京都の神社の祭りでは,昔の夜店の定番のひとつだった,生姜の砂糖煮(砂糖漬け?)。
夜店には,山盛り売られていて,父は,これだけは買ってくれた。砂糖が甘いのだが,噛むとヒリヒリ生姜の辛味が出てきて汗が噴き出す。子供には少し辛いお菓子だった。
神社の祭りなど,しばらく行ってないのだが,今でも売っているのだろうか。
最近,先端企業の中には,「私立文系卒は採用しない」と明言するところが増えてきたという。KCGグループには専門職大学院大学もあるので,大学業界のことも多少はわかるのだが,グループのベースは専門学校である。本体が「大学」でなくて良かったと思う。卒業して,就職して,働く必要のある人たちのための教育機関でありたいと考えている。
専門学校は文科省直轄ではなく地方自治体の管轄なので,一般の大学のような諸問題に振り回されることが極めて少ない。
募集停止を発表する大学が増えてきて,一般の大学(私立文系)の定員割れが大問題となっている。しかし,なぜ定員割れが悪いのか,あまり知られていないようなので,書いておきたい。
文科省直轄の一般の大学は,学生数定員と教員数・事務員数,図書館や運動場などの各種設備要件が事細かに定められている。例えば,図書館が一棟あると,それだけで十数名の人件費が発生するわけだ。これらが,学生数が減っても,なかなか規模縮小できないようになっている。
文科省の大学設置基準(レギュレーション)が,「定員が割れると経営が成り立たない」ようになっている。しかも,定員が2割以上減ると,文科省が補助金を打ち切るなどの制裁措置もある。そのような,「定員が割れたら経営破たんするような制度」を維持しているのは他ならぬ文科省だ。
ところが,その一方で,文科省は新設大学や新設学部の定員増を,さしたる分析も判断もなく野放図に認めており,毎年,全国で数千名の定員増加が認可されている。これでは定員割れ大学がどんどん増えて当然だ。文科省は,これを「自由競争だ」と思っているらしいが,東大京大を頂点とする序列の決まっている大学システムで,上位の定員増を認めると,当然,下位の喰いブチが減るわけだ。
これでは,文科省は,国内の大学を破壊しているのだと言っても過言ではない。いわゆるゆとり教育の前後から,我が国の教育行政は国を滅ぼすような結果しか出していない。文科省の天下り先の外郭団体は増える一方で,大学数も増える一方で,資源(学生)は分散していくばかりであり,全体的に日本の教育が弱体化していっているのは明らかだ。
現時点で「私大の半数が定員割れ」ということは,「半数が経営破たん」ということでもある。大手大学(60校からせいぜい100校)の定員増加を認めるようなことをするのはやめて,大手から順番に定員削減するように命令すれば,日本中の大学が救われるということになる。
しかし,それら喰いブチに苦しんでいる半数の大学が,現実的・社会的に機能・貢献しているのかというと,実は,そうでもなく,ここにも別の問題が内在する。
手前味噌ながら,ことIT・コンピュータの教育においては,現在の大学制度では,その教育はほぼ不可能である。IT・コンピュータのような時代とともに進化発展する分野は,現行の大学組織では追従できないようになっている。そして,そのような組織構造を求めているのも,文科省なのだ。
大学とは,そもそも「象牙の塔」という比喩があるように,巷の喧騒を下に見て,塀の中に籠って真理を探究する場であるという意識が強い。そして,教授が教育・研究や組織運営のイニシアティブを取るようにできている。いうまでもなく,教授になるのは普通は50歳を超えたあたりからだ。年配の教授の下に助教授(助教),そして助手,と並んで権力の序列が決まっている。
大学行政を司る大教授たちは,60歳代はザラで70歳代も多い。そういう人たちが,大学制度と大学組織のイニシアティブを取っているのである。
そのような一般の大学組織に「時代の推移を知れ」と言っても,最初から無理な話なのだ。
すなわち,大学は,「社会(巷)の趨勢や最先端の技術を学ぶ場所ではない」ということである。それら旧来の一般の大学にできることは,「それが人類の未来に有用か否かという判断ができないのに,それを研究すること」と,「すでに済んだ歴史を検証すること」くらいだろう。
「今,世の中や各業界で何が起こっているか」を知らない人があまりにも多いのには,いつも驚かされる。
そして,ここ20年でほぼ倍近くになった大学の大半に,いったい何ができたのか。研究成果もさほどなかったし,学生を就職させることもできなかったから,人気が落ちて定員割れになっているということなのだ。それら平均値の大学への進学者たちの大半は,「卒業後,就職したい人」たちなのである。「生涯学問をして働かずに済むような身分」ではない。将来就職したいのならば,大学に行かない方が良いという時代であるとも言えるかもしれない。
すでに,先端企業の中には,私立文系は採用しないと明言するところも増えてきたとの冒頭の言は,先行する正しい判断なのだろう。
以下,産経ニュースから引用
http://sankei.jp.msn.com/life/education/090610/edc0906102337008-n1.htm
