これは一体、何を示す文字なのだろう。
受験日の朝―。
泊まっていた部屋を出て、ホテルのレストランまでやってきた佐織を見慣れない単語が出迎えていた。
「ビュッ…フェ……?」
ゆっくりと首を傾げる。
そう。
目の前にある、斜めに傾いたオシャレな看板にはめ込まれたメニューの先頭には、確かにそう大きく書いてあった。
カタカナで5文字、“ビュッフェ”。
その下には和食やら洋食やらのメニューが並び、反対側にはいくつもの大皿に盛られた色味あざやかなお料理の写真が、“メニュー例”と称してくっついていた。
もうかれこれ、5分は経過しているだろうか。ずっと立ち尽くしたまま、佐織は1人、頭を抱え続けていた。
「ビュッ…フェ……って何?」
と、ぽつりとつぶやいたりして。
はたから見たら、ちょっと怪しい人かもしれないけれど、この時期はどうやら観光シーズンではないらしく。先ほどからレストランの奥から、時折、カチャカチャと食器を準備する音がするだけで、人っ子一人通らない。
せっかく張り切って、朝食開始前にやってきたのに。
部屋から出てカードキーをポケットにしまって、貴重品も持って、万全の体制で臨んだはずなのに。
エレベーターを出て、少し歩いてレストランを見つけて、はずんでいた歩みはそこでピタッと止まってしまった。
「ビュッ…フェ……って何?」
って―。
こういうとき、あずさならきっと無難に人に聞くことができるかもしれない。いや、むしろ、そんなの聞くまでもないのかもしれない。18になる今まで、ほとんど地元から出ることなく過ごしてきた佐織とは違い、あちこち旅行へ出かけることに慣れたあずさだから。
きっと、佐織がこうしてレストラン前でオロオロしているのを見かけたら、いつものように意地の悪い笑みを浮かべて、こう、アゴに指なんかかけて上から目線で言うに違いない。
「ビュッフェって何、ですって。まさか佐織ちゃん、ビュッフェも知らないの。おっくれてる~。それでも18歳なの?」
…いや、いくらあずさでも、ここまでキツイことは言わないだろうけれど。
でも、何しろ、ただ今混乱中の佐織にとっては、この見知らぬ単語の意味を知らないということは、ものすごく恥ずかしい気持ちになっていたのだ。
「え、えっと…」
最後の頼みとばかりに、肩から斜めがけしたポーチからチケットを取り出す。
正面にはお食事券という文字、裏面にはレストランまでの簡単なフロア地図…それだけ。
けれど、場所も時間も間違っていない。
だからたぶん、このお食事券と引き換えに朝食が食べれるのだと思う。
食べれる、はず……なんだけ…ど。
迷えば迷うほどに、佐織は自信をなくしてしまっていた。
「ビュッ…フェ……」
看板を前にしたまま、うなだれる。
“バイキング”なら、知っているんだけど。
思い出せば出すほどにこの写真は、どう見ても地元のホテルでやっている“バイキング! シェフ自慢の料理が120分食べ放題!”という広告に使われているものと似ている気がするんだけど。
『でも、でも、でも……!』
心の中でつぶやいて、佐織は頭を抱えた。
もしこれが、自分の知る“バイキング”ではなかったらどうしよう?
おなかいっぱい食べて、お会計のときにお食事券を出したときに、
「申し訳ございません。お客様、こちらのチケットはお使いいただけません」
なんて冷たい眼差しで言われたら、それで法外な金額を請求されたらどうしよう?!
混乱する頭の中に、以前、大好きなお笑い番組で芸人さんたちがやっていたやりとりが蘇った。
「さんざん食っておいて、金がないだと!?」
「すいません、ないんです。皿洗いさせてください」
「さ、皿洗い……!?」
佐織は愕然とした。
街角の定食屋さんならまだしも、ここ、佐織が今回泊まったホテルはそれなりの大きさで。
そしたらたぶん、想像以上のお皿、それからたくさんの大きなお鍋やフライパンもあるはずで、そしたら…そしたら…。
「受験に…間に合わない…?」
どうしよう。
地元にトボトボ戻って、学校で先生とやりとりする自分が目に浮かぶ。
「あら、神崎さん。受験、どうだった?」
「それが…、ビュッフェの意味がわからなくて、おなかいっぱい食べ過ぎて、追加料金を請求されて…それで払えなくて…。ずっと皿洗いしているうちに、受験し損ねてしまいました…」
『そんなのいやぁぁーーーーーーー!』
声に出さずに、佐織は叫ぶ。
そんな目に遭うために京都へ来たわけじゃない。
だいたい、頑張ってお金貯めて旅行して、そこで皿洗いして地元へ戻るだなんて、何をやってるんだって話だ。
でも、どうしよう。
ビュッフェって何?
追加料金はいくら必要?
でもそれって、レストランに入って聞けばいいの?
なんだかわからないことがいっぱい…。質問するの、恥ずかしいよ………。
混乱の中をさまざまな思いが駆け巡っていく。
と、その時だった。
ぶるぶるぶる……
「ひゃっ!」
奇妙な物音に、パニック状態から現実へと舞い戻る。
「誰よ、こんな朝から…?」
コートから携帯電話を出して、折りたたまれた携帯の小さなディスプレイに“Eメール受信”の文字を見つける。
親指を何度か押して、差出人の項目に“実佐”と出たそのメールに添付された写真に佐織は思わず、顔をほころばせた。
「わ…キレイ…」
朝陽を浴びてきらめく桜並木の一本道が、おそらくシャッターを切る前に手元を動かしてしまったのだろう、少し滲んで写っていた。
普段は、機械系が大の苦手なくせに。
自分は女子として撮るより撮られる側でありたい、だなんて言って、カメラを持つことすらも拒否しているくせに。そんな妹がわざわざ、友達に借りたカメラで写真を送ってくれたのだ。
うれしくないはずがない。
佐織は胸がじーんと熱くなった。
「ありがとう、実佐…。私、頑張る……」
そうつぶやいて目のふちをぬぐい、幸せな気持ちでいっぱいになったとき。
「あ」
ぽんと手を打って、佐織は気がついた。
そうかその手があったんだ、って。
「また、妄想特急しちゃったよぅ…」
頭をぽりぽりかいて、佐織は親指を動かして、メールボックスを閉じる。
インターネットに切り替えて、つい最近読んだばかりの説明書を頭の中でめくっていく。まったく新しい機種ではないけれど、IT系に興味を持ったときから少しずつ読んで使い方を覚える努力をしてきたのだ。
この際だからパソコンだけではなく、ほかの家電にも強くなってみようかなーと思って、ほんのちょっとだけ。
それがこんなときに役に立つだなんて。これも頑張った賜物、ってものだろうか。
佐織は1人で大きくうなずきながら、ボタンを押して、少しずつサイトの中を進み――そして。
「あった!」
たどり着いた検索サイトに“ビュッフェ 意味”と打ち込んだ結果――。
「そっか。ビュッフェってフランス語なんだー。バイキングと同じ意味なんだー」
ぐずぐずしていた原因をすっきり取り去った佐織はようやく胸を張って、レストランに入っていった。
「おはようございまーす」
店員さんの明るい笑顔に、なぜだか誇らしい気分になりながら佐織は元気に挨拶を返す。
「おはようございまーーす」
ご飯をたくさん食べてお腹いっぱいになったら、KCGに行こう。
合格して、この町でたくさんたくさんレベルアップしていこう。さっきみたいに少しずつ、少しずつ…。
こうして佐織の受験日が始まった。
次回”スタートライン~3~”へつづく