「ごめんな。なんか、無理やり連れ出したみたいで」
そう言って、なつみさんはわずかにうつむいて、サングラスの奥のまぶたを伏せて。
さっきとは打って変わって、しんみりとした雰囲気で廊下を歩き続ける。
その高低の激しさに面食らいつつも、佐織は答えた。
「…いや、“みたい”じゃなくて、実際にそうなんですけど…」
傍若無人な振る舞いにつられて、佐織も本音をこぼしてしまう。
するとなつみさんは苦笑いしつつ、肘でつついてきた。
「バカ正直な子やなー。こういうときは、“そんなことないよ。なっちゃん、凹んでたみたいだから。1人にしておくの心配だったし”とか言うもんやで、まったく…」
「だって、違うもん」
自分の用事を後回しにされた恨みをこめて言い返すと、なつみさんは先回りして奥にあるエレベーターホールに入り、呼び出しボタンを押す。
ダメだ、全然聞いていないっぽい。
やがて追いついた佐織とともに、ホールで待つ間、なつみさんは自虐的に笑ってみせた。
「ま、凹んでたのは事実なんやけどな」
「え?」
「ここに来た時とか、来る前とか、―――昨夜、とか」
さっきまで太陽みたいにはしゃいでいたのが、嘘のように沈んでいく。
その空気がいたたまれなくて、佐織は視線を高く上げ、点滅する階数ランプを眺めた。
「そっか…」
ここに来る前―。
佐織にも一応、それなりの騒動があった。
それと事情も環境も違えど、彼女にもいろいろなことがあったのだろう。
ふいに訪れた沈黙の中、階下で止まっているエレベーターの階数ランプを見ながら、佐織は独り言のようにつぶやいた。
「どんなことがあったか、よく知らないけど……というか全く知らないけど。たぶん、大丈夫だよ」
「大丈夫、って?」
人の気も知らないで、とばかりに沈んだままで視線を向けてくるのを感じながら、佐織はランプを見つめ続けていた。
「人間ってさ、たぶん、自分が思ってるよりうんと強いものだと思うから。だからきっと、大丈夫」
過去の自分―。
振り子が揺れる掛け時計の下で、泣きじゃくる自分を思い出しながら、佐織はつぶやく。
自分で発した言葉が、自分をあのときの感覚へと引き戻していく。
私はきっと、自分で思うよりもずっと強いんだ――って、そう信じ始めた瞬間へと。
そんな佐織の様子を珍しそうに眺めながら、なつみさんはちょっとだけ首を傾げた。
「強い、かぁ………。そうなんかなあ…?」
心細げにつぶやいて、なつみさんは視線を階数ランプへと移す。
「うん。たぶん」
「そっかぁ、そうなんかぁ……」
1階、2階、3階、どんどん近づいてくる、こちらに向けて上がってくる―。
そしてもうすぐ、というところで、なつみさんがこちらに両腕を伸ばしてきた。
「え?」
振り返る、と同時に視界に入ってきたのは―。
「ありがとっ。もぉ、ティッシュのことといい、今の話といい、アンタいいっ! もう大好きやわ!!」
至近距離を通り過ぎ、肩へかかる重み―そして上半身にかかる温かさ――。
一瞬のうちに、佐織はなつみさんに抱きしめられていた。
それもこんな、誰がいつ来るかわからないエレベーターホールで。
「ちょ、ちょっと、なつみさん!?」
エレベーターが近づいてくる。
慌てて引き剥がそうとするも、しかし、興奮したなつみさんは離れない――どころか、泣きじゃくり始めている。
「嫌だぁー、もう、なっちゃんって呼んでー。私も名前呼ぶから」
そこまで言って、なつみさん改めなっちゃんはぴたりとしゃくり上げるのをやめた。
「あ。アンタ、何て名前だっけ?」
「……神崎佐織っていいます」
もう何なんだ、この人は。
人の名前も知らないくせに抱きついて――しかも離れないし。
しかし、一方のなっちゃんはというと。
「わかった」
こくんとうなずいて、再び泣きじゃくり始めた。
