グルメの経済効率

鮨,寿司,うまいすし,ラーメン,うどん,そば,美味いもの,グルメ@京都情報大学院大学

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グルメの経済効率

こういうブログを書いていると,「食にずいぶんな金を使っているだろう」とか,「贅沢だ」とか,挙句には,「色々なものを食べてお金持ね~」などと嫉妬と揶揄の入り混じったような,わけのわからない羨望を浴びたりするので,念の為,書いておく。

結論から言うと,「美味い物を食べるには金が必要だ」,「お金があると美食できる」などと思っている人々は,さらには,「金が無いから美味いものを食べることができない」などと信じている人々は,いくら経済的に恵まれても,一生,美味い物を食べることはできない。

美味いものは,値段とあまり関係が無い。第一に,味覚は,幼いころから学習した結果と,その場と言う環境と,身体の状態(空腹かどうか,健康か否か,等)の関数である。そして第二に,「高い店だから美味い」とは限らないし,「廉い店が不味い」わけではない。つまり,美味い物を食べることや,美味い物を知ることと,その対価や当人の経済力とは,全くの無関係ではないけれども,実はあまり関係が無いのである。

大事な事は,「知識と情報を得ながら」,「五感を開いて認識しながら」,「考えながら」,「想い出しながら」」「どのような機会であろうと食に対する情熱を絶やさず」,「より美味いものを目指す向上心」を持って,食に対峙しようとする日常の態度である。

筆者が美食と経済効率を考え始めたのは中学の頃だった。在日の親友がラーメンの食べ歩きを教えてくれて,彼とともに自転車に乗って美味いと言われているラーメン屋を行脚しはじめたのである。ラーメンは庶民の食べ物であり,屋台のそれはいわばどん底の食べ物と言っても良かろう。多くの店を食べ歩きながら,その味の違いを知り,その奥底に潜む味のバランスを考え始めたのだった。

そして,家にある,ずっと廉いインスタントラーメンと比較しながら,どうしてあの屋台のラーメンはあんなに美味いのか,事あるごとに考えていた。腹が減ると,家の冷蔵庫にある残りものを,どのようにして食べれば美味いのか考えながら,インスタントラーメンにも胡椒やネギやニンニクを入れたりして,少しでも美味く食べようと努力を重ねた。つまり,中学の頃から,美味いものを食べるためにはどうしたら良いのか,「考え」始め,「行動」し始めたのだった。

きっかけはもう少し遡る。小学校の中ごろに,親戚に飯盒炊爨に連れて行かれた。今で言うと,野外のバーベキューみたいなもんだ。叔母が飯盒で飯を炊き,そこにレトルトのボンカレーを混ぜ入れた。カレーというものはメシとルウを別々に盛るものだと思い込んでいた小学生の筆者は,その混ぜメシを観たとたんに嫌がった。それを叔母に,「こういうところで食べるとなんでも美味しいのだ」とたしなめられたのだった。

そして,実際に食べてみると,それはとても美味かったのである。そのとき,食物は,環境と腹のすき具合によって左右されるものだと思い知ったのだった。見た目と実際の違いもそのとき理解した。味覚は複数の変数を持つ関数だということが,朧げながらわかったのだったと思う。

その後,中学生のときに,家には誰もいなくて,冷蔵庫には素材以外は食べるものが無く,台所にパンの切れ端だけがあった。昼下がりに,そのパンの切れ端だけを何もつけずに食べながら,ただのパンだけでもこんなに美味いのかと感じ入ったことがあった。そのとき,小学生のときの飯盒のカレーを思い出したのだった。

高校を卒業する頃から,当時は数少なかったグルメ本を読み始めた。当時,街の本屋に普通に並んでいるグルメ関係の本は,立ち読みで,ほぼすべて読んだと思う。開高健の「最後の晩餐」や,例の作者の「美味礼讃」など有名作品は,古書で買ってきて何度も読み返した。

書物から得る知識と,実際に食べてみる目前の食物との乖離を考え始めたのはその頃だ。もちろん,幼少のころから学習した結果である自分自身の味覚の嗜好性・志向性も考え始めた。素材の違いと料理手腕の違い,それらにどのようなバリエーションがあるのかも考察の対象になった。

そして,古今東西あれこれの文章に書かれている夫々の食物を,実際に可能な限り自分で食べてみようとした。スーパーに並んでいるのを見つけたときや,なにかのきっかけで産地にいったとき。あるものを食べたら,書かれた文章を思い出し,その違いや本質を考えたのだった。

若ければ誰もが知るように,「腹が減っていたらなんでも美味い」ということや,「腹が満ち足りても美味いと感じるもの」,さらには,「腹が満ち足りているときに,さらに食べたいと思うもの」と,「本当に美味いから食べたいと思うもの」との違いなど,書物を読みながら,あれこれ食べながら常に考えた。

つまり,喰らうことへの情熱が人一倍あったのだろう。友人のものの食べ方を観ていると,単に腹が満ち足りることが美味いということなのだろうな,と思われることが多々あった。また,友人といっしょに別の日に何か同じ料理を食べたときに,「先日のアレと,今日のコレとどちらが美味いか」という議論をしたことも何度もあった。