私大の半数が定員割れ 「在学中に廃校になったら…」不安の声
2009.6.10 23:35
このニュースのトピックス:大学教育
少子化で18歳人口が減少し、定員割れの私立大が半数近くに上るなど、厳しい運営を迫られる大学が少なくない。「大学全入時代」の到来で希望すればだれでも大学生になれる一方、学生の獲得競争に敗れて淘汰(とうた)され、廃校が決まった大学の学生からは、「留年や休学して在学途中で大学がなくなったら、どうすればいいのか」と不安の声が上がっている。
文部科学省によると、4年制の私立大は平成20年度で591校あり、2年度の372校から約1・6倍も増加した。しかし、日本私立学校振興・共済事業団の20年度調査では、定員割れした私立大は約半数の266校に上った。このうち、29校は定員の半数にも満たなかった。
定員割れの大学は、地域別では北関東や北陸、中国、四国地方で多く、学生数では800人未満が目立つという。都心の大規模校に学生が集中し、地方の小規模校ほど厳しい運営を迫られるという「二極化」の実態も浮かんでいる。
今回、募集を停止した三重中京大の担当者は「今、募集停止しないと在学生の教育も十分にできなくなってしまう危機感があった」と明かす。聖トマス大でも12年度以降、定員割れが続き、累積赤字は20億円に上っているという。
一方、学生の側も廃校を念頭に置いた募集停止に、不安を隠せない。「学生や保護者向けの説明会を何度も開いてきたが、学生からは『留学や休学したときどうなるのか』『他大学への転学などはできるのか』といった声が多い」と三重中京大広報課。
「消える大学 残る大学」の著者、諸星裕・桜美林大学教授は「1万人規模の大学は60校ほどしかないが、それが学生の半分ぐらいを取ってしまい、残り半分を500校近くで取り合うのが実態で、淘汰は仕方がない」と説明。
今後について「地方大、女子大、小規模大、単科大の順に危なくなるだろう。運営の厳しい大学は、18~22歳層ではなく、地域や社会人に活路を求めていくしかないのでは」と指摘している。
ひじき,と言えば。
ひじきの煮物,炊き込みご飯,色々あるのだが,原材料のことをまず。
乾燥させた干しヒジキが,乾物屋に売られている。一般には,これを水で戻して,煮ものにする。これは子供の頃から定番であったが,筆者はあまり好きではなかった。
最近,大分産だとか長崎産,熊本産,三重産とか,時々,スーパーに生のひじきが売られている。圧倒的に,生のほうが美味い。昆布やワカメと異なり,ひじきは,どうしてか,干したのを戻すと,喉に引っかかる。生のは,そうではない。
さて,よくあるひじきの煮物のレシピ。
生のひじき5に対して,1から2くらいの油揚げ。
あとは,醤油と出汁と日本酒。それだけ。
日本中のあちこちで,砂糖を入れるのが一般化しているが,砂糖は入れない方が,絶対に良い。乾燥ひじきの味の抜けを補うために,砂糖で甘みととろみを加える知恵が生まれたのだろう。
乾燥ひじきの場合は,まる一日くらい水に漬けたままにしておいて,とことん,戻す。あせらずに,戻す。これをきちんとするかどうかで,かなり変わってくると思う。うまく戻ったら,砂糖はいらないのではないだろうか。
油揚げは,できるだけ美味いものを使う。地元の豆腐屋が,店自慢の一品として売っているようなのを使いたい。湯どおしして,余分な油を落としておく。
ひじきをよく洗い,ひたひたの水にして鍋で煮る。出汁は,できればカツオ節から取りたいが,化学調味料の入ったなんとかの本だしでもいいや。
醤油は,良いものを使いたいが,なければ,家にある普通ので良い。
水で煮る前に,油で炒めるという手があるが,これはおそらく,水戻しの乾燥ひじきのために編み出された技ではないかと思う。生ならば,炒める必要はない。
うどんや蕎麦のかけ汁よりも薄いくらいの味付けにする。酒,醤油,出汁だけで良い。塩加減は,塩で調節しても良いが,醤油と酒と出汁だけが良い。ちょっと薄味だな~と思うくらいから煮詰めていく。
上質の油揚げと,醤油と酒,そして,海藻が本来持つ甘みだけ。それだけで,十分美味いものになる。煮あがったら,そのまま食しても良いが,一日,冷蔵庫で寝かせると,ひじきの芯にまで味がしみ込んで,さらに美味い。
昆布やワカメは,それだけでかなり滋味あふれる濃いィ味の海藻だが,ひじきはそれらに比べるとあっさりしている。そこに醤油や酒や油揚げの風味がしみ込んでいくと,なんとも言えないハーモニーが出来上がるのだ。
日本酒とひじきと油揚げの煮物,それだけ。たったそれだけで,一日を終えることができる。しみじみと,一日を噛み締めて,海に漂い,布団に包まれるのである。
フェアユースさせていただきます。(笑
今後,人類の知がどのように変わっていくかと言う,極めて「微妙」な世界史の断面です。
以下,引用。
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http://event.media.yahoo.co.jp/nikkeibp/20090611-00000000-nkbp-bus_all.html
Googleのブック検索は、日本の出版業界をどう変えていくか?
