カチ…コチ…カチ…コチ…
遠くから、掛け時計がリズムを刻む音が聞こえる。
夢と現の間にある黒く塗りつぶされた闇の中で、さっきの自分と過去の自分が交差して、過去と今が目まぐるしく現れ、そして消えて――。
感覚が曖昧になっていく。
『いったい私ってば、何してるんだろ――?』
ふと浮かんだ問いに、佐織はまぶたを開ける。
そこにまず、天井の木目模様が飛び込んできて、そこから吊るされた和風の照明のまぶしさに佐織は思わず手をかざして、光を遮った。
ポーン
定時を告げる音が、佐織の居場所を―時を伝えてくれる。
そうだった。
自分はあれから泣きつかれて眠ってしまったのだ。
畳をこする音がして、おばあちゃんがゆっくりと席を立つ気配が感じられた。
コタツの反対側で行われていることなのに。横になっている自分には見えないはずなのに、びっくりするくらいにおばあちゃんの行動を言い当てられる。
急須のふたを開け、ストーブまで向かって、やかんの中をちらっと覗いて、お湯を急須に注ぐ―。
すべてが、まるで見ているかのように鮮明に浮かんでいる。
そして―。
湯のみにお茶をいれ、おばあちゃんは小さくつぶやいた。
「お茶、入ったよ」
佐織がおばあちゃんの行動を言い当てられたのと同じ。
おばあちゃんも佐織の目覚めを見抜いていた。
「…ん…。ありがとう」
うつむき加減に、ごそごそと起きだして湯のみに口をつける。
少し前に白湯を入れて温めてくれていたのだろうか。
湯のみは中に入ったお茶は熱を奪われることなく、温かさを共にしていた。
佐織を温めるために。
気持ちの均衡を失った心をなだめるために。
そう思ってはいるのだけれど…… まずい、また泣いてしまいそうだ。
……佐織はうつむいて、胸にいっぱいになった感情と一緒にお茶を一息に流し込んだ。
淹れたてのお茶は思ったより熱くて、ちょっとむせ返ってしまったけれど。
するとふいに、おばあちゃんは白いアルバムを開いて、先ほど選り分けた写真を順々に薄いセロファンの下に並べ始めた。
「ね、おばあちゃん。これ、何の写真?」
湯飲みを置いて、身を乗り出す。
おばあちゃんは老眼鏡の向こうからちらりとこちらを見て、一瞬、ほっとしたようなうれしいような色を浮かべて、すぐに目線を手元に戻した。
「老人会の旅行だよ。ほら、秋にあっただろう?」
「そういえば…」
「帰ってきてから少しばたばたしてしまって、ついつい写真屋さんに出しそびれてね。佐織ちゃんのお母さんが、京都旅行のぶんを持っていくというから、ついでに行って来てもらったんだよ」
「ふうん…」
逆さまのままで、写真を見ると…確かにそこには旅館の大広間でお料理を囲んだり、楽しげに温泉街を闊歩したり、仲良しのヨネさんとカラオケをデュエットしていたり――。
佐織の知らない、たくさんのおばあちゃんの“顔”がそこにあった。今、目の前にいるおばあちゃんではなく、ただ、旅行をはしゃぐ少女のような顔のおばあちゃんが―。
それになんだか寂しさを覚えて、佐織は目線をそらした。
「いいなあ、おばあちゃん。楽しそう…」
その真意を知ってか知らずか、おばあちゃんは柔和に目を細めた。
「うん、楽しかったよ。みんな大事な友達だからね」
「友達…かぁ…」
思わず、ため息が漏れる。
どんどん先を行ってしまうあずさの姿が、ふいに蘇ったのだ。
京都駅の雑踏の中を遠ざかっていく、ちっちゃなフード付きの黒いコート。
「ちょ、置いていかないでよ!」
訴えるけれど、あずさはどんどん歩いていく。
地元にいるときとは比べ物にならない速さで、まるで知らない、都会の人みたいに――。
あのときは簡単に追いつけたけれど、実際にはどんどん離れていっているのではないのだろうか。
こうしてどんどん距離があいて、そしていつか2人は――。
「佐織ちゃん?」
おばあちゃんの声に、現実へと舞い戻る。
どうやら1人で考え込んでいたようだ。それもどんどん暗くなっていくオマケ付きで。
