鮨の真髄
同じ種であり類であり属である筈なのに,狭い日本の各産地であまりにも異なるのが,タイ,アジ,サバ,ウニ,サザエ,アワビである。また,同じ群れにいながら個体差が著しいのがマグロ,ヒラマサ,カンパチ,ハマチである。舌に残る記憶を頼りに,各地食べ歩いて比べてみると,味覚の世界はかくも深遠であるかと思い知らされるものだ。
そして,外国で鮨や魚を食べてから帰国すると,日本という島国で取れる作物と日本列島の海産物には,一つの共通点があるということに気づくのである。それは,諸々の事物の全てに含有される,欧米の数百分の一という計測値を示す超軟水の,日本列島の「水の味」である。
アメリカには日本酒のメーカーが支社を出していて,カリフォルニアの水で日本酒を作っているが,いくら同じ麹を使っていても,硬度の差による水の味がかなり異なるので,似て非なるものになっている。欧米の硬度の高い水では,日本酒も日本料理も,正確に再現するのは不可能だ。
全ての民族において,郷国の味というものは,実はそれに含まれる海川や大地の「水の味」である。もちろん,関西と関東でも,あるいは北海道に行っても四国に行っても,それぞれに「水の味」は細かく違う。そして良く味わってみると,それぞれの「水の味」が,各地域の全ての食べ物の特性を方向付けていることが分かるだろう。鮨も,しかりである。狭義では江戸の,広義では日本列島の,その水域に泳ぐ魚と,その水で炊いた日本の水田で育った米,日本の清流の山葵,日本の地下水で作る酢や醤油,それらが統合されて,日本の鮨というひと口の交響曲になる。茶も酒も無論,日本の水であるからこそ,日本茶であり日本酒になるのである。関わる水が全てその地のものであるかどうかという点も,正統派を定義する重要な基準である。
さらには,郷土の湿度や気温,即ち,風の匂いやしっとりした空気の軟らかさも,味を感知する大切な要素である。ブルゴーニュのワインとウォッシュチーズのマリアージュが,あの乾燥した空気と風が運ぶ野原の匂いの中でこそ引き立つように,全て郷土の食べ物は,その環境の中でこそ開花するのだ。
そして,鮨や魚に原点の水を共有する日本の酒を合わせれば,客体である事物の季節に応じたバラエティある組み合わせに各々対応して,主体である味覚が,酔いの度合いによってゆらいで百様を呈し,時々刻々それぞれに異なる森羅万象のハーモニーを展開する。味覚の深遠はかくも果てしなく広がる,繊細な曼荼羅である。
鮨という一つの料理方法をとってみても,これが定説だ,あれが正統派である,などと言えないあらゆる可能性が存するものだ。一人の人間が全てを認識できない程に,現実世界は広く奥深い。理屈や習慣を学んで分析するのは重要だが,それを超えて,拘るところには拘り,自由に食を楽しみ,人生を楽しむべきだと切に思う。そして味覚の深遠を感じるとともに,大地海原の遠大にも同時に思いを馳せ,人々の明日を考えたいものである。
冷凍マグロの普及と圧倒的消費によって,本当に美味い冷蔵マグロさえ食べられないようになってきた。本質を認識せずして模倣し,出鱈目の上に勝手な解釈を重ねて地球環境の破壊に拍車をかけたりせずに,自らの五感の認識と的確な判断で食生活をクリエイティブに展開せよと言いたい。自国で産する美味いものを,新鮮に食べることのできる範囲から入手し,それらを上手に組み合わせて,職人気質でその究極を目指すことが,江戸前握り鮨の真髄である。これこそ,世界に誇る日本の文化である。