(佐々木 俊尚=ITジャーナリスト)
5月11日、Googleは「Googleブック検索」の年内提供開始を目指し、出版社向けの窓口ページを公開した。これは全世界のあらゆる書物をデジタル化し、オンライン上で公開するという壮大な計画の一環。国内の出版社はGoogleとの和解を拒否した場合のコスト・手間を考え「渋々応じる」という構えが主流になりつつあるが、詩人の谷川俊太郎氏など著作者の中には徹底抗戦の構えを見せる人もある。窓口ページから1カ月が経過した現在、この騒動のまとめとGoogleの真意を探ってみたい。
Googleブック検索が挙げる利益の63パーセントは著作権者に
まずは経緯をかんたんに振り返っておこう。
Googleブック検索はハーバード大学やスタンフォード大学、慶應大学などどともにスタートしたプロジェクトで、これらの大学図書館が所蔵している書籍をスキャナーで読み取り、OCRによってテキストにするというものだ。そしてこのテキストをデータベース化し、全文検索ができる仕組みになっている。ブック検索のウェブサイトでは日本語も使用可能で、著作権者が許諾しているものに関しては検索結果に書籍の全文表示や抜粋表示も行なわれている。
Googleはすでに700万冊のスキャンを終了しているというから、膨大な数だ。そしてこれらの書籍の中から、絶版になった本や著者の許しを得たものについては、検索結果に全文を表示できるようにしている。一般の書籍に関しては全文表示は行わず、書籍の情報や数行の抜粋だけを表示させる仕組みだ。
このブック検索に対して、米国作家協会と全米出版社協会が「ビジネス目的で勝手にスキャンしてコピーしている」と著作権侵害で訴えた。Googleは「フェアユースだから問題ない」と反論。「フェアユース」とは公共の目的であれば、著作権者の許可がなくても著作物を利用できるという規定で、日本の著作権法には存在しない。
この裁判は昨年(2008年)10月に和解した。Googleは、絶版の書籍に関しては次のようなことができるようになる。
(1)オンラインで書籍の内容を販売できる。
(2)図書館や大学から書籍の内容に無料でアクセスできるようにする。
(3)ウェブで表示される書籍のページに広告を配信できる。
ただし絶版になっていない通常の書籍に関しては、これらの項目がそのまま当てはめられるわけではなく、著者の側の都合によって選択することになる。そしてGoogleがこのビジネスによって得る収益のうち、63パーセントは著者に支払われる。つまり残りの37パーセントをGoogleが取るということだ。
和解案の欠陥さえクリアすれば、それを受諾しない論理的理由はない
著作権者が和解案を呑むか呑まないかは、今年9月末までに決めなければならない。呑めば63パーセントを受け取り、自分の書籍がブック検索でどう扱われるかを決める権利をもらえる。呑まずに和解案から離脱すると、Googleに自分の書籍が利用されることはなくなる。しかし完全にGoogleと縁が切れるかというとそうでもなく、大学や図書館での全文検索や抜粋表示など、フェアユースとしてGoogleが裁判所に認めてもらっている部分に関しては利用されてしまう。
問題は、この和解案が世界中の書籍に適用されてしまうということだ。大雑把にいうとベルヌ条約を批准している国の書籍すべてが対象になる。日本はベルヌ条約批准国であるから、当然日本の書籍もブック検索対象に含まれるわけだ。
この結果、あまりデジタル化に熱心でなかった日本の出版業界は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。「書籍の販売が難しくなる」「作家や出版社の利益にならない」「なぜ私企業が勝手にやるのか。公的機関に任せるべきだ」など、さまざまな反発が巻き起こったのである。
たとえば和解案からの離脱を会員に呼びかけている日本ビジュアル著作権協会は4月30日に記者会見し、その中で作家の三木卓氏がこう述べている。
「著作者にも問題ですが、出版社にも問題です。出版社はみんなにいいものを書かせようとして、いっぱいお金を使って一生懸命、出版文化を支えているのに、Googleがそのいい部分だけをさらっていくのは問題です。(中略)Googleに対しては怒りを覚えています」。
