京都コンピュータ学院京都駅前校・正面入り口―。
「…あれ?」
入学試験開始まで、あと30分―。
手首を裏返してそう確認したあと、佐織は体のどこかに違和感を覚えた。
まずい。
何だかものすごーく、良くないことが起きるような気がする…ような――?
片手を肩掛けカバンに添えたまま、もう片方の手を恐る恐るお腹に当てる。
瞬間、予感が確信へと変わった。
「お腹が…痛い……」
つぶやいて自覚したとたんに“食べすぎ”の4文字が、重く体にのしかかる。さーっと顔から血の気が引いていく。
同時に、待っていましたとばかりにみぞおち付近から、小さな痛みが走り始めた。
キリキリ…キリキリ…キリキリ……
悲しいほどに規則正しいリズムに、わずかに体をくの字に曲げる。
「う…」
これでも無事、時間通りに着くまではと遠慮してくれていたのだろう。
心配事から解き放たれた胃は、次第に痛みを増していくように思われた。
キリキリ…キリキリ…キリキリ……
こんなことなら、最後のデザートを控えておけばよかった。
甘いあずきと、その中でプカプカ浮いていた白玉団子が頭の中に蘇る。甘いものは別腹だって言い訳して、ぱくっと食べてしまったけれど、あそこできちんと自分にブレーキをかけておけばよかったのだ。
今日は受験日なんだぞ、食べ過ぎちゃダメだぞ。しっかりしなさいって。
いや、もしかしたら、それでもやっぱりお腹は痛めていたかもしれない。
あのパンパンになったお腹から、小皿入りのデザートを引いたくらいで、さほど容量が変わるとも思えないから。
――なんて、どちらにしても後の祭りなわけだから、今更、どう嘆いても手の尽くしようがないんだけど。
深呼吸を何度かして、ちょっとだけ楽になった体を休めるべく、辺りを見渡す。
試験が始まるまで、まだ時間がある。とりあえず、どこかに座ろう。座って、自然と楽になってくることを祈ろう。自己治癒力を信じよう。
階段を軸にして、半ば祈るような気持ちでその周囲を歩く。
刻々と迫る時間の中で、少しずつロビーにはひと気が増えてきているように思えた。
ウィィン…
自動ドアが開く音がして、足音が響いてくる。
佐織と同じように1人だったり、友人と思われる人と一緒だったり、さまざまな組み合わせがロビーへ集まってくる。理系というだけあって男子が多いけれど、女子がいないわけでもなく。
ただ、ほぼ全員が、特に派手でも地味でもなく、わりとどこにでもいるような平均的な高校生に見えたので、佐織はちょっとだけホッとしつつ、歩き続ける。
自分の同級生になるかもしれない人々が、もしかしたら友達になるかもしれない人々が、参考書を開いて復習していたり、友人らしき組み合わせで歓談しているそばを、ひたすら休憩できる場所を求めてさまよい続けた。
そして。
「あった」
か弱くつぶやいた視線の先は、階段の真後ろ―。
学生たちが等間隔を開けて座るベンチの隅に空席を見つけて、佐織は力なく笑んだ。
良かった、人生悪いことばかりじゃない。
佐織はひとまずそこへ腰掛けて、カバンから取り出したハンカチで額の汗をぬぐった。
「ふぅー……」
うつむいて肩を落とし、ゆっくりと息を吐き出す。
どうか痛みが出て行きますように、もしそれが無理なら、せめて午前中は静まってくれますようにと願いながら。
と、そこへ―。
ウィィン……
自動ドアが開く音がして、一瞬、ロビーのざわめきが止まった。
人々の視線がドアに集中する。
ある人は目を丸くし、またある人は眉根をひそめて怪訝そうに、正面入り口に注目している。
なんだか異様な雰囲気が漂い始める中、 佐織は痛みを忘れて、軽く腰を浮かせた。
「どうしたんだろ?」
お腹に手を当てたまま、人影の合間から、彼らの視界をとらえようとする。立ち上がって軽くジャンプしたり、再びベンチに座って身を傾けてみたり…。
考え付く限りの案を実行して、佐織は足を投げ出してため息をついた。
「この人たち、なんでこんなに背が高いんだろ?」
正解は前の人垣の多くが、男子だから――と言われれば、それまでなんだけど。
思いもかけずに訪れた状況に、佐織は久しぶりに自分の身長について思い出した。
「そっか。私って、本当に背が低かったんだ…」
ちょっと感動。
そうか、男子がいるってこういうことなんだ。
ほとんどの注目が前方に注がれる中、佐織はそのことも忘れて1人、小さく手を打って納得していた。
と、その時―。
コツコツコツコツ…
静まり返ったロビーに、足音が反響し始めた。
これまで集まってきた、誰の足音でもない。
スニーカーでもローファーでもない、低くて強いこの音は――ブーツ。
思い出したように見やると、たくさんの足の合間からのベージュのブーツが近づいてきていた。
あずさが履いているようなスリムなものではなく、もっとヒールが太くて筒の部分に大きなボンボンがついているような、いわばちょっとギャルっぽいブーツが―。
受験にこんな靴で来るなんて。
これが関西のスタンダードなのだろうか。
都会の女の子にとって、これは普通の格好なのだろうか。
驚きで目を丸くしながらも、佐織は首を振った。
いや、そんなはずはない。
出願する際に問い合わせた入学事務室の人も、そんなこと言っていなかった。
「ギャル系の女の子は、ギャルっぽい格好で来てくださいねー」
なんてことは、全然。
そもそも、趣味や嗜好で受験の服装が変わるだなんて聞いたことがない、何かのオーディションじゃあるまいし。
『でも、受験って考えようによっては、一種のオーディションと言えなくもないよね…?』
と、頭の中の話が、だんだん脱線気味になってきたところで。
コツ…
ある人垣の前で、ブーツの足音が止まった。
すかさず、その人は険のある声を出した。
「ちょっと、邪魔。どいてもらえる?」
低い。
それになんだか、かすれているような――?
