スタートライン~4~

 京都コンピュータ学院京都駅前校・2階事務室前―。

 入学試験開始まで、あと15分―。
 手首を裏返してそう確認したあと、佐織は高ぶった気持ちを整えるべく深呼吸した。

 本当ならもうそろそろ、試験会場となる教室へ移動していなければならない。

 だって、15分前。不慣れな場所でロスする移動時間を鑑みて、さらに若干の余裕をプラスするなら、そうしていなければならない時刻である。
 
 事実、ロビーでざわめいていた受験生たちも、大半がいなくなっているし。

 それなのに、それなのに。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 受験生たちの流れを外れて、やってきたある場所で、佐織は小さくため息をついた。

 「私、試験を受けに来ただけなのに……」

 もともと、それほど“予想外の展開”を好む性質ではない。
 できればすべて“予想できる範囲内”におさまっていて欲しい、いつだってそう思っている。

 今日みたいな、ビッグイベントのときは特にそう。
 出来ればつつがなく試験をこなして、そのまま帰れたら良かったのだけれど――。

 実際には、そういうわけにもいかないようで――。

 「う」

 いきなりのテンションダウンにつき、負担がかかったのだろうか。
 再び、悲鳴を上げかけたお腹をなだめるべく、そっと手のひらを当てて、佐織はカウンター前へと踏み出した。

 カウンターの向こうにいる先生たちに、勇気を振り絞って呼びかける。

 「あの…その、すみませーん」

 受験前だからか、はたまた慣れない環境だからか、……おそらく、その両方だろうけど。
 語尾にいくに従って急速に落ちていく声を意識して、うつむいてしまう。

 そんな小さな声が聞こえなかったのだろう。
 カウンターの内側では、パソコンに向かって作業をしていたり、軽い打ち合わせのようなものを交わしたりしていたりと、先生らしき人々が数人、それぞれに忙しそうにしている。

 どうやら、聞こえていないようだ。

 どうしよう、忙しそう。
 あとにした方がいいのかな?
 でも――えっと、しん………新城さんっていったっけ。あの人は受験票が無くて、佐織がこうしている今も困り果てているかもしれない。

 彼女のサングラス越しに見えた腫れぼったい目元と、ほんのり赤くなっていた鼻を思い出して、佐織はカバンに添えた手をきゅっと握り締めた。

 「ちゃんと言わなくちゃ」

 と、決意したその横をすっとすり抜けるようにして、1人の少女がカウンターへ手をかけた。
 かすかにこちらを振り返って、無愛想にボソッと言い置いて。

 「何をグズグズしてるんだか。そんな小さな声じゃ、気付いてもらえないわよ。くだらない」

 彼女はすうっと深呼吸して、ショートカットの髪を軽く撫で付けて。
 それから女子のこちらが見惚れるほどの微笑を浮かべて、声を張り上げた。

 「お忙しい中を失礼致します。私、本日、奨学金制度について詳しくお聞きしたいとご連絡しておりました、桂木えりと申します」

 瞬時にガラリと変わった印象、そして雰囲気に圧倒されながら、佐織は彼女を食い入るように見つめて、――気がついた。

 『うわ。この人、美人だ!』

 切れ長の目や薄い唇、それから形の整った鼻が絶妙な位置に収まっていて、シンプルなシャツと、すらりとしたジーンズから伸びた手足は長くて細い。
しかもスリムなだけではなく、どうやらちゃんと出てるとこ出てますっていわんばかりのスタイルだし……。

 対して、隣にいる自分はというと。
 顔立ちは幼くて、身長は低いし、ついでに食べすぎで胃痛に悩まされている。

 あぁ、京都は美人の多い土地だというけれど、まさかこんなに早くに出会ってしまうとは―!
 佐織は、軽くショックを受けていた。

 ―――って、そんな場合ではなかった。

 パソコンから目を上げた先生が、こちらへとやってくる。

 「あ、桂木さんですね。ちょっと待ってくださいね、担当の先生を呼びますから」

 先ほど、佐織に向けた無愛想さなんてカケラもない。
 桂木さんは、にこにこと愛想笑いを浮かべてお辞儀をした。

 「はい。よろしくお願いいたします」

 内線電話だろうか。
 数回、プッシュして相手を待つ間、先生は佐織の姿をみとめて尋ねた。

 「あなたは付き添いの方?」

 良かった、声をかけてもらえるだなんて。
 渡りに船とばかりに、佐織は激しく首を振った。

 「い、いえ。私は別の用事で…」

 すると先生は、相手が出たのか受話器の口元をふさいで、微笑んだ。

 「そうなんだ。ごめんなさいね、お待たせして」

 顔の前で手を振る佐織に頭を下げて、彼女は辺りを見渡す。
 事務所の奥、窓際そばの机から立ち上がろうとしていた男性に声をかけた。

 「コウサカ先生。対応、お願いします」

 「あ、はい。俺ですかー?」

 男性がこちらを見上げたので、彼女は無言でうなずくと、受話器にかけていた指先を外して話し始めた。

 「あ、もしもし、2階事務室ですけど。奨学金制度のことでお約束のあった桂木さんがみえてますので…」

 依頼を引き受けた男性は手元の作業に集中していたのか、しばし目をパソコンに落としたまま、佐織に向かって手を振った。

 「ごめんねー、ちょっと待っててくれない。2秒で行くから」

 言いながら手元にあるプリントの束を起こしてトントンと角を揃えてから、薄い本とともに小脇に抱えてこちらへやってくる。
 カウンターのそばに荷物を置いて、彼はこちらを向いた。

 「こんにちは。どんな御用かな?」

 「こんにちは、コーサカ先生」

 「あ、”ー”って伸ばすんじゃなくて、”ウ”を入れといて。コウサカっていいます。ちなみに漢字は香川県の香に、坂道の坂」

 「”香坂先生”…」

 「そ。よろしくね」

 さらっと自己紹介して、にやりと笑う姿はどこかニヒルな雰囲気を漂わせている。

 推定年齢は30代前半というところだろうか。
 がっしりとした体つきに、どことなく斜にかまえたような目つき―。
もう少し年を重ねたら、葉巻の似合う“ダンディなタイプ”になること確実なタイプに見える。

 こうしている今も、学校の先生のはずなのに、初対面の女子高生に対して柔和な笑みを向けてくれているはずなのに、大人の香りがぷんぷんする、というか――。

 こんなタイプ、テレビでしか見たことが無い。
 まったく今日は、初体験の多い日だ。

 と、息を呑んだところで、佐織ははたと気がついた。

 『……って、見惚れている場合じゃなかった!』

 首を振って妄想モードを切り替え、スクールコートのポケットから、例の紙切れを出す。

 「あの。こんなものを拾って。…その、大事なものかと思いましたから」

 前置きして、カウンターの上に置いたそれを、香坂先生が探るように細長い指先でつまみあげる。
 もう片方の手をアゴに当てて唸りながら、彼は苦笑いをした。

 「あー、受験票かぁ。確かに大事なものだなあ…」

 困ったもんだ、と苦笑いをして、まるで幼い子供を見るように、温かい眼差しを受験票に注いでいる。

 あれ、もしかしてこの先生、優しい――?
 ニヒルだけではなく、こういう一面もあるだなんて。きっと、この落差にまいってしまう女性は多いと思われる。ギャップっていうのかな、そういうのに弱い人って多いらしいから。

 ―――なんて、全部、恋愛小説の受け売りだけれど。

 さて、目の前の少女がそんなふうに納得しているとは露知らず、先生はプリントの束の上にそれを置いた。

 「ありがとう。俺から渡しておくよ。………えっと、ほかに何か聞きたいことはある?」

 「え、えっと…」

 手首を裏返して、時間を確認する。
 受験開始まで、あと10分―。
 そろそろ、――というか絶対にもう移動しなければならない時刻である。

 それなのに。
 自分が気付くより先に、口は――勝手に脳みその意向を無視して、体のそれを優先させていた。

 「あ、あのっ……!」

       次回”スタートライン~5~”へつづく

 ↓桂木えり・ラフスケッチ~藤崎聖・画~

 

桂木えりラフスケッチ
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スタートライン~3~

 京都コンピュータ学院京都駅前校・正面入り口―。

 「…あれ?」

 入学試験開始まで、あと30分―。
 手首を裏返してそう確認したあと、佐織は体のどこかに違和感を覚えた。

 まずい。
 何だかものすごーく、良くないことが起きるような気がする…ような――?