「わーーーん、サオリーン!! 私な、もうメチャクチャ辛かったんよー……! まさか受験の前日に、あんなことが起こるなんてー…。もう、さんざんやわ。人生、お先真っ暗やわー。わーん!!」
「さ、さおりん…って…」
身も心も固まった状態で、佐織は困惑した。
どうしよう。
何か良くないスイッチでも押してしまったのだろうか。
食べすぎから始まって、ギャルにニヒルにギャル、なんだかとんでもない1日だ。
「えっと、こんなときは……っと」
迫り来るエレベーターを前に、頭の中の引き出しをひっくり返す。
使えそうな豆知識を探し始める。何か…なかったかな…即効性があってとっておきの何かが…。
そしてエレベーターが到着し、今、まさに開こうとしたその時。
「あった!」
佐織はさっと両手をなっちゃんの腰に回して、指先を立て、一気にくすぐり始めた。
「や、やだ、やめて…!」
さっと両腕を離し、くすぐりから逃れるなっちゃんと、ほっと胸をなでおろす佐織。
そんな2人の前に現れた先客たちは、ほんの少しだけ不可解といった表情を浮かべたものの、特にこれといった反応もせずに。
「きゃはははは…!」
「失礼しま~す」
ツボにはまったのか、大笑いが止まらないなっちゃんを引っ張って、佐織はエレベーターに乗り込んだ。
「きゃはははは…!」
「ちょっと、静かにしてよ」
お腹を抱えて笑い続けるなっちゃんと、困惑しきりの佐織、それからその他数人を乗せてエレベーターは独特のふわりとした感覚を経て、下へ下へと進んでいった。
そして階数ランプの“2”が灯って扉が開いたとき、佐織は目を丸くした。
「え、2階って…もしかして…」
受験後、佐織が漠然と予定していたことが蘇る。
“2階事務室へ香坂先生を訪ねる”―。
もしかして彼女も、自分と同じ場所へ行こうとしているのだろうか。
しかし、そう考えるすきも与えず、弾かれたように飛び出したなっちゃんが佐織の手を引いた。
「さー、行くでぇ」
「い、痛いっ! そんなに引っ張らなくても行くってば」
手を振り払うと、なっちゃんはニヤニヤと笑った。
「なーにを大袈裟なこと言うてんだか~」
そのまま身を翻し、蝶々のように軽やかな足取りでエレベーターホールを出て右に曲がる。
その後に、嫌々ながら着いていった佐織は、ふと、見覚えのある“あの人”に釘付けになった。
「あれは、まさか………」
事務室と、パソコンが何台か置かれた談話室のような部屋の間にある廊下の奥―。
1階ロビーから吹き抜けている階段から、2人の男性が上がってくるのが見えたのだ。
「そっか、順調か。なら、良かった。お前のことだから、熱中しすぎてぶっ倒れてんのかと思ってたんだぞ」
と、片手をポケットに突っ込んだまま、目を細めているのはニヒルな香坂先生。
佐織が会いたいと思っていた人だ――――ったのだけれど。
「……あ!」
階段から上がってくるもう1人の、その姿が見えたとき。
「あはは、信用ないなぁ。香坂先生には」
苦笑いする、その顔が見えたとき。
ここに来た目的は即座に消えうせて、瞬間、高速回転で、佐織の脳裏にあのシーンが蘇り始めた。
クリスマスの京都駅。
ぶつかる衝撃。降り注ぐ、ツリーの飾りたち。
そしてその後の言葉―。
『すみません! お怪我はないですか!』
あぁ……まさか、こんなときに出会うなんて。
……………まさか、こんな……いきなりすぎて、心の準備ができていないよ――。
戸惑いをこめて、カバンをぎゅっと握り締めた佐織の視界のすみに、事務室のカウンターで大手を振って、中にいる先生に質問しているなっちゃんの姿が入っていた。
「すーいませーんっ。香坂先生、いませんかー? 受験票のお礼に来た、新城なつみでーすっ」
次回”スタートライン~8~”につづく