そういったことを話し合った中では,どちらも美味い,としか答えない,あのときは腹が減っていたから美味かったと言う,こちらの方が美味いと言うが,なにが違うか説明できない,等々,様々な回答があったが,名著に書かれているような,明確な分析の議論にならないのが大半だったのである。そういった多くの人たちは,舌に記憶が残っていない,あるいはそれほど大事に考えていないのだということがわかってきたのだった。

その頃食べたものは,屋台のラーメンやインスタントラーメン,居酒屋の焼き鳥と肉屋で買ってきて自分で焼いた焼き鳥の比較などであり,決して高いものではなかった。その他には,海岸の魚や山地の果物などは,たまたまその地に行ったときには,必ず,美味そうなものや店を探し,語られ書かれているものや店を選んで食べた。海鮮ものは,自分で釣るか,海辺の卸問屋で買うくらいだったが,それが家の近所のスーパーで売られているものとどのように違うのか,常に比較分析していた。

そうして,食べて考えて,舌に残る記憶と比較しているうちに,なにかひとつを食べたら,舌にその味の記憶が焼きつく度合いがだんだん強くなっていったように思う。この味を忘れずにおこうと思う意思や,この味には何が含まれているのか分析しようとする態度,そして,記憶を辿りながら面前の味と比較することなど,それらはその気にならない限り,無頓着に終わってしまう行為だが,その気になってそうして食べていると,味覚は鮮やかに記憶に残るようになってきたのだ。

一方で,書物やテレビなどから得た情報で,それを食べたいと思うことは,当然よくある話だ。そこで,例えばテレビを観てある食物の情報を得た後,近所のスーパーで買ってきた類似物を食べると大抵の場合は失望するものだ。マグロを食べたいと想い,スーパーで買ってきたマグロを食べること,ラーメンと食べたいと思い,カップラーメンを食べること,それらは類似の行為ではあるが,本質的に,徹底的に異なることだということが解ってきた。

そうすると,店に行くより廉いカップラーメンならばまだしも,スーパーに並ぶマグロの冷凍戻しや寿司の贋作に大枚払うことが愚かであることくらいは解ってくる。贋作の寿司に500円払うくらいなら,キャベツを刻んで喰って腹を満たせばそれで良いかという気になってくる。そして実際,一皿100円の冷凍戻しマグロを数十回食べることと,一口数千円のマグロの鮨を一回だけ食べることと,どちらが本当の満足を齎すのかを比較したら,普段一皿100円の贋作の鮨を20回~40回食べると,美味い鮨屋で一口数千円の本物のマグロと同値段だということくらい解ってくる。

20回~40回,失望を繰り返すよりも,たった一回の満足の方が良いに決まっている。そういった贋作による失望の度合いや回数と,本物によるたった一度の満足度の度合いの関数を認識すると,当然のことながら経済効率は上がる。

なんであれ,本物の美味いものに出会うためには,努力を惜しまないことだ。旅行に出かけて,途中に美味いものがあるということを知ったら,到着時間を遅らせてでもそれを食べに行く。出張の途中で,これは食べておきたいと思うものがあれば,訪問先で出された昼食を半分以上残してでも,それを食べに行く。そういうことを繰り返していると,全国,全世界の名品の産地で,極上とまでは行かなくとも,それなりの一品を食べることができるようになってくるものだ。

海外旅行に出かけても,その地で一番美味いと言われるものを食べるように努力する。「そうでないものは食べない」という意思があると,結構美味いものにありつけるものだ。現地の多くの人と食べ物のことを語り,美味いもの,美味い店を教えてもらう。教えてもらった限りは,それを食べる。

どこかに出かけるときは,その日そのとき,その地でなにを食べるのか,あらかじめ調べて,考えておく。とにかく,事前調査なしに食べるということをしないようにすると,かなり食生活は変わってくるのだ。また,関東に出かけていながら,関西の食べ物を欲しない。アメリカで日本食を食べようとしない,などという心掛けも大事なことだ。今いる此処で,一番美味いものを食べるようにする。

そういうことを繰り返していると,「経済力があれば,美味い物を食べることができる」などというのは,ただ単に,愚かな想いこみであることくらいはわかってくる。
座っていて高い金額を払う準備だけがあっても,美味い物は簡単に目前には出てこないし,高い店が即ち美味い訳では絶対にない。無一文では何も買えないが,いくら金があっても知識なしに美味いものを食べられるわけではないのだ。

書物やテレビで得た情報に影響され感化されて,近所のスーパーで似たようなものを買ってきても,それらは決して同じものではないし同じレベルの美味さではない。

高いマグロを食べる金がないからといって,スーパーに並んでいる冷凍戻しのマグロを買ったところで,それはタダの「偽物喰いの銭失い」以外の何物でもないのである。

グルメで大事なのは,偽物に惑わされない意識と,本物に対峙した時に分析しようという意識,即ち,本物を見極めて本物を楽しもうという人生態度だと思う。それは金で買うことのできない,自分自身の努力なのだ。

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