 片手を肩掛けカバンに添えたまま、もう片方の手を恐る恐るお腹に当てる。
 瞬間、予感が確信へと変わった。

 「お腹が…痛い……」

 つぶやいて自覚したとたんに“食べすぎ”の4文字が、重く体にのしかかる。さーっと顔から血の気が引いていく。
 同時に、待っていましたとばかりにみぞおち付近から、小さな痛みが走り始めた。

 キリキリ…キリキリ…キリキリ……

 悲しいほどに規則正しいリズムに、わずかに体をくの字に曲げる。

 「う…」

 これでも無事、時間通りに着くまではと遠慮してくれていたのだろう。
 心配事から解き放たれた胃は、次第に痛みを増していくように思われた。

 キリキリ…キリキリ…キリキリ……

 こんなことなら、最後のデザートを控えておけばよかった。
 甘いあずきと、その中でプカプカ浮いていた白玉団子が頭の中に蘇る。甘いものは別腹だって言い訳して、ぱくっと食べてしまったけれど、あそこできちんと自分にブレーキをかけておけばよかったのだ。

 今日は受験日なんだぞ、食べ過ぎちゃダメだぞ。しっかりしなさいって。

 いや、もしかしたら、それでもやっぱりお腹は痛めていたかもしれない。
 あのパンパンになったお腹から、小皿入りのデザートを引いたくらいで、さほど容量が変わるとも思えないから。

 ――なんて、どちらにしても後の祭りなわけだから、今更、どう嘆いても手の尽くしようがないんだけど。

 深呼吸を何度かして、ちょっとだけ楽になった体を休めるべく、辺りを見渡す。
 試験が始まるまで、まだ時間がある。とりあえず、どこかに座ろう。座って、自然と楽になってくることを祈ろう。自己治癒力を信じよう。

 階段を軸にして、半ば祈るような気持ちでその周囲を歩く。
 刻々と迫る時間の中で、少しずつロビーにはひと気が増えてきているように思えた。

 ウィィン…

 自動ドアが開く音がして、足音が響いてくる。
 佐織と同じように1人だったり、友人と思われる人と一緒だったり、さまざまな組み合わせがロビーへ集まってくる。理系というだけあって男子が多いけれど、女子がいないわけでもなく。

 ただ、ほぼ全員が、特に派手でも地味でもなく、わりとどこにでもいるような平均的な高校生に見えたので、佐織はちょっとだけホッとしつつ、歩き続ける。

 自分の同級生になるかもしれない人々が、もしかしたら友達になるかもしれない人々が、参考書を開いて復習していたり、友人らしき組み合わせで歓談しているそばを、ひたすら休憩できる場所を求めてさまよい続けた。

 そして。

 「あった」

 か弱くつぶやいた視線の先は、階段の真後ろ―。
 学生たちが等間隔を開けて座るベンチの隅に空席を見つけて、佐織は力なく笑んだ。

 良かった、人生悪いことばかりじゃない。
 佐織はひとまずそこへ腰掛けて、カバンから取り出したハンカチで額の汗をぬぐった。

 「ふぅー……」

 うつむいて肩を落とし、ゆっくりと息を吐き出す。
 どうか痛みが出て行きますように、もしそれが無理なら、せめて午前中は静まってくれますようにと願いながら。

 と、そこへ―。

 ウィィン……

 自動ドアが開く音がして、一瞬、ロビーのざわめきが止まった。
 人々の視線がドアに集中する。

 ある人は目を丸くし、またある人は眉根をひそめて怪訝そうに、正面入り口に注目している。

 なんだか異様な雰囲気が漂い始める中、 佐織は痛みを忘れて、軽く腰を浮かせた。

 「どうしたんだろ?」

 お腹に手を当てたまま、人影の合間から、彼らの視界をとらえようとする。立ち上がって軽くジャンプしたり、再びベンチに座って身を傾けてみたり…。

 考え付く限りの案を実行して、佐織は足を投げ出してため息をついた。

 「この人たち、なんでこんなに背が高いんだろ?」

 正解は前の人垣の多くが、男子だから――と言われれば、それまでなんだけど。
 思いもかけずに訪れた状況に、佐織は久しぶりに自分の身長について思い出した。

 「そっか。私って、本当に背が低かったんだ…」

 ちょっと感動。
 そうか、男子がいるってこういうことなんだ。

 ほとんどの注目が前方に注がれる中、佐織はそのことも忘れて1人、小さく手を打って納得していた。

 と、その時―。

 コツコツコツコツ…

 静まり返ったロビーに、足音が反響し始めた。

 これまで集まってきた、誰の足音でもない。
 スニーカーでもローファーでもない、低くて強いこの音は――ブーツ。
思い出したように見やると、たくさんの足の合間からのベージュのブーツが近づいてきていた。

 あずさが履いているようなスリムなものではなく、もっとヒールが太くて筒の部分に大きなボンボンがついているような、いわばちょっとギャルっぽいブーツが―。

 受験にこんな靴で来るなんて。
 これが関西のスタンダードなのだろうか。
 都会の女の子にとって、これは普通の格好なのだろうか。

 驚きで目を丸くしながらも、佐織は首を振った。

 いや、そんなはずはない。
 出願する際に問い合わせた入学事務室の人も、そんなこと言っていなかった。

 「ギャル系の女の子は、ギャルっぽい格好で来てくださいねー」

 なんてことは、全然。

 そもそも、趣味や嗜好で受験の服装が変わるだなんて聞いたことがない、何かのオーディションじゃあるまいし。

 『でも、受験って考えようによっては、一種のオーディションと言えなくもないよね…?』

 と、頭の中の話が、だんだん脱線気味になってきたところで。

 コツ…

 ある人垣の前で、ブーツの足音が止まった。
 すかさず、その人は険のある声を出した。

 「ちょっと、邪魔。どいてもらえる?」

 低い。
 それになんだか、かすれているような――?
 喉でも痛めているのだろうか?

 自分自身が先ほどまで強い腹痛に悩まされていたので、きゅっと胸が痛くなった。

 でも、そう同情的になったのは、どうやら佐織だけだったようで。

 「は、はいっ」

 迫力に圧されたのか、言われた男子がたじろいで道を開けた。

 そっけなく、どうもと言い残して、少女は歩き出す。

 「…ったく、なんでこんなに人がいるのよ」

 聞こえよがしにつぶやいて、女子よりもはるかに多い男子の群れを突っ切っていく。

 コツコツコツコツ……

 静まり返る人々の上を、ブーツの足音が反響していく。

 迫ってくる彼女に気おされたのか、佐織の目の前、ちょうど人の垣根がほどけたところに彼女が姿を現した。

 「ぎゃ……」

 思わず漏れた言葉を、口を覆って封じる。
 周囲の注目がいっせいに佐織に注がれると同時に、少女は立ち止まって、正面からこちらを見据えた。

 「何か?」

 「い、いいえ」

 ぶんぶんっと首を振る。

 手のひらの下で、声を出さずに唇だけ動かした。

 『ギャルだ、ギャルだ。ホンモノのギャルだ~~~』

 テレビ番組で見たことはあるけれど、実際に遭遇するのは初めて。まさか、こんな場所で会えるだなんて。きっと、あずさが聞いたら、地団太踏んで悔しがるだろう。

 茶色というよりはそれを通り越して若干、白くなっている髪も、長いトレーナーの裾からフリルを出した膝上10センチはありそうな服も、ついでにブーツも。
 どこをどう取っても、ギャル。ホンモノのギャルだった。

 ただ1つ、大きなサングラスをかけていること以外は――。

 サングラスを外せば、もっとそれらしくなるだろうに。
 その部分だけが、まるで取ってつけたかのように違和感を生み出していた。

 まぁ、だからと言って、初対面の女子に無邪気に尋ねるようなこと、できるはずもない。。

 もしかしたら、将来のクラスメイトかもしれないのに、そんな目で見ちゃ、ダメ。
 佐織は現実では愛想笑いを、心の中では自分の頭をぽかぽか叩いていた。

 その様子を、少女は苦虫を噛み潰したように見つめ返している。

 ――と、まじまじと見つめあったところで、佐織はあることに気がついた。

 『あれ。この子の鼻、ちょっと赤い?』

 注意してみれば、サングラスの奥にあるまぶたも腫れぼったいような――?

 「あ、そうか」

 ここで佐織は、ぽんと手を打った。

 そうか、わかったぞ。
 あれが原因で彼女は機嫌が悪かったんだ。
 おばあちゃんが昔から言い聞かせてくれた言葉を思い出す。

 『困っている人がいたら、親切にしようね』

 それにうなずきながら佐織はカバンに手をいれ、ポケットティッシュを差し出した。

 「花粉症ですか、もしかして」

 問われて、少女は一瞬だけぽかんと口を開けて、それから顔を赤らめて否定した。

 「ち、違うわよっ!」

 なんだ、見当違いだったのか。
 ぽりぽりと頭をかく佐織をよそに、彼女は歩き出した。

 「さよならっ」

 戸惑いを含んだ言葉を残して、迷うことなく建物の奥へ奥へと進んでいく。歩みにブレがないところを見ると、どうやらここに来るのは初めてというわけではなさそうだ。

 「さよなら…」

 突き返されたティッシュをしまいながら、その背中に挨拶を返したあとで。
 
 「あれ」

 ひらっと何かが、彼女のコートのポケットから流れ落ちた。

 「え?」

 思わず、駆け寄って拾い上げる。

 一度、握りつぶしたような跡がついたそれは一枚の紙切れ―。
 佐織が今朝、ホテルを出る前に何度も持ち物確認したうちの1つ。

 今日の必須アイテム、受験票だった。

 「ちょ…!」

 こんなものを落としては大変だ、すぐに届けてあげないと。

 佐織はベンチから立ち上がり、少女が歩いていった方向へと突き進む。

 ロビーの奥へ、奥へと進んでいく―。

 そして、左に折れたところで愕然とした。

 「あっ!」

 しまった、知らなかった。
 閉じたばかりの扉の上で、数字が1つずつ点滅していく。上へ、上へと上がっていく。

 ロビーの奥はエレベーターホールだったのだ。
 で、彼女はそれに乗って違うフロアへと行ってしまったのだ。

 「あーあ……」

 どうするんだろう、受験票なんて落っことして。
 ちゃんと試験、受けられるのかしら。

 困ったなあとため息をつきながら、佐織はそこに記された名前をつぶやいた。

 「“新城なつみ”さん、かぁ……」

 大丈夫なのかなぁ、という心配の気持ちをこめて――で、次の瞬間。

 キリキリキリキリ……

 「うっ!」

 心配事にひと段落ついたと判断したのだろう。
 またまた、ほっとしたところで、胃が痛み始めたのだった。

       次回”スタートライン~4~”へつづく

 ↓ 新城なつみのラフスケッチ~藤崎聖・画~
 

新城なつみラフスケッチ

 

