明月記 超新星

SN

 藤原定家の「明月記」には客星の8件の古記録が書かれています。客星は文字通りお客さん星、不意に現れた星です。すべて陰陽師安倍泰俊から聞いた話ですが。最初のものは皇極天皇時代と言うから、7世紀、この天皇は天智天皇の母親です。陰陽師の記録はスゴイ。8件のうち終わりの3件が超新星です(残りは彗星らしい)。望遠鏡のない時代の超新星の記録は世界で7件しかありませんが、そのうち3つも記載がある本は「明月記」だけ。一番すごかったのは1006年のもので、太陽・月に次ぐ、史上で最も明るい星。さすがに世界各所に記録があります。
 定家という人は古文書あさりが趣味だったのでしょうね、きっと。まぁ、百人一首選定も古歌あさりみたいなものです。

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鎌倉幕府と超新星(12)

SN1181

 最後は星ネタで締めくくります。これまでタイトルの末尾に・・・となっていたところには超新星が入るのです。
 さて鎌倉幕府の成立は「吾妻鏡」という書物に書いてあるのですが、書かれたのは鎌倉時代の後半らしく、その当時の記録はむしろ京都の公家の日記にあります。その中でも藤原定家の「明月記」は第一級資料でしょう。彼は百人一首や新古今和歌集の選者として有名ですが、この日記(エッセイというかブログというか)も国宝です。治承4年(1180年ー頼朝挙兵) から嘉禎元年(1235年)までなんと56年間にわたって書き綴られています。全部漢文・・・とても読めません。
 この日記には、超新星出現の記録(ヒジョーにキチョー)が3件もあり、天文屋にとっては定家サマサマなのです。  どうでもいいことですが、Teikaという小惑星がありまして、その名付け親(命名提案)は実はワタクシ。  超新星とは星の最期の大爆発で、一夜にして数万倍も明るくなります。実は1181年の夏に超新星が出現しているのです。図の↓のところ(カシオペア座)に織姫星(←)と同じくらいの明るさの星が出た。そのことは陰陽師の記録にあり、定家は晩年それを安倍泰俊(晴明の5代か6代の孫)から聞いて「明月記」に書いたそうです。当時19歳の定家自身の観測記録は見つかっていませんが。
 1181年といえば清盛が死んだ年です。この星を見た都の公家は「巨星消ゆ」と、また鎌倉の頼朝周辺では天命下ると思ったのではないでしょうか。天変は天の警告であり命令であると思われていたころのこと。超新星出現は新時代到来にふさわしい天象ですが、これを吹聴した天文屋の話は伝わっていません。

このシリーズには
時々頼りないが担ぐにはいい指導者・・・頼朝
わが子を犠牲にして関東の独立を守った女将・・・政子
無欲で企画力のある知恵者・・・広元
やっぱり怪物、天才かも?・・・後白河
時代の空気が読めなかったのは・・・義経、後鳥羽
これらの過程を冷静に見つめていた・・・定家
などなど色々な人物が出没しました。
ここらで鎌倉幕府成立に関する物語は終わります。長期間ご愛読ありがとうございました。オヒマなとき最初から読み直してくださいね。

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鎌倉幕府と・・・(その11)

 実朝暗殺事件は日本史の謎のひとつですが深追いはやめて先に進みます。源氏嫡流が途絶えてしまい、4代将軍には頼朝の姉のヒマゴとかいう2歳の幼児を据える。実権はもちろん政子とその弟義時(執権)です。これに喜んだのは都衆で、後鳥羽院は御家人の分断を図ったり、さまざまな注文をつけてきます。それをなんとか、かわしているうちに、ついに倒幕院宣が発せられる。さあ、大変。鎌倉では大評定が開かれました。さすがの関東武士もビビりますが、主戦論を唱えたのは大長老の大江広元、京から下ってきて幕府創業に携わった文官です。実はその時、彼の息子と三浦義村の弟は在洛で、院に取り込まれているのですが、2人とも肉親を見殺しにして都との決戦を訴えます。最後のとどめは政子の大演説「これ最後の詞なり・・・で始まり、今こそ故右大将(頼朝)の恩に報いるときという言葉に関東武士は涙を流して忠誠を誓ったそうです。
 故右大将の挙兵前は関東武士は都の公家に犬のように扱われてきた。この屈辱を解放したのは故右大将であり、ここで院に屈するとまた昔に戻ってしまう。われら(政子や広元など)の苦労は水の泡。せっかく勝ち取った関東独立を無にするなということですね。
  19万の大軍が京に入り、戦いはあっけなく終わります。これによって西国の支配権も朝廷の人事権も幕府の手に移りさらに後鳥羽院は隠岐島に流され幕府は皇位継承についても口を挟むようになりました。承久の変(1221)。これにて鎌倉幕府の全国支配が完成したのですが、後世、義時は逆賊の汚名を受けるわけです。

