「おーい、サオリン?」
目の前で、パタパタと手が振られている。
京都コンピュータ学院2階事務室の廊下にて―。
ただ、呆然とたたずむ佐織の視界を手のひらがパタパタと扇がれていた。
「…あ、そうだった!」
はたと我に返る。
どうやらあのとき、香坂先生とかの人に会った瞬間、まるで何かの呪文にかかったかのように動けなくなって。
そのままほんのわずかな時間、茫然としてしまっていたようだった。
すぐ耳元では、なっちゃんが囁いているというのに―。
「サ・オ・リ・ンってばー」
って―――あれ?
「………耳元?」
と、浮かんだ疑問を肩の重みが瞬時に払拭していく。
「ちょ、ちょっと、人の耳元で何を囁いてるのよっ!?」
驚いて飛びのくと、なっちゃんがちょこんと舌を出した。
「囁いてなんかいーひんもーん。呼んであげただけやんかー」
「呼ぶにしても、もっとまともな呼び方があるでしょうが!」
「だって、サオリン、アタシをほっといて何か楽しいこと考えてるみたいやったから…。寂しゅうて寂しゅうて…」
そう言って、軽く握った拳を立てて口元から下に引く。
サングラスからもわかるような激しい嘘泣きから見るに、どうやらハンカチを噛む真似をしているらしい。
――なんて、わかってしまう自分にも複雑だけれど。
頭を抱え込んでいる佐織の肩を、話題転換とばかりに手を打ったなっちゃんが押してきた。
「そんなことより。行くで、インフォメーションルーム」
「え、え?」
先ほどから、彼女の突飛な言動にも慣れてきたつもりだったけれど、行くとかインフォメーションルームとか――何を言っているんだろう。
確認する間もなく引きずられながら、佐織は事務室の廊下を挟んだ向かい――談話室のような部屋へ連れて行かれてしまった。
2人とも、いつの間に入っていかれたんだろう。
ガラス張りの壁の向こうの部屋には、パソコンの載った丸いテーブルがいくつかあって、そのうちの1つを挟むようにして、香坂先生とあの人がにこやかに談笑していた。
――そう、間違いなくあの人、だ。
それを見た佐織は、なっちゃんの手を軽く払って、重い扉をゆっくり押した。
中にいる香坂先生には、自分にも、それからなっちゃんにも――確か受験票を届けてくれたお礼を言いたいとかで、用事があったから。
「失礼しまーす……」
まるでお化け屋敷にでも入るかのように、そっと、ゆっくりガラス戸を押し開けていく。
振り向いた香坂先生が、眉根を寄せてこちらを伺った。
「……あれ。さっきの腹痛の…?」
言われて、佐織はというと。
「あっ、あっ、あーーーーっ!!」
両手を振り振り、真っ赤になって香坂先生に走り寄った。
薬をくれて、しかも水までおすそ分けしてくれた香坂先生には悪いけれど、……すっごくすっごく悪いんだけれど、今は勘弁してほしい。
この人の前でだけは、絶対絶対―――。
そんな乙女心を知ってか知らずか、香坂先生はというと―。
とても素敵な笑顔で、無情にもハッキリと言い放った。
「いやぁ、元気そうで良かったよ。さっきは今にもトイレに駆け込みます、駆け込ませてくださいってばかりの表情を浮かべてたし」
あぁぁ………言っちゃった……この先生、言ってしまったよ……。
トイレ行きたい種類の辛さじゃなかったのに、ただ、胃がキリキリ痛いってだけだったのに。
何、この状態。
当時を知る人の発言は、当時を知らない2人に果てしない説得力をもって受け止められていた。
ここに来るまでやたらとハイテンションだったなっちゃんなんて、変に涙ぐんでるし。
「そっか。アンタもアンタで辛かったんやな…」
テーブルの向こう、香坂先生に向かいあうようにして座っているあの人も、
「そうなんだ。大変だったね…」
なんて沈痛な面持ちを浮かべているし。
あぁ、なんて再会なんだろう。
佐織は頭を抱えて、膝からかくんと折れてしゃがみこんだ。
「あぁぁぁ………」
京都に来る、KCGを受験すると決めてから、はや1ヶ月少々。
その間、折にふれては思い出していたあの人、京都駅で出会ったあの人が今、ここにいる。
素敵な再会を夢見ていた人が、――手を伸ばせばすぐに届く場所にいるのに――。
え、手を伸ばせばすぐに届く―?
『!』
引きかけていた頬の赤みが、またボンッと広がっていく。
手を伸ばせばすぐそこに、彼がいる。
夢見た再会、優しげな表情の彼、そして――。
ポンッ
ふいに肩をたたかれて、走りかけた妄想特急が急停車する。
見上げた先には、慈愛に満ちたなっちゃんの顔があった。
「どしたの、赤くなって。トイレ、一緒に行ったげよか?」
…………!!
肩の手を振り払って、佐織は満ちていく微妙な雰囲気も払うべく、パタパタと両手を振った。
そうだった。
妄想特急ってる場合じゃなかったのだ、今は。
佐織はあたふたと弁解を始めた。
「いやいやいや、だから、そうじゃないんですってば。誤解です、誤解! 胃が痛かっただけなんですってば! トイレに行きたいとか、そんなのちっともなくって、症状としては全然そんなのなくって、でも胃がキリキリ痛くって、それで…それで…」
あわあわと身振り手振りで解説する彼女の言葉に、香坂先生はのんびりとアゴに指をかけた。
「あ、そうだっけ。…そういや確かに総合胃腸薬を渡した…ような」
しまったしまったとばかりに頭をかく香坂先生に、かの人が苦笑いした。
「また、先生は。いろんな人にいろいろなものをあげてるから、混同するんですよ」
その優しげな言葉を耳にしながら、佐織はゆっくりと立ち上がる。
ぼうっとした頭に蘇るのは、京都駅での出会い。
『あぶないっ』
『すみません お怪我はないですか』
『すいません。ちょっと急いでいたものですから…』
彼が発した言葉が、ぐるぐると頭を巡っていく。駆け抜けていく。
やっぱりこの人、いい人なんだ―。
――と、再び現実から離れていきそうになったので、佐織は慌てて首を振って意識を戻したとき、テーブルの向こう側にいる彼が、思わぬ声をかけてきた。
軽く香坂先生を見遣って、佐織に初めて、声をかけてくれた――。
それなのに。
次の瞬間、彼の口から出たのは、こんな言葉だった。
「ごめんねー。知らない人に、トイレ話を聞かれたら凹んじゃうよね?」
「しら……」
知ら、ない人――?
今、知らない人って言ったよね―?
佐織の中で、時間が止まる。
駅で初めて出会ったときのこと。
それを追いかけてロビーで見かけたときのこと。
そして今、インフォメーションルームで――――。
それぞれのシーンが頭をよぎっていった果てに、浮かんだ5文字がずっしりと肩にのしかかるのを感じながら、佐織は事実を反芻していた。
衝撃で固まってしまった気持ちとともに。
『私のこと……覚えて…ない………?』
次回”スタートライン9”につづく