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スタートライン~2~

 これは一体、何を示す文字なのだろう。

 受験日の朝―。
 泊まっていた部屋を出て、ホテルのレストランまでやってきた佐織を見慣れない単語が出迎えていた。

 「ビュッ…フェ……?」

 ゆっくりと首を傾げる。
 
 そう。
 目の前にある、斜めに傾いたオシャレな看板にはめ込まれたメニューの先頭には、確かにそう大きく書いてあった。

 カタカナで5文字、“ビュッフェ”。
 その下には和食やら洋食やらのメニューが並び、反対側にはいくつもの大皿に盛られた色味あざやかなお料理の写真が、“メニュー例”と称してくっついていた。

 もうかれこれ、5分は経過しているだろうか。ずっと立ち尽くしたまま、佐織は1人、頭を抱え続けていた。

 「ビュッ…フェ……って何?」

 と、ぽつりとつぶやいたりして。
 はたから見たら、ちょっと怪しい人かもしれないけれど、この時期はどうやら観光シーズンではないらしく。先ほどからレストランの奥から、時折、カチャカチャと食器を準備する音がするだけで、人っ子一人通らない。

 せっかく張り切って、朝食開始前にやってきたのに。
 部屋から出てカードキーをポケットにしまって、貴重品も持って、万全の体制で臨んだはずなのに。

 エレベーターを出て、少し歩いてレストランを見つけて、はずんでいた歩みはそこでピタッと止まってしまった。

 「ビュッ…フェ……って何?」

 って―。

 こういうとき、あずさならきっと無難に人に聞くことができるかもしれない。いや、むしろ、そんなの聞くまでもないのかもしれない。18になる今まで、ほとんど地元から出ることなく過ごしてきた佐織とは違い、あちこち旅行へ出かけることに慣れたあずさだから。

 きっと、佐織がこうしてレストラン前でオロオロしているのを見かけたら、いつものように意地の悪い笑みを浮かべて、こう、アゴに指なんかかけて上から目線で言うに違いない。

 「ビュッフェって何、ですって。まさか佐織ちゃん、ビュッフェも知らないの。おっくれてる~。それでも18歳なの?」

 …いや、いくらあずさでも、ここまでキツイことは言わないだろうけれど。

 でも、何しろ、ただ今混乱中の佐織にとっては、この見知らぬ単語の意味を知らないということは、ものすごく恥ずかしい気持ちになっていたのだ。

 「え、えっと…」

 最後の頼みとばかりに、肩から斜めがけしたポーチからチケットを取り出す。
 正面にはお食事券という文字、裏面にはレストランまでの簡単なフロア地図…それだけ。

 けれど、場所も時間も間違っていない。

 だからたぶん、このお食事券と引き換えに朝食が食べれるのだと思う。

 食べれる、はず……なんだけ…ど。

 迷えば迷うほどに、佐織は自信をなくしてしまっていた。

 「ビュッ…フェ……」

 看板を前にしたまま、うなだれる。
 “バイキング”なら、知っているんだけど。
 
 思い出せば出すほどにこの写真は、どう見ても地元のホテルでやっている“バイキング! シェフ自慢の料理が120分食べ放題!”という広告に使われているものと似ている気がするんだけど。

 『でも、でも、でも……!』

 心の中でつぶやいて、佐織は頭を抱えた。

 もしこれが、自分の知る“バイキング”ではなかったらどうしよう?
 おなかいっぱい食べて、お会計のときにお食事券を出したときに、

 「申し訳ございません。お客様、こちらのチケットはお使いいただけません」

 なんて冷たい眼差しで言われたら、それで法外な金額を請求されたらどうしよう?!

 混乱する頭の中に、以前、大好きなお笑い番組で芸人さんたちがやっていたやりとりが蘇った。

 「さんざん食っておいて、金がないだと!?」
 
 「すいません、ないんです。皿洗いさせてください」

 「さ、皿洗い……!?」

 佐織は愕然とした。
 街角の定食屋さんならまだしも、ここ、佐織が今回泊まったホテルはそれなりの大きさで。

 そしたらたぶん、想像以上のお皿、それからたくさんの大きなお鍋やフライパンもあるはずで、そしたら…そしたら…。

 「受験に…間に合わない…?」

 どうしよう。
 地元にトボトボ戻って、学校で先生とやりとりする自分が目に浮かぶ。

 「あら、神崎さん。受験、どうだった?」

 「それが…、ビュッフェの意味がわからなくて、おなかいっぱい食べ過ぎて、追加料金を請求されて…それで払えなくて…。ずっと皿洗いしているうちに、受験し損ねてしまいました…」

 『そんなのいやぁぁーーーーーーー!』

 声に出さずに、佐織は叫ぶ。
 そんな目に遭うために京都へ来たわけじゃない。
 だいたい、頑張ってお金貯めて旅行して、そこで皿洗いして地元へ戻るだなんて、何をやってるんだって話だ。

 でも、どうしよう。
 ビュッフェって何?
 追加料金はいくら必要?
 でもそれって、レストランに入って聞けばいいの?
 
 なんだかわからないことがいっぱい…。質問するの、恥ずかしいよ………。

 混乱の中をさまざまな思いが駆け巡っていく。
 
 と、その時だった。

 ぶるぶるぶる……

 「ひゃっ!」

 奇妙な物音に、パニック状態から現実へと舞い戻る。

 「誰よ、こんな朝から…?」

 コートから携帯電話を出して、折りたたまれた携帯の小さなディスプレイに“Eメール受信”の文字を見つける。
 親指を何度か押して、差出人の項目に“実佐”と出たそのメールに添付された写真に佐織は思わず、顔をほころばせた。

 「わ…キレイ…」

 朝陽を浴びてきらめく桜並木の一本道が、おそらくシャッターを切る前に手元を動かしてしまったのだろう、少し滲んで写っていた。

 普段は、機械系が大の苦手なくせに。
 自分は女子として撮るより撮られる側でありたい、だなんて言って、カメラを持つことすらも拒否しているくせに。そんな妹がわざわざ、友達に借りたカメラで写真を送ってくれたのだ。

 うれしくないはずがない。
 佐織は胸がじーんと熱くなった。

 「ありがとう、実佐…。私、頑張る……」

 そうつぶやいて目のふちをぬぐい、幸せな気持ちでいっぱいになったとき。

 「あ」

 ぽんと手を打って、佐織は気がついた。
 そうかその手があったんだ、って。

 「また、妄想特急しちゃったよぅ…」

頭をぽりぽりかいて、佐織は親指を動かして、メールボックスを閉じる。
 インターネットに切り替えて、つい最近読んだばかりの説明書を頭の中でめくっていく。まったく新しい機種ではないけれど、IT系に興味を持ったときから少しずつ読んで使い方を覚える努力をしてきたのだ。
 
この際だからパソコンだけではなく、ほかの家電にも強くなってみようかなーと思って、ほんのちょっとだけ。
 それがこんなときに役に立つだなんて。これも頑張った賜物、ってものだろうか。

 佐織は1人で大きくうなずきながら、ボタンを押して、少しずつサイトの中を進み――そして。

 「あった!」

 たどり着いた検索サイトに“ビュッフェ 意味”と打ち込んだ結果――。

 「そっか。ビュッフェってフランス語なんだー。バイキングと同じ意味なんだー」

 ぐずぐずしていた原因をすっきり取り去った佐織はようやく胸を張って、レストランに入っていった。

 「おはようございまーす」

 店員さんの明るい笑顔に、なぜだか誇らしい気分になりながら佐織は元気に挨拶を返す。

 「おはようございまーーす」

 ご飯をたくさん食べてお腹いっぱいになったら、KCGに行こう。
 合格して、この町でたくさんたくさんレベルアップしていこう。さっきみたいに少しずつ、少しずつ…。

 こうして佐織の受験日が始まった。

       次回”スタートライン~3~”へつづく

 

神崎佐織ラフスケッチ決定分その3
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スタートライン~1~

 ゴトン…ゴトン……

 電車が揺れている。
 そのリズムが疲れた体に心地いい。
 思えば今朝は早くから起き出して移動に移動を重ねた上に、あちこち道を間違ってしまったから。

 出なくていい改札口を通り抜け、乗らなくていい電車に乗り込み、逆に乗るべき電車を逃し、ホームで途方にくれていたところを駅員さんに助けられたり――。

 一応、二回目なのに。
 以前に辿った道をそのまま、辿りなおしているだけのはずなのに。

 それなのに、それなのに――!

 乗り換え不要、目的地まで直行の車両に揺られながら、佐織は控えめに地団駄ふんだ。

 「どうしてこんなに迷うのよぉぉ~~~……」

 こんなことなら、昨夜、“出陣祝い”と称してあずさが来てくれたときに、ちゃんと受け取っておけばよかった。“あずさちゃん特製・市販の地図よりも、ネットの路線案内よりもわかりやすい、佐織ちゃんのための京都行き詳細マップ”とやらを。

 そしたらこんな、移動時間が倍近くかかってしまうなんてことはなかったはずだ。

 細く長く息を吐き出しながら、佐織は心の底から自分の持って生まれた特性を恨んだ。

 それからすっかり“出陣祝い”ムードな夕食の中でカッコつけちゃって、

 「大丈夫大丈夫。1回行ったんだもん。京都くらいすんなり行けちゃうよー」

 なんて、見栄を張ってしまった自分の口も。
 こうしている今も、人目がなかったら、つまんでしまいたいくらいだ。そうしたら少しは気がまぎれるかもしれないから。

 道を間違えたことへの恥ずかしさ、そしてそれ以上に自分に重くのしかかっている、……”緊張”、という状態から。

 「まずい、まずい」

 自覚しそうになって、佐織は大きく首を振る。
 そして気分転換にと外の景色を眺め、あれこれ考えているうちにまた、旅行カバンがずれ落ちそうになっていたり……して―?