  さて、サスペンダーさん、みなさん、鎌倉時代に始まりはいつが適当だと思われますか?
1180  頼朝挙兵
1183  義仲追討令を受け京へ出兵
1185  平家滅亡 守護地頭を設置
1190  奥州平定 頼朝右大将に任じられる
1192  頼朝征夷大将軍に任じられる
1221  承久の変 全国制覇

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鎌倉幕府と・・・(その10)

 実朝を殺害したのは甥の公暁(くぎょう)、修善寺で暗殺された頼家の遺児です。政子はこの孫を溺愛し僧にしたのは安全のため、京で修行させ、鎌倉に呼び戻し鶴岡八幡宮の別当に任じます。ところが公暁は読経ではなく密かに武芸を修行し、機会を狙っていました。そして実朝の右大臣昇進のための鶴岡八幡宮拝賀の夜、実行されたのです。ところが公暁もあっさりと討ち取られてしまいます。これで頼朝の男系は一挙に途絶えてしまいました。
 公暁をそそのかしたこの事件の黒幕は誰でしょう?北条が源氏を滅ぼしたという説が昔からありました、また京の朝廷の倒幕工作だと言うのも。しかしいずれも不自然です。なぜなら北条や朝廷にとって実朝は邪魔な存在どころか、むしろ好都合な傀儡ですから。
 永井路子はここで当時の育児について述べています。貴人の男の子を育てたのは通常実母ではなく乳母であると。乳母は自分の家族といっしょに献身的に若君を養育する。成人の暁の多大な富と栄誉が期待されるからです。頼家の乳母は比企氏の妻、実朝の乳母は北条保子(政子の妹)、公暁の乳母は三浦氏の妻・・・すなわち頼朝亡き後の鎌倉は若年の将軍をめぐって実は北条・比企・三浦の争いなのです。これでサスペンダーさんの疑問も解けましたね。
 そうなると実朝暗殺の黒幕は三浦義村で、公暁を第4代将軍にして北条に取って代わろうとしていたのではないでしょうか。しかし公暁が三浦の家人に討ち取られるのはなぜ?実は三浦義村はドタンバで公暁を裏切った・・・そりゃムリな推理! いや、三浦義村とはこれまでに従兄弟を、この後には弟を見殺しにしている裏切りの常習犯・・・以上が永井説です。  以下次項

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鎌倉幕府と・・・(その9)

 頼家の後を継いだのは12歳の実朝、兄とは全く違って素直な少年でした。幼年のため実権は祖父時政、母政子、叔父義時、ようするに北条氏ですが、三浦義村、大江広元なども幕府の中枢にいます。実朝は政治・軍事には無関心だがプライベートなことでは頑固で、妻は有力御家人からでなく、都から迎えたいと言い出す。そして大納言の姫君がお輿入れとなり、華美な京文化が入ってきます。政子としては、不満はあるが、娘の入内問題でこじれた都との関係が改善されてまぁいいかというところ。ともかく平和な時代になり、東国は幕府が、西国は朝廷がという共存体制ができました。実朝は上洛はしませんでしたが、京への憧れ甚だしく、武芸になじまず和歌を作って藤原定家に添削してもらったり。後鳥羽上皇へ献じたり・・・武家の棟梁とはいえないですね。それだけでなく、官位叙任を願い出て、異常な若年で昇進します。24歳で権大納言・中将、広元が諌めるのも聞かず。そして26歳で内大臣ついに右大臣(いわば副首相です)。もちろんタダではありません。幕閣はウンザリ、でも祝賀の儀式はやらねばなりません。1219年1月の雪の中、鶴岡八幡宮拝賀が挙行されました。神拝を終えて退出の最中、彼は暗殺者の刃に倒れてしまうのです。         以下次項

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火星に氷が見つかった

 火星に氷が見つかったそうです。NASAの火星探査機フェニックスの調査によると地下から掘り出した土の中に氷の塊があった。赤い砂漠の下からはまだまだ何が出てくるか。。ひょっとしたら真水も。そして生命も?

