ニューヨーク,コロラド,さらにはパリや,ロンドン,そして北京でも,今や鮨や刺身は食事の選択肢の一つとなっている。古来湖川の淡水魚を珍重し海水魚を軽視してきた中国においても,北京のイトーヨーカドーの鮮魚の売上げ高の75%が海産ものによって占められているという[1]。 上海から車でまる一日かかる内陸のある地方都市でも,活きイセエビの刺身を供されて驚いたことがある。一方で,南米チリ沖の公海では,中国船によって乱獲され冷凍して中国に運ばれる鯵の急減が問題化している。また,遠海冷凍鮪の買い付けは,台湾が日本を凌駕し台頭している。
EU(欧州連合)は,欧州漁業構造計画として,1994年からの6年間で,約1320億円(日本円換算)を投じ,漁船の近代化を進めた。日本の漁船は大きくても160トンで14~15人が乗船するのに対し,IT化された欧州の新型は200トンの大型船をわずか4人で操業する。高度な魚群探知システムを備えたその漁船が一般化し,GPSなどの航海技術の高度化も相まって,生産効率が飛躍的に高まった。これにより,EUでは若手の漁業への新規参入者が増えたという[2]。
一方で,養殖の技術も急速に高度化しているが,淡水魚とは異なり,海産魚の養殖は自然の海で行われ,それまでその海域になかったものが餌として使用される。南極海で大量に乱獲されたオキアミや,陸地の動植物を原料とした餌によって,海は破壊され続けている。
そうして公海で効率的に大量に乱獲され,環境を破壊し大量に養殖された魚介は,人件費の安い国で加工され,途中に冷凍という過程を経て,消費される対象国へと輸出されていくのである。かつての日本が辿ったような鯨の乱獲や遠海漁業船による大量捕獲・大量消費への道程が,世界中に伝播して規模も速度も増大しており,深刻な事態を招いている。
目を転じて,末端の消費の面を見てみよう。昭和33年に登場して以来,世界的に普及した回転寿司のシステムにおいては,科学的な分析が高度に進んでいる。多くの人は右利きなので,すし皿は右から左へと流れる。標準速度は毎分4.8m(毎秒8cm)で,目前を6~7秒かけて通るようにし,ビジネス街の店では速度を上げ,郊外では下げるという。人件費削減のために自動飯握り機械も普及している。どのように鮨種を並べるかということも含めて,すでに世界中の回転寿司店にノウハウが行き渡っている。客の心理を徹底して煽って,美味くもないものを大量に食わせるシステムである。その戦略戦術に応じて,世界の海から供給される各種魚介類は,末端の回転寿司店に並ぶまで,こと細かくサプライチェーンが構築されている。介在するマスコミの無責任な煽りも看過できない。
以上のように,産地から消費者まで,技術は高度に発展し量的拡大を続けているのだが,全く除外されているのは,味覚の文化的な意味での「品質」である。
世界中で鮪の消費量が爆発的に増加し,数百万トンという圧倒的大量の冷凍鮪が消費されているが,贋作の粉ワサビを溶いた化学合成醤油で食べる冷凍のそれは,日本の食文化である鮪の刺身からは程遠い。鮪に限らず,アフリカ沖の蛸や烏賊,チリ沖の鯵など,生と冷蔵と冷凍の違いは無視されて,産地の違いによる味覚の違いの検証もなく,ただ,それが「健康的」だから,「美味いから」,あるいは「鮪だから」,「鯵だから」,という,多くはマスコミに煽られた「言説」によって,ひたすら大量に消費されているのだ。
それぞれに知恵が絞られ,少しでもマシにしようとはされているだろうが,常に優先されているのは当然,味覚ではなくコストである。雑穀酢と化学調味料を合えたカリフォルニア米を機械が圧縮し,ホースラディッシュを原料とする化学薬品とでも言うべき粉ワサビを塗った上に,アワビと偽る南米の冷凍ロコ貝の切り身や冷凍遠海鮪の,肉汁が抜けてしなびた解凍品を乗せて,それを「鮨だ」というのは捏造された言説以外の何物でもない。
