頼朝は源氏棟梁である義朝の三男ですが、早くから嫡男とされていました、なぜって、それは正妻の息子だからです。9人の兄弟がいて末弟が義経です。平治の乱(第2次源平合戦)で負けて父義朝と長兄義平は断首、次兄朝長は戦死して、弟たちは四男義門はその前に死亡、五男希義は土佐に流刑、その地で死亡、六男範頼は母の郷浜松で生まれ育つ。七~九男が常盤御前の子で寺に入れられます。彼らは頼朝の挙兵(1180)で駆けつけますが、家族扱いはされずあくまで御家人のひとりです。頼朝よりも長生きしたのは七男全成のみです。頼朝は冷酷にも弟たちを切り捨てたというのは判官びいきの都人の評価で、関東武士からするともうひとつ煮え切らない指導者です。頼朝は彼らにずいぶん気を使って、弟たちに特別な扱いをしていません。早く都に上って平氏を討ち取りたいが、関東を固めるほうが先だと言われて、そうします。妻の政子には頭が上がらない。なんせ実家の北条氏の支持がなくなったら彼の地位はないから。
平氏を都から追い払ったのは木曽義仲で、先を越されてしまいますが、その義仲は後白河法皇から疎まれついに都の上るチャンスが来た(1183)。法皇から入洛の要請です・ 以下次項
鎌倉幕府と・・・(その1)