなものではなかったけれど。小柄な幼稚園児だった。佐織にとって、高い場所に掛けられたそれはとても魅力的なものだったのだ。
『あれに、さわりたい…。さわるんだ』
そのあまりの無謀さを始めはおもしろがっていたあずさも、親友がよじ上りながらたまに仰け反ったりする姿を目にしているうちに、だんだん怖気づいてきた。
「ねえ、ダメだよ。佐織ちゃん。ケガしたら、運動会出れなくなるよ?」
だけど佐織は、ワクワクしていたから。
ぐらつく足元なんかよりも、時計との距離がどんどん近づいてくるのに興奮していたから。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ~」
腕に力を入れ、震わせながらも懸命に姿勢を正そうとした。
そしてあと少しで届く、そのときに。
「何してるの?」
いつの間に入ってきたのだろう。
障子のそばにおばあちゃんが、羊羹ののったお盆を抱いて立っていた。
「あ、おばあちゃ…」
いつも優しいおばあちゃんの驚いた表情に、かろうじて保っていたバランスが崩れる。
「わぁっ!」
そう叫んだのは誰だったのだろう。
大きく背をそらし持ち直そうとするも、特に運動神経がいいわけでもないし、足元はもともと大きさも分厚さも違う本たちを無理に積み上げられたわけだから、思うようにいくはずもなく―。
「さ、佐織ちゃん…!!」
2人の声が重なるのを耳にしたほとんど直後に、佐織はそのま
ま落下し、畳に背をぶつけてしまった。
「大丈夫、ケガはないかい?」
普段、ゆっくりとした歩みのおばあちゃんが、素早くお盆をテーブルに置いて駆けてくる。ひざまづいて全身をくまなくチェックしていく。
やがて。
「よかった。なんともないようだね…」
ほっとため息をついたあと。おばあちゃんが顔をきゅっとしかめて、座り込む佐織の肩に手を置いた。
「ダメでしょう、そんな危ないことをしちゃ。ケガでもしたらどうするんだい?」
年を重ねているぶん、お父さんやお母さんよりはずっとおだやかな声で諭してくれたおばあちゃんだったけれど。
それがお尻の鈍い傷みよりも、ずっと堪えた。
触りたかっただけ。
きらきら光る振り子に触れてみたい―そう思っただけだったのに。
それなのに、こんなことになるなんて―。
考えれば考えるほどに佐織は………耐えられなくなってしまった。
「う…う…」
散らばった足場だったものの中で、両膝をかかえ、しゃくりあげる。それが大きくなるのに、時間はかからなかった。
「うわぁぁぁーーーーーん……!!」
悪いのは自分。
痛い思いをしたのも自分で、まわりに心配をかけたのも自分。
すべて自分のせいなのに。
たくさんの気持ちや思いが、心の中で渦巻いていて、なすすべがなく、ただひたすら泣きじゃくり続けていた。
すると―。
「…まったくもう…」
おばあちゃんは肩の手を背中に移動させ、そのまま優しく撫で下ろしてくれた。
シワの刻まれた、あったかくて柔らかい手で―。
「………痛かったねえ」
その言葉が優しすぎて、涙に拍車をかけていく。
泣き止まない孫の背をトントンと叩きながら、おばあちゃんが言い聞かせてくれた。
「痛かったねえ。でも、だーいじょうぶ。佐織ちゃんはね、強
い子なんだから」
言い含めるように、ゆっくりとゆっくりと慰められて、佐織はぶんぶんと首を振った。
「づ…づよぐなんが…ないもん…。づよぐなんが…」
けれどおばあちゃんは孫を文字通り”強く”させたかったのか、それともただ純粋に泣きじゃくる姿をかわいそうに思ったのか―ただ、背中をずっと撫でながら言い聞かせてくれたのだった。
「だーいじょうぶ、だいじょうぶ。佐織ちゃんは強くて優しい子なんだから……」
~次回”迷いの中で~3~”につづく~
↓三倉あずさのラフスケッチ・決定分~その2~