教育の瓦解と官僚制度化社会

教育の瓦解と官僚制度化社会

戦後60年を経て,現代日本の教育は完全に瓦解している。小学校・中学校の義務教育では,クラスが成立していない学校が多い。児童や生徒が授業中に走り回り,先生の言うことを聞かなくなった,高校では中退率は2割を超え,通信制・単位制の高校が流行している。公教育が成立している例は,どちらかというと稀である。大学では,学生は単位を取る為に出席するだけで,まるで勉強しない,等々,教育の崩壊の話は枚挙に暇がない。

特に高等教育においては,大学数は増えるばかりで,学生数は減るばかりであり,私立大学の実に半数が定員割れを起こしており,大規模有名私学だけが台頭している。ところが,それらの大規模私立大学で教育が成立しているのかと問うと,世界的な研究成果など稀であるし,企業は相も変わらず,大卒者に対して,大学での学習成果など求めていない。

それらの問題を考えるために,各私立大学の現況を観察していると,新たな事実が見えてきた。

現在,関西圏の大学生の5人に1人が関関同立のいずれかに属しているという。さらに来年は関大が1000名規模の学部を新設するという。関東圏でも元気が良いのは老舗の大規模私立大学だけである。つまり,かつてなかなか入れなかった難関私学が,誰でもはいれる大学になっているのは,レベルが落ちている,少子化になっている,というだけではなくて,定員が大幅の増加しているからだ。言うまでもなく,定員が増えると,事務職員も教員も増える。

そして,それら私立大学の組織構造を見ると,社団法人的組織になった大学だけが台頭してきていることに気付くのである。言い方を変えると,「オーナー経営者のいない大学」,「創立者の思想が,建前とお題目だけになってしまった大学」,「本質的にその大学の卒業生がイニシアチブを取っていない大学」,「創立者や経営者の実体としての顔が見えない大学」,「文部官僚OBが取り仕切っている大学」などである。

何が起こっているのかというと,私立大学の「官僚制度化」である。それら私立大学に働く職員に,元公務員が増加しているのは事実である。文部官僚だけではなく,地方自治体の元職員,すなわち元地方公務員が,大学などの公益法人に,かなり増えているのだ。

東京においては,元都庁や元区役所の役人である人たちが,多くの著名私立大学の職員として大学事務に従事している。その数の統計は無いので実数はわからないのだが,大学に限らず,全国の社団法人などの公益法人には,元役人が実に多い。民間組織,私法人でありながら,実際は「官僚制度化」しているのである。

「役人が悪い」とは言うまい。「元公務員が悪い」とも言うまい。それが実際の官公庁あるいは類似団体でなく,私立大学のような「民間法人」であっても,役人や元役人,あるいは同様の思考回路の持ち主たちが跋扈する組織になってきており,そのような組織だけが巨大化・肥大化している,ということだ。「民間」とか,「民意」とか,あるいは「民営」とか「民主」などという言葉とはまるで正反対のパラダイムに,社会構造が転変していっている事実が背後にある。

官僚制度化社会が進展し,あるいは国家社会主義と言っても良いような状態が始まって,実は,かなりな年月を経てしまっているのではないのだろうか。

民主党の新政権は官僚の天下りばかりを非難しているが,もっとその背後にある,社会の官僚制度化に国民は気付くべきだろう。官公庁の定員が削減されて,一見,天下りが減ったように見えても,そこに蠢くのが官僚制度護持の思考回路であり,官僚制度的思考に侵された人々が社会を支配する状態である限り,日本に民主主義など実現するわけはない。自由主義と民主主義は,日本的官僚制度とは真っ向から対立するパラダイムである。

公益性と民営化,相対立するようにみえる昨今流行の二つの概念は,実は表裏一体の,日本的国家社会主義の兆候ではないかと思えるようになってきた。かつての国営・公営組織は,「民営化」の美名の下で,一部の人々の「私物化」への道程にある。それら私物化される組織に蠢くのは,公益性を標榜しながら実は組織的私物化を推進する,まさに官僚的な集団である。

日本では今,純然たる民間組織は勝てないようになってきている。多くの弱小私立大学,すなわち純然たる私学・民営組織が喘いでいる事実の背後にあるものは,何なのか・・。



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マグロが危ない②

マスコミで大間のマグロを食すタレントの番組が放映される。
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たいして味もわからないような若いタレントが,それを美味い!と連呼する。
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それを見た視聴者が,マグロを食べたくなる。
あるいは,グルメ漫画を読んで,マグロを食べたくなる。
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そして,仕事帰りの飲み屋で注文したり,近所のスーパーで冷凍マグロを買って食べ,食欲を満たす。

このロジックにある徹底的な誤謬は,マグロという名称,あるいは,マグロを食すという行為のパラダイムに残る,マグロという概念のすり替わりである。それは本当に美味いマグロなのかどうかということである。
それは,放映されたり,漫画に描かれた「美味いマグロ」なのではなく,かつてマグロであった魚肉の冷凍あるいは冷蔵の流通品に過ぎず,そこには,その本来の味覚など無い。そこにあるのは,元,マグロであった,唯の屍であり,肉汁が抜けた藁である。冷凍戻しのトロが美味いと騒がれるが,冷凍戻しの脂質に舌が反応しているだけである。

