スタートライン~3~

 京都コンピュータ学院京都駅前校・正面入り口―。

 「…あれ?」

 入学試験開始まで、あと30分―。
 手首を裏返してそう確認したあと、佐織は体のどこかに違和感を覚えた。

 まずい。
 何だかものすごーく、良くないことが起きるような気がする…ような――?

 片手を肩掛けカバンに添えたまま、もう片方の手を恐る恐るお腹に当てる。
 瞬間、予感が確信へと変わった。

 「お腹が…痛い……」

 つぶやいて自覚したとたんに“食べすぎ”の4文字が、重く体にのしかかる。さーっと顔から血の気が引いていく。
 同時に、待っていましたとばかりにみぞおち付近から、小さな痛みが走り始めた。

 キリキリ…キリキリ…キリキリ……

 悲しいほどに規則正しいリズムに、わずかに体をくの字に曲げる。

 「う…」

 これでも無事、時間通りに着くまではと遠慮してくれていたのだろう。
 心配事から解き放たれた胃は、次第に痛みを増していくように思われた。

 キリキリ…キリキリ…キリキリ……

 こんなことなら、最後のデザートを控えておけばよかった。
 甘いあずきと、その中でプカプカ浮いていた白玉団子が頭の中に蘇る。甘いものは別腹だって言い訳して、ぱくっと食べてしまったけれど、あそこできちんと自分にブレーキをかけておけばよかったのだ。

 今日は受験日なんだぞ、食べ過ぎちゃダメだぞ。しっかりしなさいって。

 いや、もしかしたら、それでもやっぱりお腹は痛めていたかもしれない。
 あのパンパンになったお腹から、小皿入りのデザートを引いたくらいで、さほど容量が変わるとも思えないから。

 ――なんて、どちらにしても後の祭りなわけだから、今更、どう嘆いても手の尽くしようがないんだけど。

 深呼吸を何度かして、ちょっとだけ楽になった体を休めるべく、辺りを見渡す。
 試験が始まるまで、まだ時間がある。とりあえず、どこかに座ろう。座って、自然と楽になってくることを祈ろう。自己治癒力を信じよう。

 階段を軸にして、半ば祈るような気持ちでその周囲を歩く。
 刻々と迫る時間の中で、少しずつロビーにはひと気が増えてきているように思えた。

 ウィィン…

 自動ドアが開く音がして、足音が響いてくる。
 佐織と同じように1人だったり、友人と思われる人と一緒だったり、さまざまな組み合わせがロビーへ集まってくる。理系というだけあって男子が多いけれど、女子がいないわけでもなく。

 ただ、ほぼ全員が、特に派手でも地味でもなく、わりとどこにでもいるような平均的な高校生に見えたので、佐織はちょっとだけホッとしつつ、歩き続ける。

 自分の同級生になるかもしれない人々が、もしかしたら友達になるかもしれない人々が、参考書を開いて復習していたり、友人らしき組み合わせで歓談しているそばを、ひたすら休憩できる場所を求めてさまよい続けた。

 そして。

 「あった」

 か弱くつぶやいた視線の先は、階段の真後ろ―。
 学生たちが等間隔を開けて座るベンチの隅に空席を見つけて、佐織は力なく笑んだ。

 良かった、人生悪いことばかりじゃない。
 佐織はひとまずそこへ腰掛けて、カバンから取り出したハンカチで額の汗をぬぐった。

 「ふぅー……」

 うつむいて肩を落とし、ゆっくりと息を吐き出す。
 どうか痛みが出て行きますように、もしそれが無理なら、せめて午前中は静まってくれますようにと願いながら。

 と、そこへ―。

 ウィィン……

 自動ドアが開く音がして、一瞬、ロビーのざわめきが止まった。
 人々の視線がドアに集中する。

 ある人は目を丸くし、またある人は眉根をひそめて怪訝そうに、正面入り口に注目している。

 なんだか異様な雰囲気が漂い始める中、 佐織は痛みを忘れて、軽く腰を浮かせた。

 「どうしたんだろ?」

 お腹に手を当てたまま、人影の合間から、彼らの視界をとらえようとする。立ち上がって軽くジャンプしたり、再びベンチに座って身を傾けてみたり…。

 考え付く限りの案を実行して、佐織は足を投げ出してため息をついた。

 「この人たち、なんでこんなに背が高いんだろ?」

 正解は前の人垣の多くが、男子だから――と言われれば、それまでなんだけど。
 思いもかけずに訪れた状況に、佐織は久しぶりに自分の身長について思い出した。

 「そっか。私って、本当に背が低かったんだ…」

 ちょっと感動。
 そうか、男子がいるってこういうことなんだ。

 ほとんどの注目が前方に注がれる中、佐織はそのことも忘れて1人、小さく手を打って納得していた。

 と、その時―。

 コツコツコツコツ…

 静まり返ったロビーに、足音が反響し始めた。

 これまで集まってきた、誰の足音でもない。
 スニーカーでもローファーでもない、低くて強いこの音は――ブーツ。
思い出したように見やると、たくさんの足の合間からのベージュのブーツが近づいてきていた。

 あずさが履いているようなスリムなものではなく、もっとヒールが太くて筒の部分に大きなボンボンがついているような、いわばちょっとギャルっぽいブーツが―。

 受験にこんな靴で来るなんて。
 これが関西のスタンダードなのだろうか。
 都会の女の子にとって、これは普通の格好なのだろうか。

 驚きで目を丸くしながらも、佐織は首を振った。

 いや、そんなはずはない。
 出願する際に問い合わせた入学事務室の人も、そんなこと言っていなかった。

 「ギャル系の女の子は、ギャルっぽい格好で来てくださいねー」

 なんてことは、全然。

 そもそも、趣味や嗜好で受験の服装が変わるだなんて聞いたことがない、何かのオーディションじゃあるまいし。

 『でも、受験って考えようによっては、一種のオーディションと言えなくもないよね…?』

 と、頭の中の話が、だんだん脱線気味になってきたところで。

 コツ…

 ある人垣の前で、ブーツの足音が止まった。
 すかさず、その人は険のある声を出した。

 「ちょっと、邪魔。どいてもらえる?」

 低い。
 それになんだか、かすれているような――?
 喉でも痛めているのだろうか?

