人生色々,卒業生たち(クリックで全文表示します)
【KCGの過去の学生さんたちの様々な逸話を綴っています。氏名は匿名・伏字にしてあります。】
<目次&リンク>
★一般論
KCGに入学してきた人々,卒業していった人々。=KCGの学生さんの様々なパターン
大卒・大学中退の入学者=昔から,KCGは大卒・中退の入学者が多いという話
ゲームプログラマー =ゲームプログラマーと業界の話をすこし
卒業生同士の結婚 =卒業生同士で結婚に至る場合
★個別事例
大学中退で編入学=山梨から大学中退で編入してきた学生さん
万緑草中紅一点 =和歌山出身で,誰からも好かれた実直な女子学生
お嬢様短大卒のSさん =四国の開業医のお嬢様短大卒のお嬢様。
デジタルネイティブ=今では普通になった,ネットで生きるフリーのプログラマーのはしり
20才で大人になった不良上がり=暴走族やヤンキーが当たり前だった80年代初頭の話
想い出のあのコ=高度専門士が無かった頃の話。大卒かKCG卒かが問題だったときのこと
洛北エンジニアリング =KCG伝統の洛北校,別名萩原学校。KCGの最高峰でメカトロニクスに夢中の学生さん
ああ女神様っ!=ベルダンディ-みたいな美人の先生に恋した純情な少年の話
禁断の師弟愛? =先生?と女子学生の恋愛と結婚
K君のRPG=母子家庭の長男が,RPGを作成し,大手ゲームメーカーに転職するまで
妹の遺骨=在学中に妹を亡くした情報処理科の寮生。広島の大手ソフト会社No.1,のSEの過去。
愛しい彼女4部作
一年から卒業するまで同じ軽音楽部だった彼女をずっと愛し続け,卒業の前にやっとゲットして,卒業後,結婚に至った話。
愛しい彼女
愛しい彼女②
愛しい彼女③
愛しい彼女 終章
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妹の遺骨
四国のある県で,I君が中学一年生だったときに,一家の大黒柱だった父が病気で亡くなった。ほどなく父の残した事業は行き詰まり,人手に渡ってしまった。
母が農協の事務の仕事を得たので,母とI君と妹の家族3人は,県庁所在地の街から,県境のアパートに引っ越した。
幼稚園だった妹は,訳もわからず,引っ越しではしゃいでいたけれど,いきついた先が小さなアパートで,狭いことには不満だったようだ。しかし,アパートの裏を流れる小川や近辺の野原の中で,それなりに楽しそうに,新しい生活になじんでいった。
高校を卒業するときになって,I君は母と卒業後の進路を相談した。そのまま就職しても良かったけれど,地方の高校卒業で就ける職などしれている。
妹を学校にやるためにも,稼ぎの良い仕事につきたかった。それで,I君は,努力すれば結果が返ってくるというコンピュータプログラマーの仕事を選んだのだ。
コンピュータ関係に進むのなら, 伝統のある京都コンピュータ学院だと,高校の進路部の先生が教えてくれた。
問題は学費だった。母は,大丈夫だと言ってくれたけれど,I君は,家計が大変であることくらいよくわかっている。二年間だけでいいから,京都コンピュータ学院に行かせてくれと母にお願いした。高校の進路部の先生が言うことには、「KCGには,昔から有名な寮のシステムがある。寮に入れば夜間の補習もあって,集団生活でコミュニケーション力も養われるから,就職も良い」とのことだった。
寮費と学費を合わせると結構な額になるのだけれど,京都コンピュータ学院の奨学金試験にも合格した。I君は,絶対に2年間でプログラマーとして就職し,母と妹の生活を援助しようと決意した。I君が出願したのは,京都コンピュータ学院の情報処理科である。KCGの保守本流,プログラマー育成の看板学科で,二年間でプログラミングをみっちり勉強できるという。
京都の学校に進学することを告げたら,妹は,「お兄ちゃん,がんばってね」と,自分の右手を握りしめて小さな拳固を作って示し,微笑んだ。
高校を卒業して,I君は上京した。京都の北区にある学生寮に着いたら,進入生の半分くらいがすでに入寮していた。残り半分は4月になれば入ってくるということだった。
夕食時には,互いに自己紹介をして,夜遅くまで食堂で話しあった。全国あちこちからやってきた人たちの話を聞くと,ほとんどが,親の世代がなんらかの形で,KCGを知っている人たちだった。親が卒業生だという人が3人もいたのは驚いた。
九州のある県でソフト会社を経営する父親のところに,KCGの卒業生が何人もいるという人。