向かい側に座るおばあちゃんが心配そうにするのも、無理もないよなーと思いつつ、佐織は口角を上げて無理におどけて見せた。
「な、なんでもない」
「なら、いいけれど…。そうだ。さっきの質問に答えていなかったね」
「質問?」
なにそれ、とばかりにぽかんと口を開けている佐織に微笑んで、おばあちゃんが教えてくれた。
「ほら、”どうして時間が進んでいってしまうの”とかいう…アレだよ」
「ああ…」
恥ずかしいような、切ないような―。
複雑な気持ちの中で、合いかけた視線をそらしていると、それを気にすることなくおばあちゃんはまた1ページ、アルバムをめくった。
「どうして時間が進むのか――そうだねえ。おばあちゃんには難しいことはわからないけれど、これまで生きてきて思うのはね……」
「思うのは?」
気合十分な孫に、落ち着いて、とばかりに手のひらを下に向けて。
おばあちゃんはさらりと、こんなことを言った。
「時間はね。誰かに出逢うために、進んでいるんだよ」
「出逢うために……?」
「そう、出逢うために」
見つめたおばあちゃんの眼差しはとても静かな色を浮かべていて、佐織は黙り込んでしまった。
時が流れていく。
壁掛け時計が時を刻み、ストーブの上にあるやかんがシュンシュンと鳴り響いている。たったそれだけの音が、あたたかく辺りを満たし、おだやかな流れを作っている。
そんな沈黙がしばし続いた後で―。
わずかに沈黙して、おばあちゃんはアルバムをまた1ページめくって、さっきと同じようにとてもさりげなく、まるで何でもないことのように尋ねた。
「佐織ちゃんは、おばあちゃんがこの家に来たときのことを覚えているかい?」
「…えっと」
つぶやいて、考え込む。
おばあちゃんがここに来たのは、今から10年前で―。
そのとき、佐織は8歳。小学校生活にも慣れて、いろいろと楽しみも増えてきた時期だった。
もちろん、おばあちゃんが我が家にやってくると聞いて、飛び上がるほど嬉しかったのも覚えている……けれど。
でもその中で、おばあちゃんは何を話そうとしているのだろう。
真意をはかりかねて、佐織は首をかしげた。
するとおばあちゃんは、孫の様子を優しく見つめたあと、こんなことを話してくれた。
「10年前。おじいちゃんが死んでしばらくして、区画整備で前の家を立ち退かないといけなくなってね。大きな道路を作れば、たくさんの人が便利に暮らせるんだろうけれど、でもやっぱり、不安でねえ…。どうしようもないとはわかっていても、いろんなことを悩んでいたよ」
ふっと手を止めて、おばあちゃんはここではないどこか遠くへと視線を投げた。
「新しい場所に馴染めるだろうか。友達はできるだろうか。うまくやっていけるだろうか…って。それはたくさん悩んでねえ。頭がゴチャゴチャになってしまっていたよ」
「……」
無言で話に聞き入る。
なぜなら、おばあちゃんの紡ぎだす言葉1つ1つが、佐織の悩みに小石を投げかけているような気がしたから。
おばあちゃんは佐織に何か―――大きなものを示してくれている気がしたから。たとえば、ターニングポイントのような何かを。
「でもねえ。あるとき、思ったんだ。長い長い人生の中で出逢った人々、おじいちゃんやたくさんの家族、それからあずさちゃん、……そしてもうやすやすと会うことも出来なくなった友達…。あの人たちがいてくれたから、これまで生きてこれたんだなあって」
「…………」
瞬間、心の中に波紋が広がる。
投げかけられたそれをつかもうと、懸命に耳を傾ける。
おばあちゃんはうなづいて、湯飲みを両手で抱えて指先を温めた。
「出逢いはね、人を育ててくれるんだよ」
「…あ」
そうなんだ―。
心の中で、自分が何かをつかんだ実感があった。
自分の人生。
それはお父さんやお母さん、実佐、あずさ、それからたくさんの友達との出逢い――そしてこれから、その延長線上にはきっと―。
まだ見ぬ未来での人々との出逢いがあるのだ――。
佐織が、自分の未来を決めた瞬間だった。
~次回”スタートライン~1~”につづく~