 自分自身が先ほどまで強い腹痛に悩まされていたので、きゅっと胸が痛くなった。

 でも、そう同情的になったのは、どうやら佐織だけだったようで。

 「は、はいっ」

 迫力に圧されたのか、言われた男子がたじろいで道を開けた。

 そっけなく、どうもと言い残して、少女は歩き出す。

 「…ったく、なんでこんなに人がいるのよ」

 聞こえよがしにつぶやいて、女子よりもはるかに多い男子の群れを突っ切っていく。

 コツコツコツコツ……

 静まり返る人々の上を、ブーツの足音が反響していく。

 迫ってくる彼女に気おされたのか、佐織の目の前、ちょうど人の垣根がほどけたところに彼女が姿を現した。

 「ぎゃ……」

 思わず漏れた言葉を、口を覆って封じる。
 周囲の注目がいっせいに佐織に注がれると同時に、少女は立ち止まって、正面からこちらを見据えた。

 「何か?」

 「い、いいえ」

 ぶんぶんっと首を振る。

 手のひらの下で、声を出さずに唇だけ動かした。

 『ギャルだ、ギャルだ。ホンモノのギャルだ~~~』

 テレビ番組で見たことはあるけれど、実際に遭遇するのは初めて。まさか、こんな場所で会えるだなんて。きっと、あずさが聞いたら、地団太踏んで悔しがるだろう。

 茶色というよりはそれを通り越して若干、白くなっている髪も、長いトレーナーの裾からフリルを出した膝上10センチはありそうな服も、ついでにブーツも。
 どこをどう取っても、ギャル。ホンモノのギャルだった。

 ただ1つ、大きなサングラスをかけていること以外は――。

 サングラスを外せば、もっとそれらしくなるだろうに。
 その部分だけが、まるで取ってつけたかのように違和感を生み出していた。

 まぁ、だからと言って、初対面の女子に無邪気に尋ねるようなこと、できるはずもない。。

 もしかしたら、将来のクラスメイトかもしれないのに、そんな目で見ちゃ、ダメ。
 佐織は現実では愛想笑いを、心の中では自分の頭をぽかぽか叩いていた。

 その様子を、少女は苦虫を噛み潰したように見つめ返している。

 ――と、まじまじと見つめあったところで、佐織はあることに気がついた。

 『あれ。この子の鼻、ちょっと赤い?』

 注意してみれば、サングラスの奥にあるまぶたも腫れぼったいような――?

 「あ、そうか」

 ここで佐織は、ぽんと手を打った。

 そうか、わかったぞ。
 あれが原因で彼女は機嫌が悪かったんだ。
 おばあちゃんが昔から言い聞かせてくれた言葉を思い出す。

 『困っている人がいたら、親切にしようね』

 それにうなずきながら佐織はカバンに手をいれ、ポケットティッシュを差し出した。

 「花粉症ですか、もしかして」

 問われて、少女は一瞬だけぽかんと口を開けて、それから顔を赤らめて否定した。

 「ち、違うわよっ!」

 なんだ、見当違いだったのか。
 ぽりぽりと頭をかく佐織をよそに、彼女は歩き出した。

 「さよならっ」

 戸惑いを含んだ言葉を残して、迷うことなく建物の奥へ奥へと進んでいく。歩みにブレがないところを見ると、どうやらここに来るのは初めてというわけではなさそうだ。

 「さよなら…」

 突き返されたティッシュをしまいながら、その背中に挨拶を返したあとで。
 
 「あれ」

 ひらっと何かが、彼女のコートのポケットから流れ落ちた。

 「え?」

 思わず、駆け寄って拾い上げる。

 一度、握りつぶしたような跡がついたそれは一枚の紙切れ―。
 佐織が今朝、ホテルを出る前に何度も持ち物確認したうちの1つ。

 今日の必須アイテム、受験票だった。

 「ちょ…!」

 こんなものを落としては大変だ、すぐに届けてあげないと。

 佐織はベンチから立ち上がり、少女が歩いていった方向へと突き進む。

 ロビーの奥へ、奥へと進んでいく―。

 そして、左に折れたところで愕然とした。

 「あっ!」

 しまった、知らなかった。
 閉じたばかりの扉の上で、数字が1つずつ点滅していく。上へ、上へと上がっていく。

 ロビーの奥はエレベーターホールだったのだ。
 で、彼女はそれに乗って違うフロアへと行ってしまったのだ。

 「あーあ……」

 どうするんだろう、受験票なんて落っことして。
 ちゃんと試験、受けられるのかしら。

 困ったなあとため息をつきながら、佐織はそこに記された名前をつぶやいた。

 「“新城なつみ”さん、かぁ……」

 大丈夫なのかなぁ、という心配の気持ちをこめて――で、次の瞬間。

 キリキリキリキリ……

 「うっ!」

 心配事にひと段落ついたと判断したのだろう。
 またまた、ほっとしたところで、胃が痛み始めたのだった。

       次回”スタートライン~4~”へつづく

 ↓ 新城なつみのラフスケッチ~藤崎聖・画~
 

新城なつみラフスケッチ

 

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