同じ四国の隣の県で,親がKCGの卒業生で,県庁の情報部門を担当している公務員だという人。
とにかく,親や親戚が卒業生だという人,両親のいずれかがKCGの卒業生と仕事の関係があるという人ばかりだった。
I君は,父の職種がコンピュータとはあまり関係がなかったからか,彼の親戚関係にKCGを知っている人はいなかった。
コンピュータの学校で,しかも寮に入ると,色々なことがあって,楽しい。コンピュータに詳しい人は当然多いし,アニメやコミックに詳しい人もいる。青年男子が数十名一緒に暮らすと,実はたいへんに面白い状況になる。
I君は,まずは,教科書代や昼食代を稼ぐためのアルバイトを決めなくてはならなかった。寮監の先輩教職員はプログラミングのバイトを紹介してくれたけれど,まだ技術も未熟だし,スポーツもしたかったから,体力勝負で短時間で稼ぎの良い仕事を探した。徒歩10分ほどのところにタイル工事の会社があり,そこの建築現場のタイル運びのバイトは,昔からKCGの寮生の縄張りなのだという。翌日はその会社に行ってみることにした。
工事の日に,朝早くに会社に来たら,現場まで連れて行ってくれる。毎週土曜日だけバイトしたら,一日8000円ほどになる。
毎月の昼食代と教科書代には十分とはいえないけれど,まあ納得できる労力と報酬だった。
夏休みにまとめて働いたら,教科書代くらいは稼げるだろうと考えた。
入学式が終わり,授業が始まった。最初はよくわかったのだが,数日復習をサボると,すぐにわからなくなった。
わからなくなると,寮の仲間に夕食時に教えてもらった。
一年の秋には初級の国家試験に合格して,就職までには,より高度な国家試験に合格することを目標にした。
夏休みは,実家には帰らず,タイル運びは土曜日だけにして,他の日は会社から紹介してもらった倉庫管理のバイトをすることにした。倉庫管理は夜間の見張り程度の仕事だから,眠いこと以外は楽だった。
守衛室で教科書を読んで,練習問題を解いていたら,夜が明ける。
そうして夏休みが終わって,授業が始まった次の週に,実家の母から電話があった。
妹が入院したという。
まだよくわからないが,どうも不治の病である可能性が高いという。遺伝的な原因が考えられるとのことだった。
I君は,上京するときに手を振っていた妹の姿を思い出しながら,愕然とした。
すぐに荷物をまとめて,夜行電車で実家へと向かった。
県立病院の一室で,妹はベッドの上に寝て点滴を受けていたが,I君の姿を見ると,うれしそうに微笑んだ。
しばらく話すと,割と元気そうではあったけれど,顔はどこか不安そうだった。
なんでも食べてよいとのことだったから,I君は京都から買っていった八橋を渡した。
妹はうれしそうに,ひとつの半分だけを食べた。
その週のうちに主治医から説明を聞いて,それがほとんど治らない病気であることと,入院がかなり長引くことを知った。
そして,妹の荷物や身の回りのものを病院に運んだりして,その週末までは実家に滞在した。
母に促されて,京都に戻ることになったのだが,I君は妹がかわいそうで仕方がなかった。
京都に勉強しに戻るのだと,ベッドの上の妹に告げたら,妹は「お兄ちゃん,がんばってね」とかすれた声で言いながら,また小さな手を握り締めて,微笑むのだった。
その小さな妹の手を自分の両手で包んで,I君は「行ってくるね」と答えた。
帰りの電車の中で,I君は涙を流した。
京都に帰って寮にもどると,仲間は相変わらず馬鹿騒ぎをしていた。
いっしょに騒ぐ気にもならず,自室に入り,休んでいた分を取り戻すために教科書を開いたけれど,病室の光景と妹の顔が頭から離れなかった。
しかし,寮にいて,友人とともに暮らし学校に通っていると,日常に流されて,それなりに気が紛れていく。寮の友人たちも,ずいぶん気を遣ってくれた。
母によると,妹の病気は小康状態が続いているとのことだった。
国家試験が終わって,休みに入ったら一週間ほど例のバイトをして年越しの小遣いを稼ぎ,そして年末に帰郷した。
妹は,薬の副作用で,髪の毛がほとんど無くなっていた。
「どんどん抜けてしまうの」,と悲しそうに微笑みながら,ベッドの上で,薄手の帽子をかぶっていた。
しかし,薬が効いて,調子は良いとのことだった。
母は疲れが溜まっているようだったから,しばらく付き添いを代わって母を休ませることにした。
妹は,もともとおしゃべりだったから,ベッドに寝ていても,よく話をしたし,I君の話を聞きたがった。
I君は,京都での生活や,寮の楽しい仲間の話をした。