「鮪は美味い」,「鮨は美味い」という言説を妄信し,回転する皿に心理的に煽られて,まるで機械に給餌されるフォアグラの鴨のように,人々は回転寿司を食わせられている。ベルトコンベアに乗って回るそれらロコ貝も,南洋鮪も,それぞれ産地近くで生鮮を,それに応じた食べ方をすれば美味いに違いない。しかし,急速冷凍され数ヵ月後に解凍され,コンベアの上で回転しながら,さらに乾燥していくしなびたそれらは,現地の味からは程遠い,すでに枯れ果てた屍,いわばゴミの一種と言っても過言ではなかろう。
冷凍の鮪や鯵よりも,しかるべき措置を講じた環境汚染の少ない,内陸の管理プールで育った養殖淡水魚の方が,寄生虫の心配もなく新鮮で,どのような魚の冷凍解凍品よりもよほど美味い筈だ。
なぜ,鮪であり鯵でなくてはならないのか。なぜそういった解凍品,つまり明らかに真の味覚からは程遠いものを,健康食だと曲解し,美味いと妄信するのか。その背後には,近代資本主義によって生まれた,巨大なパワーがあり,一般市民はその言説によって突き動かされ,不要な消費を強要されているだけなのである。言うまでも無く,サプライチェーンは,需要があってこそ成立する供給のシステムであるが,このような需要は捏造された虚妄である。
人類は今,この近代化が生み出した言説によるパワーの愚かさを深刻に考慮し,対策を急ぐべき所に来ている。コスト競争はもはや環境破壊の言い訳にはならない。昨今,鮪の漁獲制限が議論されているが,量的制限を論じるよりも,質的な理解を広く徹底するべきである。
新鮮なものから冷凍やまがいものまで,品質の高低に関する諸問題に加え,バラエティの横への広がりの問題もある。先進国で一定の地位を占めるSushiは,各国でアレンジされた変り種が次々と発明されている。フランスの回転寿司には,スモークサーモンに乳脂肪の塊であるクリームチーズをたっぷりあしらった,見るからに不健康そうなニューヨークベーグルまがいの握りまで登場している。
農林水産省やジェトロが,海外であまりにも乱脈を極める鮨や日本料理の変種を危惧して,正統派の日本料理店に認定証を発行し始めた。日本文化を守るためだそうだが,何をもって正統派の日本食と位置づけるかは,かなり疑問が残る上に,次のさらなる誤解を起因する可能性がある。
冷凍であろうと鮪の切り身を酢飯に乗せていれば鮨である,などという基準では,自文化どころか何も守れず,マグロの乱獲ブームを助長するだけである。保守本流の正統派である日本の本物の鮨は,日本の特定のところでしか食べることはできない。材料にこだわらず,レシピをもって正統か否かを問うのであれば,アメリカで発明されたアボガドと蟹のカリフォルニアロールは,日本人の口に合うので,アメリカ料理に入れずに日本料理に入れるべきだなどと天邪鬼な愛国心も出てくる。話が少々逸れたが,食文化は,材料,レシピ等,何をもってそれと定義するのかを深刻に検証すべきであろう。筆者は無論,材料とレシピに加え,土地(場所)と空気と水とが揃わないと,それであるとは定義しない。
鮨は世界的な漁獲量の急上昇によって,あと50年程で材料が枯渇する絶滅危惧料理である。鮨の定義を検証し,わが国の経済発展と,日本文化の伝承の,あるべき姿を考えたい。人々を操る言説とパワーに反論し,せめて自分の生きている間だけでも,まともな鮨,美味い鮨を食べることができて,子供や孫の生涯を通じて,一年に一回だけでも良いから,美味い海産物を食べさせてやりたいと願う。
鮨は,手近にある材料を,新鮮なまま,あるいは保存のために手を加えて,最も美味く食べるための料理法であって,日本人が考え出した「技術文化」である。遠方の古い冷凍食材を解凍してわざわざ味を劣化させ,本来の味とは程遠い形骸のみをもって満足する象徴行為ではない。そのような模倣や贋作の蔓延を助長するのではなく,真の日本文化の伝播と輸出をもってわが国の経済力へと転換すべきである。
[1] 読売新聞「揺らぐ魚食大国」2006年11月17日~19日連載
[2] 読売新聞 同上
鮨,寿司特集
カレー・カレーライス特集
鮨,寿司,うまいすし,ラーメン,うどん,そば,美味いもの,グルメ@京都情報大学院大学
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