喉でも痛めているのだろうか?
自分自身が先ほどまで強い腹痛に悩まされていたので、きゅっと胸が痛くなった。
でも、そう同情的になったのは、どうやら佐織だけだったようで。
「は、はいっ」
迫力に圧されたのか、言われた男子がたじろいで道を開けた。
そっけなく、どうもと言い残して、少女は歩き出す。
「…ったく、なんでこんなに人がいるのよ」
聞こえよがしにつぶやいて、女子よりもはるかに多い男子の群れを突っ切っていく。
コツコツコツコツ……
静まり返る人々の上を、ブーツの足音が反響していく。
迫ってくる彼女に気おされたのか、佐織の目の前、ちょうど人の垣根がほどけたところに彼女が姿を現した。
「ぎゃ……」
思わず漏れた言葉を、口を覆って封じる。
周囲の注目がいっせいに佐織に注がれると同時に、少女は立ち止まって、正面からこちらを見据えた。
「何か?」
「い、いいえ」
ぶんぶんっと首を振る。
手のひらの下で、声を出さずに唇だけ動かした。
『ギャルだ、ギャルだ。ホンモノのギャルだ~~~』
テレビ番組で見たことはあるけれど、実際に遭遇するのは初めて。まさか、こんな場所で会えるだなんて。きっと、あずさが聞いたら、地団太踏んで悔しがるだろう。
茶色というよりはそれを通り越して若干、白くなっている髪も、長いトレーナーの裾からフリルを出した膝上10センチはありそうな服も、ついでにブーツも。
どこをどう取っても、ギャル。ホンモノのギャルだった。
ただ1つ、大きなサングラスをかけていること以外は――。
サングラスを外せば、もっとそれらしくなるだろうに。
その部分だけが、まるで取ってつけたかのように違和感を生み出していた。
まぁ、だからと言って、初対面の女子に無邪気に尋ねるようなこと、できるはずもない。。
もしかしたら、将来のクラスメイトかもしれないのに、そんな目で見ちゃ、ダメ。
佐織は現実では愛想笑いを、心の中では自分の頭をぽかぽか叩いていた。
その様子を、少女は苦虫を噛み潰したように見つめ返している。
――と、まじまじと見つめあったところで、佐織はあることに気がついた。
『あれ。この子の鼻、ちょっと赤い?』
注意してみれば、サングラスの奥にあるまぶたも腫れぼったいような――?
「あ、そうか」
ここで佐織は、ぽんと手を打った。
そうか、わかったぞ。
あれが原因で彼女は機嫌が悪かったんだ。
おばあちゃんが昔から言い聞かせてくれた言葉を思い出す。
『困っている人がいたら、親切にしようね』
それにうなずきながら佐織はカバンに手をいれ、ポケットティッシュを差し出した。
「花粉症ですか、もしかして」
問われて、少女は一瞬だけぽかんと口を開けて、それから顔を赤らめて否定した。
「ち、違うわよっ!」
なんだ、見当違いだったのか。
ぽりぽりと頭をかく佐織をよそに、彼女は歩き出した。
「さよならっ」
戸惑いを含んだ言葉を残して、迷うことなく建物の奥へ奥へと進んでいく。歩みにブレがないところを見ると、どうやらここに来るのは初めてというわけではなさそうだ。
「さよなら…」
突き返されたティッシュをしまいながら、その背中に挨拶を返したあとで。
「あれ」
ひらっと何かが、彼女のコートのポケットから流れ落ちた。
「え?」
思わず、駆け寄って拾い上げる。
一度、握りつぶしたような跡がついたそれは一枚の紙切れ―。
佐織が今朝、ホテルを出る前に何度も持ち物確認したうちの1つ。
今日の必須アイテム、受験票だった。
「ちょ…!」
こんなものを落としては大変だ、すぐに届けてあげないと。
佐織はベンチから立ち上がり、少女が歩いていった方向へと突き進む。
ロビーの奥へ、奥へと進んでいく―。
そして、左に折れたところで愕然とした。
「あっ!」
しまった、知らなかった。
閉じたばかりの扉の上で、数字が1つずつ点滅していく。上へ、上へと上がっていく。
ロビーの奥はエレベーターホールだったのだ。
で、彼女はそれに乗って違うフロアへと行ってしまったのだ。
「あーあ……」
どうするんだろう、受験票なんて落っことして。
ちゃんと試験、受けられるのかしら。
困ったなあとため息をつきながら、佐織はそこに記された名前をつぶやいた。
「“新城なつみ”さん、かぁ……」
大丈夫なのかなぁ、という心配の気持ちをこめて――で、次の瞬間。
キリキリキリキリ……
「うっ!」
心配事にひと段落ついたと判断したのだろう。
またまた、ほっとしたところで、胃が痛み始めたのだった。
次回”スタートライン~4~”へつづく
↓ 新城なつみのラフスケッチ~藤崎聖・画~