話し出すと,それぞれの寮生の話は尽きなかった。
高校時代には見たこともなかったような,コンピュータのエキスパートや,アニメのオタクだけれど気さくな人とか,寮の仲間のことについて,ひとりひとり順番に,小学生の妹にわかるように説明したのだった。
妹は楽しそうに聞いていた。
そして大晦日は妹と二人で,病院で過ごした。
冬休みが終わる頃には,妹はかなり元気になっていた。
秋の国家試験には合格していたから,I君は京都に戻り,次のレベルの試験を目指して勉強した。
寮の仲間は良きライバルだった。お互いに教えあいながら,楽しく勉強を続けた。
3学期が終わって,帰郷して妹と母の世話に明け暮れていると,すぐに4月になった。
時間が過ぎていくのがとても速いように感じた。
第2学年が始まるので,I君はまた京都に戻ることになり,病室の妹に別れを告げた。
妹はまた,「お兄ちゃん,がんばってね」と小さく右手を握って示し,微笑んでいた。
この頃になると,妹がいつかは完治するような気がしてきていた。
少なくとも,今の状態が永遠に続くような気がして,I君はすこし落ち着いていた。
春から梅雨になる頃,I君は就職活動の終盤だった。
広島の大手のソフト会社から内定をもらった日,妹の病気が突然悪化したと母から電話があった。
I君はまた夜行で郷里へと急いだ。
妹はベッドの上で,やせ細り,小さいのにもっと小さくなっていた。
I君が来たことを告げると,すこし微笑んで「お兄ちゃん」とかすかに声を出した。
I君と母が,妹の声を聞いたのは,それが最期だった。
小さな妹は,4日後,ベッドの上で息を引き取った。
泣き叫ぶ母の横で,I君も泣いた。
涙がほろほろと流れた。
涙は尽きないばかりか,さらに溢れるばかりだった。
兄は慟哭しながら,幼いときからずっと可愛がってきた妹を抱きしめ
母は慟哭しながら,娘の腕をつかんで離さなかった
京都から帰ってきたのに
京都で勉強して,広島の会社に内定をもらったのは,妹を学校にやるためなのに
妹が良い学校に進学して,豊かな人生を送れるようにと,努力を続けていたのに
父をほとんど知らずに育った幼い妹を,父の代わりに,世界一幸せにしてやろうと,ずっとずっと思い続けてきたのに
そのために,プログラマーになろうとしていたのに
あれもこれも,予定が狂ったような気がした。
妹が病に伏して,父を追ってしまうなんて。
なにもかもが,終わってしまったような気がした。
母もただ泣き続けるだけだった。
母と兄に抱きしめられて,妹は冷たくなっていった。
親戚が集まって,野辺送りが終わり,初七日が済んで,小さなアパートの部屋にしつらえた小さな仏壇に,妹の写真が立ててある。
I君は,どうしたらよいのかわからずにいた。
母も,呆然としたまま,親子はあまり話さずに,数日が過ぎていった。
四十九日が過ぎて,埋葬が済んだ後,母は,I君に学校へ戻るように促した。学校を卒業しなかったら,妹が悲しむから,と言われて,I君はそうしようかと思ったのだった。
I君は,妹の遺骨のかけらを小さなロケットに入れて,それを首にかけて京都に戻った。
砂の河に流されるような気分でI君は残りの学業を終えて,卒業して広島の会社の社宅に引っ越した。
優秀で真面目なI君は,会社でも認められて,誰からも頼りにされるようになっていった。
母は故郷でひとり年老いていったから,盆暮れの休みには帰郷して母と過ごし,いつもは広島で働いた。
20歳で就職し,その後,10年以上の間,I君は広島で一人で暮らした。
自分自身が生きていく目的に確信が持てないまま,ただ年齢を重ねていくだけだった。
長い間のひとり暮らしを終えて,結婚するとき,I君はやっと,新しい時代へと歩き始める決意をしたのだった。
その決意のために,I君は妹の墓参りをした。
I君は,首にかけていた古いロケットを,墓石の中の妹の骨壷の上に置いた。
それから長い年月が経ったけれど,右手を小さく握りしめて「がんばってね」という妹の姿は,I君の心から一時も消えたことがない。
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I君は,結婚してから老いた母を呼び寄せ,子供が2人できて,広島で暮らしている。
その広島の大手ソフト会社で,ナンバーワンのシステムエンジニアである。80人ほどいる部下のうち,約3分の1はKCGの後輩なのだそうだ。
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