フェニックスがとらえた火星の物質、ほぼ氷に間違いなし

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鎌倉幕府と・・・(その8)

 1195年頼朝は家族を連れて再上洛し、奈良東大寺の再建落成式に出席します。東大寺大仏殿は源平戦乱で焼失し、大仏の首がとれ、それを頼朝が再建した、これは伝統勢力との融和であり、娘の入内に対する工作です。しかしその意図は失敗、彼は失意の晩年を送ったようです。没年は1199年で、死因はなんと落馬」・・・嗚呼、征夷大将軍。どうみても不可解ですね。まだ51歳です。でも憶測はやめましょう。多分心筋梗塞か脳卒中を起こして落馬したのでしょう。
 後を継いだのは18歳の長男頼家、これが苦労知らずのとんでもない御曹司で、側近や妻の実家である比企氏を重用し長老を無視したため、武士たちから総スカンをくらい、実権を取り上げられ、酒色におぼれる。そのため、ついに伊豆の修善寺にて病気療養という名目で鎌倉追放となります。その引導を渡したのは母政子でした。彼女は実の息子よりも幕府の安泰を選んだのです。頼家は、翌年の元久元年(1204年)7月19日、北条氏の手兵によって殺害されます。

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OSCに参加しよう

 OSC2008 Kansaiは7月18日(金)・19日(土) に行われます。
開催まであと1ケ月です。KCG/KCGIは共催団体です。45周年記念行事のひとつです。ぜひ積極的にご参加ください。
オープンソースカンファレンス2008 Kansai – おいでやす
このページにある参加団体が多いのにはビックリですね。
・オープンソースに関する最新情報の提供
・オープンソースコミュニティ、企業・団体による展示
・セミナー: オープンソースの最新情報を提供
参加費はタダ
さてどんなプログラムになるでしょうか。本学大学院生から3つの展示が行われ
・Network Study of Scilab    サイラボのないPCでサイラボを操る
・3D Drawing by Metasequoia  複雑な現象も3Dで理解できる   
・MathML Communication    ご本人からレスで説明をお願いします 
さらにセミナーやETロボコンも

全国のOSUserと交流するチャンス、KCG/KCGIの知名度を上げるチャンスです。きっと、あなたの世界が広がります。

ことしもやりますOSC

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鎌倉幕府と・・・(その7)

 このシリーズは5回で終わる予定でしたが、まだまだ続きそうです。ネタ本は永井路子の小説で『北条政子』 (角川文庫)、『源頼朝の世界』(中公文庫)、『執念の家譜』(講談社文庫)、『歴史をさわがせた夫婦たち』 『平家物語の女性たち』 『炎環』(文春文庫)などなどで、みんな面白い。私たちが知っている歴史は京都から見たことに基づいていますが、彼女は関東人の見方です。
 鎌倉幕府創立の主役は頼朝ではなく、むしろ妻の政子と関東武士たちです。政子は非情な女のように言われていますが、実は気の毒な女性です。2男2女の子供はみんな彼女より先に変死します。
長女大姫 - 病死 享年20
長男頼家 - 二代将軍。暗殺 享年23
次女三幡 - 病死(?) 享年14
次男実朝 - 三代将軍。暗殺 享年28

なお、頼朝の庶子で長生きした貞暁という僧がいます。彼は権力とは無関係に高野山で暮しました。次回は頼朝の死、その後は鎌倉と京都の確執について書き綴っていきます。

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鎌倉幕府と・・・(その6)

 頼朝の御家人とはどんな武士たちだったのでしょう。妻政子の実家である北条、相模の豪族である三浦を2大勢力として安達、梶原、比企、和田、千葉、足利、武田などがいますが、その中で異色なのが大江広元・・・関東武士ではなく京都の中級貴族出身です。都で出世の見込みがないので見切りをつけて(もしくは誘われて)鎌倉に下ってきた。関東武士は戦は強いが、平時となると企画立案ができない、マネジメントができない。広元は事務管理に長け、野心を持たない、朝廷の裏も表も知っているという鎌倉にとって非常に頼りになる人材です。都との交渉、対応、要求などは彼の知恵らしい。

 話はそれて、大江広元の四男が毛利を名乗ります。鎌倉御家人のほとんどは戦国時代までには滅びますが、毛利の子孫は生き延び安芸にわたってきます。毛利氏は自分たちの家を江家(ごうけ)といっていたそうです。徳川より家格が上だというプライドでしょうね、きっと(これは司馬遼太郎の小説による)。

 さて晩年の頼朝がやったこととは、なんと娘を入内させる、すなわち天皇の后にしてゆくゆくは幼帝の外祖父になろうとします。これじゃ清盛と同じですね。長女を何とか後鳥羽の后に・・・しかしこのころ朝廷では親鎌倉公家が失脚し、頼朝の意にかなわぬ反幕勢力の群れ、そういう時やることと言えば賄賂です。ところが長女が病死してしまう、が彼はあきらめず幼い次女を京に送ろうとします。なんと次女も病死(アヤシイ毒殺かも)、結局すべて失敗でした。関東武士の冷ややかな眼を見て、広元に「都育ちのおまえならわかってくれるだろう。」とグチをこぼしたとか。征夷大将軍になってやることなくなってボケたのでしょうか、でもまだ50才前後ですが。    以下次項

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