 「!?」

 前回のことを思い出して、佐織ははっと下を向いた。
 良かった、手はしっかり膝の上にある旅行カバンを抑えている。
 ずり落ち防止対策は万全だ。

 1人で大きくうなずいて、佐織はふとネームタグのそばで揺れているものを手に取った。
 同じ神社の、同じ色の、同じ目的のためのお守りが2つ―。
 1つは自分、もう1つはあずさが買ってくれたそれらを交互に撫でながら、佐織はこの怒涛の1ヶ月を思い返した。

 年明け早々―。
 進路変更への決意を固めたものの、迷ったり、決意したり、でもまた迷ったりで、なかなか言い出せない時が過ぎた、新年最初の家族団らんにて―。
 
 おせち料理を前に、佐織はついに宣言してしまった。

 「私、N大学には行かない。京都行くっ!!」

 なんて―。

 今思えば、どう考えてもよくないタイミングだったよなー…と思う。
何秒かの静寂を経て、家族はみんないっせいに大騒ぎし始めたし。

 「さ、佐織。何を言ってるんだ。大学行かずに旅行するだなんて何をわけのわからないことを…わっ!」

 と、立ち上がりかけて、飲みかけのグラスを倒してしまうお父さんの横で、お母さんはふきんを使って畳の上を拭った。

 「お父さんったら、ビールこぼれてる。ほら、私の言ったとおりだったでしょ。お母さんわかってたわ。佐織はやっぱり、何か悩みを抱えてたのね…………って、え、京都?」

 その向かいにいた実佐が、急速な雰囲気の変化に一瞬、顔を青くして腕を伸ばした。

 「まずっ!」

 小さくつぶやいて、即座にお母さんの手元にあったぽち袋を1枚、回収する。そのままの勢いで、ぺこりと頭を下げ、彼女は早口にお礼を述べた。

 「あけましておめでとうございます。お年玉、いただきます」

 そそくさとポケットにしまう。
 直後、おばあちゃんがずずっとお茶をすすったところで―。

 説得が、始まった。
 神崎佐織、一世一代の大説得が――。

 それから学校へ進路変更の手続きをして、あずさには合格するまで打ち明けられなくて、でもバレて、それが原因で気まずくなった時期もあった………けれど、けれど…。

 大丈夫。
 もう凹まない。
 きっと、うまくいく。

 思いのたけをすべて話して理解を得たとき、自分が選んだ道を手に入れた爽快感が、佐織の心をすうっと突き抜けていった。

 あれは大人になるための第一歩…だったのだろうか……なんちゃって、思い出すと照れてしまうけれど。

 そして今――。

 ゴトン…ゴトン……

 あの年末と同じ。
 佐織は、京都へと向かっていた。

 けれどもちろん、悩んだり凹んだりしながら電車に揺られていたあのときとすべてが同じ、というわけではなくて。

 重い気持ちなんて、微塵もない。
 心の奥から、強い力が流れてきているのを感じていた。

 流れる景色は夕焼けに包まれていて、とても優しくて、それだけなのにほほがゆるんでしまう。

 ほんの数ヶ月前までは、知りもしなかった世界が。
 思いもしなかった未来が、どんどん近づいてくる――。

 そんな世界で暮らす自分を思うと、胸が躍る。いろいろなシーンを想像しては、ついついニヤけてしまう。

 受験は明日だというのに、もう受かってしまったかのような言い方だけれど、別にかまわない。楽しい気持ちでリラックスして受ければ、きっと、大丈夫。
 限られた時間の中で、自分なりに準備してきたのだもの、大丈夫。自分に自信を持って、しっかりつかんでみよう。

 「私の、未来を…」

 流れる景色を横に噛み締めた言葉に、車内アナウンスが重なった。

 「まもなく京都―、京都。○○線お乗換えの方は△番乗り場から…××線お乗換えの方は…」

 新たな出会いが、すぐそこに迫っていた。

       次回”スタートライン~2~”へつづく

  

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迷いの中で~6~

 カチ…コチ…カチ…コチ…

 遠くから、掛け時計がリズムを刻む音が聞こえる。
 夢と現の間にある黒く塗りつぶされた闇の中で、さっきの自分と過去の自分が交差して、過去と今が目まぐるしく現れ、そして消えて――。

 感覚が曖昧になっていく。

 『いったい私ってば、何してるんだろ――?』

 ふと浮かんだ問いに、佐織はまぶたを開ける。
 そこにまず、天井の木目模様が飛び込んできて、そこから吊るされた和風の照明のまぶしさに佐織は思わず手をかざして、光を遮った。

 ポーン

 定時を告げる音が、佐織の居場所を―時を伝えてくれる。

 そうだった。
 自分はあれから泣きつかれて眠ってしまったのだ。

 畳をこする音がして、おばあちゃんがゆっくりと席を立つ気配が感じられた。

 コタツの反対側で行われていることなのに。横になっている自分には見えないはずなのに、びっくりするくらいにおばあちゃんの行動を言い当てられる。
 急須のふたを開け、ストーブまで向かって、やかんの中をちらっと覗いて、お湯を急須に注ぐ―。

 すべてが、まるで見ているかのように鮮明に浮かんでいる。

 そして―。
 湯のみにお茶をいれ、おばあちゃんは小さくつぶやいた。

 「お茶、入ったよ」

 佐織がおばあちゃんの行動を言い当てられたのと同じ。
 おばあちゃんも佐織の目覚めを見抜いていた。

 「…ん…。ありがとう」

 うつむき加減に、ごそごそと起きだして湯のみに口をつける。
 少し前に白湯を入れて温めてくれていたのだろうか。
 湯のみは中に入ったお茶は熱を奪われることなく、温かさを共にしていた。

 佐織を温めるために。
 気持ちの均衡を失った心をなだめるために。

 そう思ってはいるのだけれど…… まずい、また泣いてしまいそうだ。
 ……佐織はうつむいて、胸にいっぱいになった感情と一緒にお茶を一息に流し込んだ。

 淹れたてのお茶は思ったより熱くて、ちょっとむせ返ってしまったけれど。

 するとふいに、おばあちゃんは白いアルバムを開いて、先ほど選り分けた写真を順々に薄いセロファンの下に並べ始めた。

 「ね、おばあちゃん。これ、何の写真?」

 湯飲みを置いて、身を乗り出す。
 おばあちゃんは老眼鏡の向こうからちらりとこちらを見て、一瞬、ほっとしたようなうれしいような色を浮かべて、すぐに目線を手元に戻した。

 「老人会の旅行だよ。ほら、秋にあっただろう?」

 「そういえば…」

 「帰ってきてから少しばたばたしてしまって、ついつい写真屋さんに出しそびれてね。佐織ちゃんのお母さんが、京都旅行のぶんを持っていくというから、ついでに行って来てもらったんだよ」

 「ふうん…」

 逆さまのままで、写真を見ると…確かにそこには旅館の大広間でお料理を囲んだり、楽しげに温泉街を闊歩したり、仲良しのヨネさんとカラオケをデュエットしていたり――。

 佐織の知らない、たくさんのおばあちゃんの“顔”がそこにあった。今、目の前にいるおばあちゃんではなく、ただ、旅行をはしゃぐ少女のような顔のおばあちゃんが―。

 それになんだか寂しさを覚えて、佐織は目線をそらした。

 「いいなあ、おばあちゃん。楽しそう…」

 その真意を知ってか知らずか、おばあちゃんは柔和に目を細めた。

 「うん、楽しかったよ。みんな大事な友達だからね」

 「友達…かぁ…」

 思わず、ため息が漏れる。
 どんどん先を行ってしまうあずさの姿が、ふいに蘇ったのだ。

 京都駅の雑踏の中を遠ざかっていく、ちっちゃなフード付きの黒いコート。

 「ちょ、置いていかないでよ!」

 訴えるけれど、あずさはどんどん歩いていく。
 地元にいるときとは比べ物にならない速さで、まるで知らない、都会の人みたいに――。

 あのときは簡単に追いつけたけれど、実際にはどんどん離れていっているのではないのだろうか。
 こうしてどんどん距離があいて、そしていつか2人は――。

 「佐織ちゃん?」

 おばあちゃんの声に、現実へと舞い戻る。
 どうやら1人で考え込んでいたようだ。それもどんどん暗くなっていくオマケ付きで。
 向かい側に座るおばあちゃんが心配そうにするのも、無理もないよなーと思いつつ、佐織は口角を上げて無理におどけて見せた。