食べ物は,冷凍したり古くなると味が変わる。本来はわざわざそのようなものを食べなくても,他にもっと美味いものがあるはずなのだが,人間は言説に左右されるので,「それが美味いマグロであると信じること」と,もうひとつ,「実際に今,空腹である」ことの二つのファクターにより,古くなった,あるいは味の変化したそれを食べて,実際に満足するのである。それは,大手流通会社や大量捕獲企業が跋扈するマーケットとなる。ミシェル・フーコーの言う「パワー(権力)」であり,「言説」である。
ここに,資源枯渇の一番の原因がある。

爆発的に増加する人口の食料確保の問題と,言説に振り回される哀れな消費者の問題とは,明確に分離して考察するべきだろう。海洋資源を大量消費しているのは,人口増加に苦しむ途上国ではなくて,大量消費の国々なのだ。

人類学でも明らかなように,人間は,味覚の学習の結果,どのような食べ物にも順応する。つまり,ある文化様式の中で,それが食べ物である限り,何らかの理由でそれが食べられるようになると,その人々はそれが美味いと言うのである。

例えば,日本人の好きな梅干や納豆は,それを知らない,慣れていない外国人にとっては,信じ難い食べ物である。フランスのウォッシュチーズも,昔の日本人ならば多くは「ゲーッ?!」と言っていたのだが,今は学習した日本人が多いので,それが「美味い」ということになっている。何の栄養にもならないコンニャクなども,その証左のひとつであろう。いずれも,その文化においては,それなりに美味いものとして認知されている。

江戸時代に,それまではむしろ軽視されていたマグロを,美味く食べる方法が発明された。最初は廉く美味いものだった訳だ。
それがやがて多くの日本人にとって「ご馳走だ」ということになり,冷凍技術の進化に伴って,昭和の時代の後半には,日本国内で大量に流通するようになった。それが海外に伝播し,「マグロを食すという行為」が流行していったという,たったそれだけのことである。そこに本質的な意味でのマグロの味覚に対する認識など無い。流行したのは,「言説」だけである。

海洋資源を枯渇させているのは,美食でも味覚でも無く,ましてや人口増加のための対策事業でもない。あるのは,「言説」に過ぎず,それに乗じた営利事業だけである。元々は美味いものを冷凍したり冷蔵したり加工して不味いものに変換し,言説と学習によってそれを大量消費しているのは,実に「もったいない」と思う。

数年に一度でよいから,和歌山の勝浦や,伊豆に旅行して,新鮮なマグロを食べることができたら,それで幸せになれるのだから,仕事帰りの飲み屋や近所のスーパーの冷凍マグロなどに騙されないようにしたい。

美味いものを食べたい,美味いものを食べる,という行為と,言説に騙されてとりあえず今の空腹を満たして満足した気になるという行為の間には,徹底的な差異がある。食欲を満たす行為に観念の所産が加わり,まるでそれがグルメであり,美食であると誤解されているが,そのような消費者が増加する一方で,味覚の本質が雲散霧消していくのは,愚かな話だ。

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マグロが危ない

モナコがマグロ漁を全面禁止にすべきだと主張している。

世界一のマグロ消費国,日本にとって,迷惑千万という他ない。

日本以外の多くの国は,マグロを,その味を理解もせず大量消費をしている。国内ではシーチキンとして有名になったマグロの水煮の缶詰は,欧米の発明である。あんなものを食べるくらいなら,鯉や鱒を養殖して,同じ缶詰を作ればよい。さほど味は変わらないだろう。

合成粉ワサビを,マズイ醤油に溶いて,黒緑の液体に,冷凍マグロを戻した刺身を浸して,それを美味いだの,健康の良いだの言いながら食している海外の人々も,そんなものなど食べなくても,養殖の鯉や鱒を同様にして食する方が美味いことを学んでもらいたい。

それで,マグロの減少に歯止めがかかるどころか,増えること必定である。

「日本人がマグロを美味いと言うから」,という言説を鵜呑みにして信じ,日本人の長寿を羨みながら,マグロの本質の何たるかを知らずして大量消費しているのは,諸外国では無いのか?
「違う」,「消費する権利がある」などと言うならば,大間の黒マグロと噴火湾の黒マグロの違いや,ボストン沖の黒マグロやキハダやメバチのそれぞれ特性を指摘して説明できるなら,許してやろう。赤い身の魚だという程度の認識ならば,食べない方が良い。マグロは食物連鎖の最終に位置するので,ダイオキシンも多い。その意味では,味をわからないなら食べない方が懸命だし,味を知る者も迷惑を被らずに済むことだろう。

マグロであろうとなかろうと,「それは美味いものである」との言説を鵜呑みにして,それを食べて,それが美味いと信じながら,それぞれの違いを認識しない「幸せさ」,と,それが美味いとの言説の確かさを,文献で調べつくして,さらに様々に食べ比べながら,舌に残る記憶の再現を追い求める「愚かさ」と,どちらか資源保護のためになるか。



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