人生色々,卒業生たち(クリックで全文表示します)
【KCGの過去の学生さんたちの様々な逸話を綴っています。氏名は匿名か伏字にしてあります。】
<目次&リンク>
KCGに入学してきた人々,卒業していった人々。=KCGの様々な学生さんのパターン分類
デジタルネイティブ=今では普通になった,ネットで生きるフリーのプログラマーのはしり
20才で大人になった不良上がり=暴走族やヤンキーが当たり前だった80年代初頭の話
ゲームプログラマー =ゲームプログラマーの一般的なパターン
想い出のあのコ=高度専門士が無かった頃の話。大卒かKCG卒かが問題だったときのこと
卒業生同士の結婚 =卒業生同士で結婚に至る場合
洛北エンジニアリング =KCG伝統の洛北校,別名萩原学校。KCGの最高峰でメカトロニクス
ああ女神様っ!=ベルダンディみたいな美人の先生に恋した話
禁断の師弟愛? =先生?と女子学生の恋愛と結婚
K君のRPG=母子家庭の長男が,RPGを作成し,大手ゲームメーカーに転職するまで
妹の遺骨=在学中に妹を亡くした情報処理科の寮生。広島の大手ソフト会社No.1,のSE
愛しい彼女4部作
一年から卒業するまで同じ軽音楽部だった彼女をずっと愛し続け,卒業の前にやっとゲットして,卒業後,結婚に至った話
愛しい彼女
愛しい彼女②
愛しい彼女③
愛しい彼女 終章
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K君のRPG
高校卒業後,KCGのゲーム関係の学科に進学したK君は,大阪の郊外のある町で生まれ育った。両親は子供の頃離婚し,父がどこで何をしているのか,知らない。
子供の頃の父の記憶は残っているけれど,二つ違いの弟は,全く覚えていないという。
今どき,両親が離婚したなんて話は珍しくもないし,父がいないことは気にしてないが,弟に対しては,兄として男の生き方みたいなところは示すべきだと考えている。
母は,隣の街の機械部品工場で働いていて,貧しいながらも息子二人を育ててきた。
K君は,家族3人で暮らすアパートから電車で通学している。
結構時間がかかるのだけど,下宿するのは経済的に無理だ。土曜日と,たまには日曜日もだが,すこしキツイ肉体労働のバイトをしている。
一日行くと8000円になるバイトで,一ヶ月に6~7回は行くようにしている。
KCGの授業料は奨学金だけど,参考書やソフトを買うときには,そのバイトの稼ぎを充てている。
二歳下の弟も高校の学費は奨学金で,新聞配達のバイトをしている。
K君は小学生の頃からゲームが好きで,帰宅が遅い母を待つ間,毎日,弟と一緒にゲームをしていた。
残業で遅くなる母にかわって,米を炊いて味噌汁くらいは作っておくのが,小学生の頃からの兄弟の日課だった。
いくらゲームに夢中になっていても,夕食の準備は必ず,兄弟で交替でするようにしていた。
K君は,京都コンピュータ学院に入ってからプログラミングを学びはじめたのだが,一年生の終わりには,自分でゲームを作れるようになっていた。
六角形が複数くっついた図形を空いているスペースにあてはめていくというゲームプログラムを作成したら,クラスでも好評だった。
友達に方法を教えてもらって,ネット上で販売したら,値段が安いという理由もあって,良く売れるようになった。
最初の2ヶ月は2~3万円の売り上げだったが,その後は毎月,少なくとも15万円くらいは入って来るようになった。
K君はお母さんにブランド物の服を,弟にはノートパソコンを買ってあげた。
その後は,毎月5万円を自分の小遣いに当てて,残りは貯金するようにした。
預金通帳の残高を弟に見せながら,K君は,家族三人がこれから生活していくためには,いくら預金があれば安心なのか,弟に自分の考えを話した。学生であろうと,家族の経済基盤を作っていくことが可能であることを,弟に示したのだった。
KCGでは,昔からどの学年にも,ゲームを作成したりゲーム会社の下請けのバイトをして,人並以上に稼ぎ出している学生がいる。
「ゲームを作って3ヶ月で500万円稼いだ」,とか,「下請けのバイトで毎月50万円もらっている」,といった話は,珍しいことではない。