 「な、なんでもない」

 「なら、いいけれど…。そうだ。さっきの質問に答えていなかったね」

 「質問?」

 なにそれ、とばかりにぽかんと口を開けている佐織に微笑んで、おばあちゃんが教えてくれた。

 「ほら、”どうして時間が進んでいってしまうの”とかいう…アレだよ」

 「ああ…」

 恥ずかしいような、切ないような―。
 複雑な気持ちの中で、合いかけた視線をそらしていると、それを気にすることなくおばあちゃんはまた1ページ、アルバムをめくった。

 「どうして時間が進むのか――そうだねえ。おばあちゃんには難しいことはわからないけれど、これまで生きてきて思うのはね……」

 「思うのは?」

 気合十分な孫に、落ち着いて、とばかりに手のひらを下に向けて。
 おばあちゃんはさらりと、こんなことを言った。

 「時間はね。誰かに出逢うために、進んでいるんだよ」 

 「出逢うために……?」

 「そう、出逢うために」

 見つめたおばあちゃんの眼差しはとても静かな色を浮かべていて、佐織は黙り込んでしまった。

 時が流れていく。
 
 壁掛け時計が時を刻み、ストーブの上にあるやかんがシュンシュンと鳴り響いている。たったそれだけの音が、あたたかく辺りを満たし、おだやかな流れを作っている。

 そんな沈黙がしばし続いた後で―。
 
  わずかに沈黙して、おばあちゃんはアルバムをまた1ページめくって、さっきと同じようにとてもさりげなく、まるで何でもないことのように尋ねた。

 「佐織ちゃんは、おばあちゃんがこの家に来たときのことを覚えているかい?」

 「…えっと」

 つぶやいて、考え込む。
 おばあちゃんがここに来たのは、今から10年前で―。
 そのとき、佐織は8歳。小学校生活にも慣れて、いろいろと楽しみも増えてきた時期だった。
 もちろん、おばあちゃんが我が家にやってくると聞いて、飛び上がるほど嬉しかったのも覚えている……けれど。

 でもその中で、おばあちゃんは何を話そうとしているのだろう。
 真意をはかりかねて、佐織は首をかしげた。

 するとおばあちゃんは、孫の様子を優しく見つめたあと、こんなことを話してくれた。

 「10年前。おじいちゃんが死んでしばらくして、区画整備で前の家を立ち退かないといけなくなってね。大きな道路を作れば、たくさんの人が便利に暮らせるんだろうけれど、でもやっぱり、不安でねえ…。どうしようもないとはわかっていても、いろんなことを悩んでいたよ」

 ふっと手を止めて、おばあちゃんはここではないどこか遠くへと視線を投げた。

 「新しい場所に馴染めるだろうか。友達はできるだろうか。うまくやっていけるだろうか…って。それはたくさん悩んでねえ。頭がゴチャゴチャになってしまっていたよ」

 「……」

 無言で話に聞き入る。
 なぜなら、おばあちゃんの紡ぎだす言葉1つ1つが、佐織の悩みに小石を投げかけているような気がしたから。

 おばあちゃんは佐織に何か―――大きなものを示してくれている気がしたから。たとえば、ターニングポイントのような何かを。

 「でもねえ。あるとき、思ったんだ。長い長い人生の中で出逢った人々、おじいちゃんやたくさんの家族、それからあずさちゃん、……そしてもうやすやすと会うことも出来なくなった友達…。あの人たちがいてくれたから、これまで生きてこれたんだなあって」

 「…………」

 瞬間、心の中に波紋が広がる。
 投げかけられたそれをつかもうと、懸命に耳を傾ける。
 おばあちゃんはうなづいて、湯飲みを両手で抱えて指先を温めた。

 「出逢いはね、人を育ててくれるんだよ」

 「…あ」

 そうなんだ―。
 心の中で、自分が何かをつかんだ実感があった。

 自分の人生。
 それはお父さんやお母さん、実佐、あずさ、それからたくさんの友達との出逢い――そしてこれから、その延長線上にはきっと―。

 まだ見ぬ未来での人々との出逢いがあるのだ――。

 佐織が、自分の未来を決めた瞬間だった。

       ~次回”スタートライン~1~”につづく~

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迷いの中で~5~

 「あら?」

 いぶかしがるような声を耳にして、思わず顔を上げる。
 どうやら気付かないうちに、うつむき加減になっていたようだ。

 こんな明るくてにぎやかな雰囲気―、それも大好きなお買い物の最中に、自分ではどうしようもないことを考えて凹むだなんて。

 『なんて自分らしくない―――!』

 心の中でつぶやいて、ちょっと愕然として、唇のはしをきゅっと上げる。
瞬く間に気持ちは軽やか、いつものゴキゲン状態に戻った実佐は声のした方へと振り返った。

 「お母さん?」

 「あ、やっぱり実佐だった。ね、お父さん。私の言った通りだったでしょう?」

 弾むように手をたたいて、目を輝かせているお母さんの後ろで、ビニールの買い物袋を山ほど抱えたお父さんが苦笑いしていた。

 「本当。あんな遠くからよくわかったなあ…。しかも後姿で」

 それを聞いて、お母さんは得意げに胸を張る。

 「それはもう、親ですもの。5キロ先からでもわかる自信があるわ」

 「5キロって……」

 お父さんと実佐が声を重ねて、言葉を失う。
 何、5キロって。
 普通の日本人なら無理でしょう――とは思っていても、母の勘は侮れないわよって息をまいているお母さんに突っ込む勇気はないけれど。

 現に、今も。

 「ま、実佐もお母さんくらいのレベルになればわかるわよ」

 なんだか嬉しそうにしているし…。
 我が親ながら、計り知れない人だ。

 そうやって小さくため息を逃がしていると、お母さんがショーウィンドウを見て目を丸くした。

 「あら、珍しい。実佐がジーンズだなんて、どういう心境の変化。失恋でもしたの?」

 じっと顔をのぞきこむようにして、目線を合わせようとする。
 それを振り切るように顎を上げ、実佐は首を振った。

 「失恋って、何なのよ。女子高通ってる娘に向かって」

 赤面して否定する娘に、お母さんは頬杖をついて軽く首をかしげた。

 「あら。でも、最近はそういうのも流行っているって、サークル仲間に聞いたんだけれど。いろいろな漫画やDVDが出てるんでしょ。本当、エネルギッシュな時代になったものよね…」

 「え、えねるぎっしゅって……。いったいどこで、どんな知識を拾ってきてるのよ、お母さん……」

 恐るべし、大人世代―。
 日々、接しているお姉ちゃんならそうでもないかもしれないけれど、たまに会う娘にはちょっと刺激が強すぎる…というか。
 そうして頭の中を整理しつつ、曖昧な笑みを浮かべていると、

 「そう、そうなのね。お母さん、わかったわ」

 勝手に納得しかけているし―!
 これじゃあ、勝手に解釈して認識して悲嘆に暮れて、そのサークル仲間とやらに嘆いて回るかもしれない。

 「うちの娘がね、学校で失恋したみたいで…。母としてどうやって慰めていいかわからないの…」

 なんて涙を1粒、ぽろりと流しながら。

 そ、そ、そんなの困る。
 高校生活もあと1年ちょっとだというのに、町に戻ってそんな噂が浸透していたら。

 実佐は慌てて手を振って、語調を強めて否定した。

 「違うから! 失恋なんてしてないから!」

 「だって、実佐…」

 「まあまあ、いいじゃないか。2人とも」

 大きな手を広げて、割って入るお父さん。
 その微妙なタイミングが、実佐をさらに焦らせていく。

 「良くないわよ、お父さん。だって私、単にお姉ちゃんのこと考えてただけなのよ? これ、お姉ちゃんが好きそうなコーディネートだなーって思って、それで」

 一息に言い切って、すうっと深呼吸する。
 するとお母さんがポンと手を打った。

 「そっか、佐織。確かにこの服、あの子っぽいわね。ね、お父さんもそう思わない?」

 「そうかぁー?」

 首をひねる姿に、お母さんはニヤリと余裕たっぷりに腕組みした。

 「そうよ、親ですもの。私、自信があるわ。お父さんも私くらいのレベルになればわかるわよ」

 …いったい何のレベルなのよ、何の。
 第一、お父さんもお母さんも同じ親でしょうに…。

 そんなふうに脱力していると、お母さんはふと何か閃いたかのように目を見開いた。

 「そういえばあの子、どうしたのかしらね…最近」

 「どうしたって?」

 お父さんに尋ねられて、お母さんは目線をどこかに投げて記憶を手繰り寄せながら話し始めた。

 「どこかボーッとしたかと思ったら、変に赤くなったり慌てたりして。何て言うのかしら…。悩んでいるというか…考えている様子なのよ。そう、突然、京都から何かをお取り寄せしたりして」

 『お取り寄せ?』

 そのキーワードに、実佐の片眉がぴくっと上がる。
 何、その流行好きなOLさんが使っていそうな単語は。
 使用例は“昭和初期から続く名店××亭の、ベルギーワッフルをお取り寄せしました”というところだろうか。笑顔で高そうなお菓子の入った箱をこちらに向かって傾けて見せているイメージが浮かぶ。
 
 とにかく。

 これは、流行のりの字も疎いお姉ちゃんには全く…いや、絶対に係わり合いのなさそうな世界の言葉だ。

 でも…でも…、たとえばもしかして。

 初めて出かけた京都での旅が、お姉ちゃんを大きく変えてしまっていたとしたら。初めて訪れた地元以外の町、それも100万人都市の雰囲気に飲まれてしまったとしたら。

 『ありうる……かもしれない……?』

 あの純粋だったお姉ちゃんが、まさか流行に関して自分の先に行ってしまうとは―!
 衝撃のあまり、実佐はウィンドウを見上げて固まってしまった。

 「そ、そんなバカな……」

 なんて、絶句するすぐ横では、お父さんとお母さんがやりとりを続けている。
 けれど“あやふや”なお母さんの勘に基づく話は、やっぱり“あやふや”だったから、お父さんとしても大事に受け取ってもらえるはずもなく。

 「何かおかしいと思うのよ。不安定というか、落ち着きがないというか」

 「まあまあ。年頃なんだから、不安定だったり落ち着きがなかったりもするだろう。それに卒業したら、あずさちゃんとも離れ離れになるわけだし。あの子なりに考えるところもあると思うよ」

 「そうねえ…」

 お母さんは、記憶を辿りながらもイマイチ納得できないようで。
 それでもそろそろいい時間だったし、お腹もすいたしで、思考力の落ちた3人はお昼ご飯を食べにレストランゾーンへ移動することにした。

