ご存知の方も多いかと思いますが、
2009年5月21日から、日本でも裁判員制度が始まりました。
一応、適当にニュースを一つ:
森英介法相は21日、裁判員制度が始まったことを受け記者会見し、「より身近で、早く、頼りがいのある司法の実現につながる」などと意義を強調した。
森法相は「治安や犯罪被害などの問題を、私たちが1人ひとりのこととして考えるきっかけになる」などと指摘。裁判員は評議の内容などについて守秘義務を負うが、「公開の法廷の部分や感想については、むしろ積極的に話してほしい」と話した。 (10:06)
このことは、台湾人のぉぅぇぃには、ほとんど関係の無い話です。
犯罪を犯さなければ、裁判されることもありませんし、
日本国籍ではありませんので、裁判員として呼ばれることもありません。
色々見ていますと、「人を裁きたくない」というコメントがちらほら出ていますが、
ぉぅぇぃも基本的に同意見です。
が、「やりたい」、「やりたくない」というレベルではなく、
「やらなければならない」ことも、この世の中に存在しています。
たとえば、「裁判員制度」みたいなシリアスなことではなく、
「42.195キロのマラソン」を走りたくないという気持ちがあるだとしましょう。
ぉぅぇぃは基本的に陸上競技に苦手なので、
マラソンは走りたくありません。
(水泳だと、4.2195キロ程度なら、まあ、気持ちよく泳げますが。)
無論、実際にマラソンを走らなくでも、社会制度にな何らかの影響も無いのですが、
もし、ある日エーリアンのメタポ星人が侵略してきて、
「毎年、100万人の地球人がマラソンを走らせなければ、地球を滅ぼすぞ」と脅してきたら、
走りたい、走りたくない…という気持ちと関係なく、
もし100万人の中に選ばれたら、そりゃ、まあ、走るしかないのですね。
「エーリアンとマラソン」のような変な例じゃなくても、
「やりたくないけど、誰もやらないと困る」ことは、
世の中にはいっぱいあります。
裁判員制度も、同じようなものじゃないかと思います。
人間というのは社会的な動物です、
交流があれば、ほとんどもれなく、何かしらの揉め事が起こります。
その揉め事を、フェアに裁かなければ、
社会システムの不信に繋がり、社会の安定が保障できなくなります。
社会システムの基盤を支えるために、
「公正な裁判」は必要不可欠です。
どの国でも、「公正な裁判官」というのは、
それだけで尊敬されるものです。
何はともあれ、仮に選ばれても、そんなに気にせずに、
何かしらの意見を出し、判断をする時は、
それは自分1人の意思…のような感じではなく、
「地域社会の全メンバーから選ばれた代表として、判断をする」つもりで、
自分が正しいと思う判断をすれば、良いかと思います。