もちろん、この和解案には重大な欠落がある。「絶版書籍」が「米国で流通していない書籍」として捉えられているため、日本では普通に売られている本まで絶版書籍にされてしまっているケースが起きているのだ。中小出版社98社で構成する出版流通対策協議会が会員出版社にアンケート調査したところ、会員出版社で刊行している約5000点の書籍のうち約90パーセントが和解案でリスト化されていたという。
これはたしかに大問題だ。ただし米国の裁判所の和解管理人は、今後はAmazon.co.jpで販売されているかどうかなども絶版の基準として含めていくと明言しているという。だからこの問題がクリアされてしまえば、実のところ和解案を受諾しない論理的な理由はほとんど存在しない。――感情的な反発は別にして。
書籍全文検索は社会にとって非常に有意義なプロジェクト
そもそもブック検索によって、どういう利益・不利益があるのかをもう一度捉え直してみよう。
このインターネット時代には、検索できない情報はもはや生きた情報とはいえない。ネットの普及によって、情報は検索できるのが当たり前になった。ウェブサイトやブログ、新聞記事、動画、音楽などありとあらゆるコンテンツをわれわれは検索システムによって探しだし、楽しんでいる。
だが、これまでは書籍だけは検索が不完全だった。本のタイトルや著者名、出版社などは検索できるが、全文検索に関してはAmazon.co.jpの「なか見!検索」に一部の書籍が対応しているだけで、日本で刊行されている大半の書籍は全文検索ができなかった。
これは著しく利便性が低い。もし現在流通しているベストセラーなども含めて、書籍の全文が検索できるようになれば、書籍文化にとっても社会全体にとっても、非常に有意義である。たとえばGoogleの和解案を歓迎しているポット出版は、ウェブサイトでこう表明している。
「すべての人が、書籍の書誌情報(タイトル・著者名など)だけでなく、その全文にたいして一定の言葉の存在を検索できることは、その人にとって有用な書籍を『発見』する手だてを格段に増やし、そのことで、社会全体でさまざまな知の共有が前進すると思う」。
社会にとっては書籍全文検索は非常に有意義なプロジェクトであるのは間違いない。そしてこれは著者の側にとっても同様だ。そもそも自分の著書が検索エンジンによって、有用な知として活用されることを望まない人はいないはずである。さらにいえば、全文検索によって書籍文化が破壊されるとか、本が売れなくなるというような反発にはまったく根拠がない。
Googleは独占的な地位を得たわけではない 結局のところ、出版業界や著作権者からの批判は、先の三木氏のような「勝手に金儲けしやがって」という感情的な反発が大半である。
しかしこの資本主義世界では、何らかの有用な新しいサービスを提供するのであれば、そこに収益モデルを付与するのは当然のことである。おまけにGoogleはこのプロジェクトによって、すべての利益を奪い取ってしまうわけではない。先に説明したように63パーセントを著作権者に分配するレベニューシェアモデルを採用しており、検索によって書籍に対する読者のアクセスが増えていく可能性を考えれば、これは両者にとってはWin-Winの関係になる可能性がきわめて高いのだ。
さらにいえば、今回の和解案でGoogleは独占的な地位を得たわけではなく、ブック検索ビジネスの展開は他の企業にも開かれている。おそらくこうした感情的な反発は徐々に沈静化し、今後は誰もが気軽に書籍を検索して自分に有用な書籍を探し出せる時代がやってくるのは間違いないはずだ。
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佐々木 俊尚(ささき・としなお) 1961年生まれ。早稲田大学政経学部中退。毎日新聞社会部記者、月刊アスキー編集部デスクを経てフリージャーナリスト。主な著書に『グーグル既存のビジネスを破壊する』『ネット未来地図』『ブログ論壇の誕生』(以上、文春新書)、『フラット革命』(講談社)など。IT戦略会議専門調査会委員、総務省2009年度情報通信白書編集委員、経済産業省情報大航海プロジェクト制度検討ワーキンググループ委員などを務める。