 この“あやふや”が、あとで我が家に大激震をもたらすことなんて、想像だにしないで―。

       ~次回”迷いの中で~6~”につづく~

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迷いの中で~4~

 そんなことが起こっているとは露知らず。

 腕にぶら下げた紙袋をガードしながら、器用に人ごみの中をすり抜けつつ――実佐は笑みをこぼした。

 「ふふふふふー…」

 頬はゆるみまくりで紅潮させて、唇はわずかに残った理性で一文字に結んで、なんとか笑うまい…ここは人通りの多い場所だから…って何度も何度も言い聞かせた上で――。

 けど、どうしても…どうしても抑えられなくて。
 それでついつい、笑ってしまったのだ。

 「ふふふふふー……」

 って。

 ――といっても、いつまでもニヤけながら歩き続けるのも…その、アレなので。

 「えっと」

 人の流れを避けて、比較的、静かなお店のショーウィンドウに身を寄せる。

 ズレ落ちたバッグを肩にもどすついでに、その外ポケットから携帯電話を抜き出し、二つ折りのそれを開いて。
 実佐は可愛らしい外国のキャラクターが微笑む待ち受け画面の隅に表示された、現在時刻を確認した。

 そろそろ、お昼過ぎ―。
 昼食ラッシュが過ぎるまで、あと少しといったところだろうか。

 「もうちょっと時間を潰すことにしますか…」

 予定を決め、まだ回っていなかったお店をピックアップしながら、携帯を折りたたむ。

 すると。

 「あ」

 携帯の下で揺れる、いくつものストラップたちの中で。

 女子高生らしく、流行りもの好きな実佐らしく、きらびやかで可愛いらしいキャラクターのものばかりの中で――なんだかミスマッチなそれを見つけて、実佐は懐かしむようにホッと息をついた。

 ゆるんだ付け根を何度も修繕したような、古い時計を象ったキーホルダー。それはかつて実佐が中学に入るときに、機械オンチの姉に半ば強引に携帯電話を持たせたとき。

 『お姉ちゃん、これだけちゃんとメールの仕方を教えたんだから。ちゃんと使ってよね。これ、約束のしるしだからね』

 と、お揃いでくくりつけたストラップだった。

 離れても、別々のところで暮らしても、私のこと忘れないでねって願いながらも、口に出せないままで。

 「ふぅ…」

 いったい何をやってるんだろう。
 こんなにぎやかな場所で、楽しみにしていたショッピングの時間に感傷に浸ったりして。

 気を取り直して、くるりと振り返ったショーウィンドウを見て、実佐は目を見開いた。

 「あ…」

 あまり流行りすたりのなさそうなセーターの上から、丈の短いダウンジャケットを纏い、下にはジーパンとスニーカー。

 今頃、家でのんびりしているはずのお姉ちゃんが、そこにいるみたい。もちろん、今、実佐の目の前で照明に照らされているのは間違いなくマネキン人形で、自分と血の繋がったあの人ではないのだけれど。

 そして実佐は、いつも思っていた。

 お姉ちゃんって、こういうのは似合わないのに――と。

 もちろん、物事をずけずけ言い放つタイプの実佐は、折に触れてはその格好について苦言を呈し続けてきた。

 「どうしていつもジーパンばっかりなの?」

 とか、

 「スカートを1枚も持ってないって、どういうこと?」

 とか、

 「お姉ちゃんには絶対、女の子らしいのが似合うのに」

 とか―。

 数え上げればキリがない。
 それくらいちょくちょく、携帯メールでのやり取りや、たまに帰省したときなど――何度も何度も提案し続けてきたのだ。

 たとえばつい最近、卒業旅行で京都に行くというとき、

 “京都の女子はスカート率が、とんでもなく高いらしいよ”

 なんてメールしたりして。
 
 まあ、昨日のジーンズと力の抜けたトレーナー姿を見たら、それも無駄だったみたいだけれど。

 それでも実佐は信じているから。

 お姉ちゃんはきっと、スカートが似合うはず。
 彼女に合う装いにしたら、もっともっと可愛くなれる。
 
 だけど、お姉ちゃんは。 
 今のお姉ちゃんは前に進む可能性に目を向けることなく、やる前から諦めている。
 
 それが悔しいし、勿体無い。
 そう思うから、ついつい言ってしまうのだ。しつこくて、余計なお世話なのは重々承知の上で。

 だけど、肝心の本人はというと。

 「だって私、背が低いから。ジーンズの方が足が長く見えるような気がするから…」

 いつも同じ言い訳をして、決まってこう続ける。

 「実佐はスタイルいいし、キレイだし。私が似合わないぶん、いっぱいいっぱい可愛くすればいいよ」

 …どうしてなんだろう、勿体無い。
 
 まあ確かに、自分はお姉ちゃんよりもすらりと背が高いし、顔のパーツも基本形は似ているけど、少し離れたり細くなったりと大人っぽくなっているし、………こう言っては何だけれど、胸もあるけれど。

 自分でも結構、イケてる方だと思うけれど。

 と、実佐はショーウィンドウのガラスに映る自分に、一瞬だけ見惚れる。

 「うん。今日の私も素敵だわ」

 あごを上げて、目を細めてみたりして。
 服装もスタイルもそれなりに気を使って、常に自分の可能性を探っているのだから、当然なのだけれど。

 心の中でうんと自画自賛する。
 これでもかっていうくらいに賛美する。
 それも美を保つ秘訣の1つだと思うから。

 「えへへ」

 ウィンドウを見つめながら、実佐の意識は少しだけ調子に乗り始めた。

 これだけイケてるんだから、可愛いんだから。
 女子高を出たらきっとモテモテの大学生活が待っているに違いない。
ムカデと戦うことも、一目で蛇の種類を見分けてしまう知識と動体視力を頼りにされる日々ともまったく無縁な日々が。

 自然は嫌いではないけれど、まだまだ若いもの。
 実佐はそろそろ町の風に当たってみたいと、願い始めていた。

 町での生活。
 オシャレなカフェに行ったり、デザートバイキングに行ったり、お洋服を見て回ったり、やりたいことがいっぱい出来る毎日。

 そして、ひょんなことで出会う運命の人。
 たとえばどこかの街角で、出会いがしらにぶつかったりして、それがキッカケで人生が大きく変化しちゃったりして。

 でもって最終的には、その人と―――。

 「なんちゃってなんちゃってなんちゃってー!!」

 ウィンドウのガラスに“の”の字を書きながら、照れ笑いをする。

 女子高育ちであんまり異性に免疫のないから、たまに少し夢見てしまうのだ。

 「こほん」

 閑話休題とばかりに指を止めて、実佐はマネキンを見上げた。ウィンドウの向こうで、照明に照らされているマネキンは――たぶん、服によって姿を変えるわけで。そうなると印象も雰囲気もガラリと変わるわけで。
 
 そしたら…そしたら…――。

 「お姉ちゃんも変われる、んだよね……」

 目のはしを人々が流れていく。
その喧騒の中で実佐はしばし、寂しさとも悲しさともつかない表情でウィンドウを見つめ続けていた。

       ~次回”迷いの中で~5~”につづく~

 ↓神崎佐織のラフスケッチ~決定分~

 

神崎佐織ラフスケッチ決定分その3
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迷いの中で~3~

 ポーン

 定時を告げる音に、現在へと舞い戻る。

 おじいちゃんの家で泣きじゃくった13年後の神崎家の離れに、佐織はいた。

 日に焼けた畳。
 少しだけ立て付けの悪くなった障子。
 壁際の本棚には冠婚葬祭の実用書から、辞書、電話帳などなど―。

 前の家で愛用していたものの多くを持ち込み、備え付けた結果―。

 昔と同じ。

 変わらぬ雰囲気が、ここには流れていた。

 思い出の壁掛け時計も、なんでもおじいちゃんとおばあちゃんにとって思い入れのあるものらしく、たびたび部品を替えてもらったり、修理に出したりして使い続け、今もここで時を刻んでいる。

 「…んっと」

 ふと、佐織は寝返りをうって、畳から時計までの高さを目測してみた。

 部屋が変わっているということもあるかもしれないけれど―。

 確かに、幼稚園児には手に届きそうもない。たぶん、あの時と同じように本棚の本を集めてきても、同じくらいの高さに積み上げたとしても、届くことはなかっただろう。

 あの時は…手を伸ばした時は確実に、触れられるように見えたのに。
もし、タイムスリップできるのなら、5歳だった自分に教えてあげるのに―。

 一瞬、そんな考えが浮かんだものの、すぐにそれを打ち消す。

 たぶんきっと、無駄なのだ。
 そんなことをしても、自分はやっぱり積み上げてしまうし、上ってしまうのだ―。

 はっきりした理由は見出だせないけれど、佐織は確信していた。

 触りたいという気持ちは、とても強かったから―。

 結論付けたとき、ある疑問が生まれた。

 『じゃあ、今はどうなんだろう…?』

 13年の時を経て、あの頃よりずっと背が伸びた自分なら……触りたいと思い、触ることができるのだろうか?