K君もそういった先輩に教えてもらって,「売れるゲーム」の作り方を考えたのだった。
KCGの先輩ネットワークがあるからこそ,そのようなことが可能なのだ。伝統と実績を誇る,日本最初のコンピュータの学校ならではのメリットである。
2回生になるとK君は,学費を自分で支払えるようになっていた。高校を卒業した弟も,KCGのアート系の学科に入学し,アニメやグラフィックを勉強している。
子供の頃から絵が上手かった弟の色彩センスは,K君の開発したゲームをバージョンアップするのに役立った。
K君のゲームは,アニメーションが綺麗になって,また売れ行きが伸びていたのだ。
その後,K君は,RPG(ロールプレイングゲーム)を作成しはじめた。
高校時代の世界史と日本史の教科書を読み返して,モチーフを探した。
絵はすべて弟が担当し,音楽は弟のクラスメートに作曲してもらうことになった。
時代のモチーフは,日本の戦国時代を選んだ。群雄割拠する昔の話である。KCGで知った歴代の先輩の逸話は,まさに群雄であった。
しかし,RPGの製作はさすがに難しいし,かなりな労力がいる。前のゲームのように,数ヶ月で仕上げるというわけにはいかなかった。
3回生になって,就職活動が始まった。K君は,ゲーム関係の仕事に就きたかった。
学内企業説明会にも,もちろんほとんど出席した。そして他にも,任天堂やカプコン系列のゲームソフト会社を探したのだった。実はこれは,かなり数が多い。
任天堂のコンピュータゲーム事業を始めたのは,KCGの先輩たちである。
その関係で,KCGの先輩が経営に関わるような,任天堂系列の下請け会社が京阪神にはたくさんある。
元カプコンでゲーム会社を立ち上げたという先輩も多いから,そういった下請け会社が関西圏には結構あるのだ。
そして,そういった会社には,わずか3~5人程度というような小規模のところもたくさんある。
多くのゲームプログラマーは,下請け会社から仕事をはじめ,腕を磨きながら,より上位の会社へとステップアップしていく。
K君は,そのルートを選ぶことにして,学校の就職データベースで会社選びの情報収集を始めた。これには弟を手伝わせて,弟の就職活動の予行演習もさせたのだった。兄は,いつも弟思いだった。
プライベートでRPGを製作し始めたK君だったが,就職活動は,まさにRPGだった。
業界で力を持っている小規模ソフトハウスを探すのだが,これと目星をつけたところに,まずは電話で面接を申し込むのが第一関門である。その関門は,「KCGの学生だ」というと簡単に入れたが,言わないと電話を切られたりした。まるで城壁の門を開けるための呪文のようだと,K君は思った。
専属の事務の人さえいないような,小規模の会社では,電話応対をしたり,面接を担当するのは,プログラマーであり,いずれも業界の猛者たちである。群雄割拠する,ゲームソフト業界であった。面接までこぎつけたら,自分で作成した六角形のゲームを実演するのが第二関門である。
学校の課題やテストは,それなりに厳しかったけれど,授業に出席しているとほとんどは理解できていた。そして,クラスに数名いるエキスパートたちと教えあったりしながら,自分のRPGの作成は進んでいた。
しかし,シナリオを就職の面接試験で見せたら,担当の人に「甘い」「つまらん」と一蹴されるだけだった。
シナリオは,友人に意見を聞いて,何度も書き換えながら,それでも,決まらなかった。
就職しなくても食べていけるような家の子は,最初から大手の本社採用を狙って,受からないことを他人のせいにして文句を言っていたが,K君は自分の能力をわきまえて,下積みから始めていくことに決めていた。
だから,学校の就職データベースで,できるだけ多くの企業の情報収集をするように努めた。弟も横で手伝ってくれた。
カプコンや任天堂,セガなど,大手で働く先輩を辿って,関係の深い下請け会社を紹介してもらったりもした。
もちろん,大手本社も受けようと思ったけれど,ゲームプログラミングの世界には,そういった下請けの零細企業に,その会社にしかない高度な技術というものがある。
