「あのっ。この近くでお薬を買えるところ、ご存じないですかっ?」
「お薬…? 薬って、薬屋でいいの?」
「は、はい、はい、はい」
意表をつかれたとばかりに面食らっている先生を前に、佐織は何度もうなずく。
生まれて初めての1人旅で、生まれて初めてビュッフェという言葉の意味を知って食べ過ぎて、そして生まれて初めてギャルに会い、さらにニヒルな人にも会う。
初めてづくしのオンパレードに、佐織の胃は思ったよりもキツイ状態に追い込まれていたようだった。
一方、対する香坂先生はというと。
どこからどう見ても、ごくごく普通の女の子が――それも、程よい緊張感を漂わせ、高校らしき制服を纏っている女の子が、いきなり薬屋さんの場所について聞いてくるだなんて挙動不審というか、何と言うか―。
なんだか、ちょっと不可解。
明らかにそういう複雑な表情を浮かべつつ、ついでに首をひねりながら、取り出したメモ用紙に簡単な地図を描き始めた。
「えっと、ここが今いる場所ね。ここから向かって左に出たら、……ここ、大きな通りに出る。それでさらにそこを左に曲がって直進したら、交差点があるよね。そこから道なりに沿って行ったら、駅舎が見えてくるから、そこに入って―――だからえっと、歩いて10分かかるかかからないか、かな」
「10分!?」
思わず出た声のボリュームに驚いて、口をふさぐ。
カウンターの奥から注がれた注目に、目の前の先生に、赤面しながら頭を下げる。
自分から聞いておいて、なんだか文句をつけているような反応をしてしまったから。
…にしても、10分もかかるだなんて。
自分1人で行ったら、比較的、順調に迷ったとしても25分くらい。往復50分かかる。
――って、50分!?
そんなに経過したら、どうなる?
胃薬を買って飲んで、無事、元気を取り戻したとして。
そこで能天気にルンルン状態・健康気分で戻ったとして、そのときは入学試験開始から、約1時間経過している。
どこをどう考えても、不合格、間違いない――。
どうしよう。
地元にトボトボ戻って、学校で先生とやりとりする自分が目に浮かぶ。
「あら、神崎さん。受験、どうだった?」
「それが…、薬屋さんの場所がわからなくて、道に迷って、それでも頑張って戻ったら、…試験開始から1時間くらい過ぎていて…。受験し損ねてしまいました…」
『そんなのいやぁぁーーーーーーー!』
声に出さずに、佐織は叫ぶ。
そんな目に遭うために京都へ来たわけじゃない。
だいたい、頑張ってお金貯めて旅行して、そこで道に迷っただけで地元へ戻るだなんて、何をやってるんだって話だ。
でも、どうしよう。
受験したい。
できれば合格したい。
そして京都で暮らしたい―。
だけど、だけど、だけど―――!
…と、佐織が顔を赤くしたり、青くしたりしているのをどう思ったのか―。
「えーっと、そのー……神崎さん?」
突然、名前を呼ばれて、現実へと舞い戻る。
「え、な、な、なんで知ってるんですか、私の名前!」
「そ、そりゃあ…、制服に名札ついてるもん。それはそうと、薬屋に大事な用事でもあるの? 見た感じ、特売のシャンプーをまとめ買いしたいとか、そういうふうにも見えないけど」
どこからどう見てもニヒルな雰囲気漂う人が、低い声で“特売”なんていうと、なんだかそこだけ浮いているように聞こえる。佐織は視線をさ迷わせつつ、考えた。
「はあ…。まあ、そうですね…」
ここで打ち明けた方がいいのだろうか。
“浮かれて朝ごはんを食べ過ぎて、胃痛をおこしてしまいました”って。
――いや、そこまでバカ正直に言う必要もないかもしれない。
じゃあ、どこまで言えばいいのだろう………?
「うーん………、えっと、そのー……」
何気なく、お腹をさする。
すると香坂先生が閃いたように、笑みを浮かべた。
「ああ、なるほどね」
そのまま踵を返し、窓際の席まで行って引き出しを開ける。
「えーっと。確か、まだ残ってたよな………お、あったあった」
縦に長い、小さくて薄めの袋と水の入ったペットボトルを出してきて、こちらへ戻り、カウンターに置く。
袋に書かれた文字に、佐織は目頭が熱くなった。
市販の“総合胃腸薬”―。
瞬間、香坂先生の姿が天使に見えた。
「先生、これ……」
「いやぁ、悪い悪い。さっきから、やたらと腹をさすってんなーと思ったんだけど、確証がなかったというか。鈍くてごめんな」
これでいいんだよな、と念押しされて、佐織は何度も何度もうなずいた。
そして気がついて、カバンに手を入れる。肌に馴染んだ財布を取り出して、尋ねた。
「あの。おいくらですか?」
「え? 何。お金くれるの」
からかうような返事に、佐織は大真面目に見つめ返す。
「はい。だって、タダではもらえませんから…」
頑なな態度に、香坂先生はふーんと感心したように腕組みした。
「のほほんとしてそうで、意外と固いんだなあー。もらえるものはもらっとけばいいのに」
「でも、タダでなんて……」
「ま、いいや。じゃ、出世払いってことにしよう。これは”さ迷える受験生”への、俺の個人的好意だから、…それでも気がすまないっていうなら、そうだな。きみが大人になって、就職でもしたときに飲み代でもおごってくれ。それでいいや」
「…え、飲み代…って」
未成年だからよく知らないけれど、飲み代って結構、高くなかっただろうか。
胃薬とお水を飲み代と引き換えにするだなんて、この先生、意外と――。
「ケチだって思ってるだろ?」
いきなり核心を突かれて、佐織は大きく手を振る。
「い、い、いえ、いえ、いえ。べ、別に、そんなこと…」
「ま、いいや。何も本当におごってもらおうだなんて思ってないし。とりあえず、飲んだ方がいいよ。試験が始まるまで、もうそんなにないから」
言われて、香坂先生の背後――壁にかかった丸い時計を見る。
開始時間まで10分を切っていた。
「わ! じゃ、お言葉に甘えて…いただきますっ」
薬袋の切り込み部分に指を当て、封を切って、口に入れる。
と、同時に、香坂先生がフタを回し開けてくれた。
「はい、どうぞ。受験生さん」
「はひ…」
一息に飲み込む。
口の中に広がった粉を流し込む。
苦い、ものすごーく苦い―――。
けれど、なぜだか体の奥からは、ぐんぐん力がみなぎってくるような気がして、佐織は気がついた。
『頑張ろう…』
もらったのは薬だけじゃない。
きっと、ほかにもっと……ありがたいものをもらったのだ、と。
次回”スタートライン~6~”へつづく