 コタツにすっぽり入っていた肩を引き出し、腕を立てて身を起こす。

 「よいしょっと」

 思わず、あんまり若さを感じない言葉が出てしまったけれど、仕方がない。

 「ん?」

 コタツの向かいで、おばあちゃんがチラリと目線を上げたものの、こちらの様子を見て何かを感じたのか、そのまま作業を再開した。

 1枚、2枚、3枚…

 コタツに大きく陣取る白いアルバムを横にずらして、手元にある写真を、いくつかの山に選り分けていく。

 その光景にしばし見入ってから、佐織は気を取り直して、時計に意識を戻した。

 カチ…コチ…カチ…コチ…

 古い時計は、時を刻み続けている。振り子を左右に揺らしながら、ゆったりしたリズムで―。

 コタツから抜け出て、見上げる。手を伸ばす。

 コツ………

 振り子を覆う小さなガラス戸に、指先が届く。
 予想通りの結果に、佐織はうつむいた。
 壁に背をつけ、ずるずるとへたりこむと、無意識のうちに声が出た。

 「おばあちゃん……」

 呼び掛けられて、白い頭がこちらに向けられた。

 「どうしたの、佐織ちゃん。ご機嫌は直ったかねえ?」

 老眼鏡の奥で細めた目が、瞬く間に丸くなる。

 「どうしたの?」

 問いかける姿が、にじんでぼやけていく。

 ぽたり、ぽたりと落ちていく涙をそのままに、佐織は尋ねた。

 「どうして…どうして、時間は進んでいっちゃうんだろう…?」

 「佐織ちゃん……?」

 いまいち状況を飲み込めていないおばあちゃんを置き去りにして、佐織は心の隅をかき回すように吐露していく。

 「目標とか夢とか希望とか…。まだ自分のことわかってないのに、どんどん流れていっちゃう…。流されていっちゃうの…私は…私は…」

 一息に言い切って、すうっと深呼吸して佐織は―――――。

 自分でも予想外のことを吐き出した。

 「好きかもしれないことが見つかったばかりなのに………!!」

 瞬間―。
 心が乱れる、グチャグチャになる、収拾がつかなくなる―――。

 「うわあぁぁーーん……!!!」

 涙が止まらない。
 自分の言葉に戸惑うけれど、なんとかしたいけれど、でもどうしたらいいかわからない―。

 そんな中で―。

 「……どんよりした顔して来たから、何かと思ったら…」

 おばあちゃんは手をとめて、写真を置いて席を立ち―。

 トン…

 しゃくり上げる肩に、手をのせた。

 「お…おばあちゃ………ん………」

 「だーいじょうぶ、だーいじょうぶ。佐織ちゃんは強くて優しい子なんだから」

 かすかに背を起こすと、その隙間に流れ込むようにおばあちゃんの手が背中を撫でていく。

 「つ、強い…って…」

 もう片方の手で、そっと手を握られて、13年前の景色と今が重なる。

 佐織は首を振った。

 「づ…づよぐなんが…ないもん…。づよぐなんが…」

 すると、おばあちゃんは。

 あの時より大きくなった孫娘に、あの時と同じようににっこり微笑んで
くれたのだった。

 「強い子だよ、佐織ちゃんは。だって自分の弱さに気付ける子なんだから……」

       次回”迷いの中で~4~”につづく

 ↓神崎佐織のラフスケッチ・アップ

 

神崎佐織ラフスケッチ決定分その1
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迷いの中で~2~

 カチ…コチ…カチ…コチ…

 壁掛け時計が、時を刻んでいく。
 そのリズムが懐かしくて、心地よくて。
自然と閉じたまぶたの裏に、ぼんやりと色あせた風景が蘇ってきた。

 13年前のある日―。
 幼稚園から帰ったその足で、あずさと2人でおばあちゃんの家を訪れたときのことだった。

 「こんにちはー」

 「あらあら、2人ともよく来てくれたねえ」

 読んでいた新聞から顔を上げて老眼鏡を外すとおばあちゃんは、今と同じ――いや、ほんの少しだけ溌剌とした笑顔で迎えてくれたっけ。

 「さあさあ、お入りなさい。寒かったでしょう」

 おばあちゃんは2人をコタツに勧めたあとで、しばらく孫たちの幼稚園話に目を細めてうなずきながらお茶を淹れてくれた。

 幼稚園で最近、運動会の練習が始まったこと。
 駆けっこしたり、お遊戯用のお花を紙を折って作ったり、日々の生活が運動会一色になっていることなど―。

 矢継ぎ早でしゃべり続けるのを、うれしそうにうんうん聞いてくれていた。

 「だからねだからね。いっぱいいーっぱい頑張るから、おばあちゃんも見にきてね」

 小さな指先を大ぶりな湯飲みで温めてから、佐織が得意げにプリントを渡すと、おばあちゃんは老眼鏡をかけながらそれを受け取って、佐織とあずさを代わる代わる見つめて大きくうなづいた。
 
 「もちろん。大事な孫たちの運動会だからね。都合つけておじいちゃんと一緒に見に行くよ。…ああ、そうだ」

 ふいに何かを思い出したのか、おだやかな表情に閃きのようなものを灯らせて、おばあちゃんは立ち上がった。

 「頂き物のお菓子があったんだ。ちょっと、待っていておくれ」
 
 座布団のそばに畳んであった割烹着に袖を通し、障子の向こうへと行ってしまった。
 
 「切り分けてくるから、それまで2人で仲良く遊んでなさい」

 そう言い置いて。

 でも当時、幼稚園児の佐織たちにしてみれば、不必要なものをほとんどカットしたような簡素な家で、時間をつぶすのも退屈に感じられたし、それに日々の練習で、いつもより活発に動き回っていたから。

 「んっとー…。どうしようかなー」

 あちこち見回し、しばし考えた挙句―。

 カチ…コチ…カチ…コチ…

 柱にかけられた壁掛け時計の…振り子に目を留めて。

 「あ、そうだ」

 思い付いてしまったのだ。
 
 「どうしたの、佐織ちゃん?」

 お茶をふうふうしながら、眼鏡を曇らせているあずさに、人差し指をぴんと立てて宣言した。

 「せのびごっこ、しよう?」

 「背伸びごっこ?」

 解せない、とばかりに復唱するあずさをよそに、佐織はコタツから抜け出て、壁際の本棚に歩み寄った。

 そしてそこから1冊、2冊、本を抜き出していく。
 冠婚葬祭の実用書から、辞書、果ては電話帳などなど―。

 あまりにイキイキとしていたからだろう。あずさがコタツを出て、目を輝かせた。

 「ね、佐織ちゃん。これ、どうするの。”イベント”?」

 幼い頃から”;イベント”大好きなあずさにまとわりつかれて、意味深な笑みを投げかけてから、本を数冊ずつ柱の下に積み上げていく。

 1冊、2冊、3冊………

 やがて、高さが自分たちの腰くらいになったところで、佐織は趣旨を発表した。
 
 「これに乗って、あの時計のブランコに触るの」

 明らかに誤っている単語名に、あずさが首を傾げる。

 「ブランコ…って、ふりこのこと?」

 「う、うん、ぷりこ。あれとね、おんなじくらいの高さになって、ふたを開けて、あれに触るの」

 積みあがった本に手をかけて、佐織は胸を張る。

 木枠にはめ込まれた小さなガラス戸の向こうで、左右に揺れる振り子…。

 それに触れると考えただけで、胸がワクワクした。

 時計自体は、それほど大きなものではなかったけれど。小柄な幼稚園児だった。佐織にとって、高い場所に掛けられたそれはとても魅力的なものだったのだ。

 『あれに、さわりたい…。さわるんだ』

 そのあまりの無謀さを始めはおもしろがっていたあずさも、親友がよじ上りながらたまに仰け反ったりする姿を目にしているうちに、だんだん怖気づいてきた。

 「ねえ、ダメだよ。佐織ちゃん。ケガしたら、運動会出れなくなるよ?」

 だけど佐織は、ワクワクしていたから。
 ぐらつく足元なんかよりも、時計との距離がどんどん近づいてくるのに興奮していたから。

 「だいじょうぶ、だいじょうぶ~」

 腕に力を入れ、震わせながらも懸命に姿勢を正そうとした。

 そしてあと少しで届く、そのときに。

 「何してるの?」

 いつの間に入ってきたのだろう。
 障子のそばにおばあちゃんが、羊羹ののったお盆を抱いて立っていた。

 「あ、おばあちゃ…」

 いつも優しいおばあちゃんの驚いた表情に、かろうじて保っていたバランスが崩れる。

 「わぁっ!」

 そう叫んだのは誰だったのだろう。
 大きく背をそらし持ち直そうとするも、特に運動神経がいいわけでもないし、足元はもともと大きさも分厚さも違う本たちを無理に積み上げられたわけだから、思うようにいくはずもなく―。

 「さ、佐織ちゃん…!!」

 2人の声が重なるのを耳にしたほとんど直後に、佐織はそのま
ま落下し、畳に背をぶつけてしまった。

 「大丈夫、ケガはないかい?」

 普段、ゆっくりとした歩みのおばあちゃんが、素早くお盆をテーブルに置いて駆けてくる。ひざまづいて全身をくまなくチェックしていく。

 やがて。

 「よかった。なんともないようだね…」

 ほっとため息をついたあと。おばあちゃんが顔をきゅっとしかめて、座り込む佐織の肩に手を置いた。
 
 「ダメでしょう、そんな危ないことをしちゃ。ケガでもしたらどうするんだい?」

 年を重ねているぶん、お父さんやお母さんよりはずっとおだやかな声で諭してくれたおばあちゃんだったけれど。
 
 それがお尻の鈍い傷みよりも、ずっと堪えた。

 触りたかっただけ。
 きらきら光る振り子に触れてみたい―そう思っただけだったのに。

 それなのに、こんなことになるなんて―。 

考えれば考えるほどに佐織は………耐えられなくなってしまった。

 「う…う…」

 散らばった足場だったものの中で、両膝をかかえ、しゃくりあげる。それが大きくなるのに、時間はかからなかった。

 「うわぁぁぁーーーーーん……!!」

 悪いのは自分。
 痛い思いをしたのも自分で、まわりに心配をかけたのも自分。

 すべて自分のせいなのに。

 たくさんの気持ちや思いが、心の中で渦巻いていて、なすすべがなく、ただひたすら泣きじゃくり続けていた。

 すると―。

 「…まったくもう…」

 おばあちゃんは肩の手を背中に移動させ、そのまま優しく撫で下ろしてくれた。

 シワの刻まれた、あったかくて柔らかい手で―。 

 「………痛かったねえ」

 その言葉が優しすぎて、涙に拍車をかけていく。

 泣き止まない孫の背をトントンと叩きながら、おばあちゃんが言い聞かせてくれた。

 「痛かったねえ。でも、だーいじょうぶ。佐織ちゃんはね、強
い子なんだから」

 言い含めるように、ゆっくりとゆっくりと慰められて、佐織はぶんぶんと首を振った。

 「づ…づよぐなんが…ないもん…。づよぐなんが…」

 けれどおばあちゃんは孫を文字通り”強く”させたかったのか、それともただ純粋に泣きじゃくる姿をかわいそうに思ったのか―ただ、背中をずっと撫でながら言い聞かせてくれたのだった。