そういった特殊な技術にも興味があったから,大手は将来にとっておいて,あまり知られていなくても,その筋では有名であるような,小規模で技術力のある会社を選びたかったのだ。そういった業界の裏事情は,KCGの先生に聞いた。一般の大学や他の専門学校とは圧倒的に違うKCGには,すごい先生が揃っているから,たいていの情報はゲットできる。
夏休みになってしまった。弟は,学校が休みになって,友達と自転車で北海道旅行に行ってしまった。一ヶ月以上は北海道を走り回るのだという。K君は,すこしうらやましかったけれど,就職先を決めることで頭が一杯だった。
夕食で対面する母の顔を見ていると,年齢を重ねて苦労してきたことがわかる。K君は,早く母に恩返しをしたかった。K君は,奨学金に加えて,母が叔父に借金をしていることも知っていた。
次の日,任天堂の初期の立ち上げに関わったKCGの先輩が友人と始めた会社から,内定の電話が入った。技術力には定評がある会社で,本命だったから,最高に嬉しかった。
RPGで最初のステージが高得点で終わったような気分だった。
夜,帰宅した母に内定したことを伝えたら,母はとても喜んでくれて,近くのコンビニで小さなケーキを買ってきてくれた。
北海道を自転車で走り回っている弟にも電話して,内定したことを伝えたら,弟は旅の資金が尽きて,帯広の漁協でバイトしているとのことだった。
自分で製作しているRPGは,シナリオがある程度決まってきて,完成に近づいていった。弟の担当するグラフィックもほぼ完成していた。秋になって,卒業作品発表会の説明会があった。K君は,それにエントリーするために,自分のRPGの作成に夢中になっていった。
1月になって提出期限が来たとき,彼のRPGは,かなり出来の良いものになっていた。
1月,卒業研究発表会があり,彼の作品は表彰候補にノミネートされた。候補作品は,KCG AWARDSで発表することとなる。企業からのゲストを含む,選考委員の先生たちに評価されて,順位が決まるのだった。
卒業試験も終わり,KCG AWARDSの日が来た。母は仕事を休んで見に来てくれた。弟も母の横に座っている。自分のプレゼンが終わってから,自分も母の横に座った。
K君の作品は,最優秀賞ではなかったけれど,次位の優秀賞だった。母も弟もとても喜んでくれた。弟はグラフィックで参加したから,弟といっしょに壇上に上がり,校長先生から賞状を手渡された。兄弟が力を合わせて作ったことを,校長先生は褒めてくれた。
兄弟で力を合わせて,RPGのセカンドステージを高得点で終わったような気分だった。
KCGの3年間を,ゲームソフトの作成に費やして,他の友達に比べると遊びの経験には乏しいけれど,プログラミングの技術は,かなり高度になったと思う。
卒業式が済んで,就職先企業の仕事が始まった。
小規模会社なので,入社式といっても,社長と社員全員で16名が揃って,近くの居酒屋で宴会をするという程度だった。
研修と言っても,先輩社員の横で,プログラミングの手法を見せてもらう程度だった。
友達が就職した大手ソフト会社の話とはずいぶん違ったけれど,K君は,すべてがワクワクドキドキの連続だった。
それから6年,K君は修行させてくれた最初の会社に何度もお礼を言って退職し,東京の,ある大手ゲーム会社に転職した。
母は定年を間近に控えて,退職後の人生の計画を練っている。
弟は,大阪のコンテンツ系の会社で働いているが,まもなく結婚するらしい。
結婚という人生のひとつのステージは,弟に先を越されそうだけれど,それはそれでいい。
弟が幸せになってくれることは,K君にとっても,とても嬉しいことだ。
六本木にある大きな高層ビルにある会社の中で,K君の座るデスクが決まった。
周囲の先輩社員に一通り挨拶をしたら,KCGの先輩が同じ部署に3人もいるということがわかった。
自分のデスクについて,横にある窓から外を見ると,眼下に広がる東京は,自分にとっての戦場の風景に思えた。
K君の人生というRPGの,次のステージが始まっていた。
K君の心の中にはKCGの校旗がはためいていた。
ランランリランショウビダバ♪,ラリ~リラ~ラリ~♪
ランランリランショウビダバ♪,ルンルンララーラ~♪
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