 「だーいじょうぶ、だいじょうぶ。佐織ちゃんは強くて優しい子なんだから……」

       
       ~次回”迷いの中で~3~”につづく~

   ↓三倉あずさのラフスケッチ・決定分~その2~

    

三倉あずさラフスケッチ決定分その2
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迷いの中で~1~

 「ふぅ…」

 いったいもう何度目だろう。
 そんなふうにあきれながらも、佐織は1人、また1つため息をついた。

 「ふぅ…」

 机の上にはめくりすぎて、折り目がくっきりとついたパンフレット。角をそろえて隣に置かれたプリントも、どことなくくたびれてしまっている。

 そして佐織はというと、その上に頬杖をついて、窓の外をぼんやり眺めていた。

 「まいったなぁ…」

 脳裏に、昨夜のことが蘇る。

 食後のダイニングテーブルで、実佐からのお土産をつまみながら、あずさはふいに切り出した。

 …自分のことを語るの、苦手なくせに。
 でもそれすら忘れさせるほどに生き生きと、それでいてちょっぴり緊張しながら―自分の未来について語っていた。
 どうなるかはわからないけれど、だなんて前置きして。
 でもきっと、そうならないために最善の策を考えているに違いない―そう思わせるような口ぶりで。

 彼女が帰ったあと、実佐もずいぶん感心していたっけ。

 「やっぱりすごいね、あずさお姉ちゃんって」

 って。

 でも、佐織はというと。

 「う、うん。そうだね」

 実佐と同じテンションで話す気持ちになれなくて、あいまいにうなづいていた。

 大好きなシチューは美味しかったのに。みんなで食べて、幸せな気分になれたのに。心の中に横たわるもので、消化不良を起こしそうになっていた。

 『やっぱり、食べ物だけじゃあ根本的な解決にはならないんだなー』

 なんて、当たり前のことを考えたりしていた。

 それで―。
 あれから10数時間も経た今も、佐織は黙り込んで何かを考えていた。

 “目標”、“夢”、“希望”、“将来”、“やりたいこと”―。

 昨夜、あずさが語った言葉が、頭の中に散乱している。その1つ1つがありふれていて、耳慣れたものではあったけれど、いまだに現実味がない。

 でも…だけど…それってどうなのだろう。5つのうち、1個も答えが出せないなんて…もう18歳なのに。

 本当にそれでいいの?
 このまま、流れに身をまかせて進んでいってもいいの―?

 ―と、たっぷり10秒考えて。
 ジタバタ足で床を蹴って、佐織は立ち上がった。

 「あー、もう知らない知らない知らなーい! 気分転換行くっ!」

 何歩か進みきかけてはたと立ち止まり、机の一番下の引き出しを開ける。そっと積み重ねられていた本の下に隠すようにして、資料をしまう。

 「これでよしと」

 同じことばかり考えていても、仕方がない。

 煮詰まった頭の中を冷ますために、佐織は部屋を出た。

 トン…トン…トン……

 家の中に、佐織の足音だけが響いていく。
 床の冷えがしんまで伝わりそうな静けさに、ふと思い出した。

 そういえば昨日、お父さんは仕事納めで、今日はお母さんにつきあって年末の買出しへ出かけていったんだっけ。
 実佐は、その巻き添えになる前に即座に、ショッピングセンターへ行くことを宣言していた。

 「明日は絶対絶対、ショッピングセンターへ行くんだからっ!」

 よほど夕方のことが悔しかったみたい。
 思い出しただけで、笑ってしまう。
 もう、どこまで買い物が好きなんだよって。

 「えっと」

 頭を切り替えて、ほかの人の予定を思い出す。

 えっと、あずさ…彼女は、確か―。
 例年通りなら、お墓参りに行っているはずだ。今日はおばさんの命日だから。

 おじさんの仕事納めが今日で、お兄さんたちが続々と帰省してきているとか、そんなことを言っていたっけ。

 「また年明けに、初詣へ行こうね」

 と、約束して。

 そういうわけで、あずさに会うのもナシ。
 
 みんなの予定を復習しながら階段を下りきって、佐織はつぶやいた。

 「さて、私は何をしよう?」

 一応、玄関までやってきたものの、外出しなければならないような用事もないし、そもそも寒いのは苦手だし。だからと言って部屋に戻ったら意味ないし。リビングで見たいテレビ番組もない。

 「うぅーん……」

 腕組みして、考え込む。
 その耳にかすかに、笑い声が届いた。

 「?」

 くるっと振り返って、階段に沿うようにして伸びた廊下を見つめる。

 所々から差し込む陽光の中を、しんとした冷たさが漂う奥で―。

 「くすくすっ…」

 確かに誰かが、笑っている。

 先ほど思い出した各人の予定が、頭に蘇る。
 お父さんとお母さんは買出しで、実佐はショッピングセンター、あずさはお墓参り。

 ―となると、該当者は約1名。

 佐織はふわあーっとあくびをして、歩き出した。

 まっすぐに進んで、普段、家族3人が住んでいる母屋を抜けて渡り廊下を進んでいく。

 はたして声の主は、その障子の奥にいるようだった。
 口の中にこもるような笑いと、底抜けに明るい男性のおしゃべり―。

 佐織は片手を上げて、軽くノックした。

 「おばーちゃん。佐織だけど、いる?」

 「はいぃ?」

 いぶかしがる返事のあと、男性の声のボリュームがしぼられる。おばあちゃんはそっと障子を開けて、満面の笑顔で迎えてくれた。

 「いらっしゃい、佐織ちゃん」

 テレビに映っているのは、落語番組だろうか。
 そういえばおじいちゃんと一緒に暮らしていたときも、よく聞いていたような気がする。2人して縁側でお茶を飲みながら、季節を愛でつつ、たわいもない話をしていて。

 BGMはそう…落語だった。

 「どうかしたかい?」

 現実のおばあちゃんに話しかけられて、佐織は我に返る。

 「あ、ううん。ちょっと考えごとしていただけ」

 「そうかい? それならいいけれど」

 手招きして、部屋に入っていく。
 何を感傷に浸っているんだろう。おばあちゃんがここに住むようになって、もう10年も経つのに。おじいちゃんが亡くなり、それからしばらくして区画整理で住み慣れた土地を離れ、隣の市に住む我が家の庭に、離れを建てて…。

 『そうか』

 すすめられるままにコタツに足を入れて、佐織は思った。

 もう10年経つんだ。

 つい最近のことだと思ったのに。
 おじいちゃんとおばあちゃんが一緒に暮らしていて、佐織や実佐はちょくちょく遊びに出かけていって。

 時間の経過を思い知って、佐織はまた目を伏せる。

 京都から戻ってきてからというもの、こんなのばっかり。気分転換をしに来たのに、またこんな…勝手にひとりで凹んじゃって。

 『あー、こんなことだから、あずさに言われるのよ』

 頭を抱えて、彼女の言葉を思い出す。それに、あずさでない別の人の声が重なった。

 「妄想特急・佐織号…だったかね?」

 「え!?」

 驚いて見上げると、部屋続きの簡易キッチンから、おばあちゃんが戻ってきていた。

 「いや、ね。あずさちゃんからそう聞いていたものだから。それにしてもすごい名前だねえ。妄想だけでもすごいのに、特急だなんて。ねえ?」

 向かい側に座り、身を乗り出してくるおばあちゃんに、佐織はちょっと戸惑う。

 「ど、同意を求められても困るんですけど…。あずさってば……」

 指先で、コタツに“あずさ”と書いていく。1個、2個、3個……。

 そうこうしている間に、湯飲みが並んで―。
 ゆっくりと急須を傾けてお茶を淹れながら、おばあちゃんは嬉々として尋ねた。

 「特急は一番早いんだろう。カッコいいねえ。ハイカラだねえ」

 まったく何を言っているんだか。 
 丸い木製の菓子入れからお煎餅を取って、ばりっと噛み砕く。

 まあ、そういう、孫と一緒の目線で楽しんでくれるところが好きなんだけれどね。でも正直、あだ名を褒められるのはなんというか………ちょっと違う気がする。
 
 「えーと…。そのー…」

 次の話題を探しながら、お茶をすすって、ウロウロと視線を惑わせて。

 「なんでもない」

 あきらめて、ゴロンと横になった。

 カチ…コチ…カチ…コチ…

 壁掛け時計が、時を刻んでいく。
 佐織は目を閉じて、そのゆっくりしたリズムに身を任せた。

       ~次回”迷いの中で~2~”へつづく~

↓三倉あずさのラフスケッチ・決定分~その1~

三倉あずさラフスケッチ決定分その1
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