鎌倉幕府と・・・(その6)

 頼朝の御家人とはどんな武士たちだったのでしょう。妻政子の実家である北条、相模の豪族である三浦を2大勢力として安達、梶原、比企、和田、千葉、足利、武田などがいますが、その中で異色なのが大江広元・・・関東武士ではなく京都の中級貴族出身です。都で出世の見込みがないので見切りをつけて(もしくは誘われて)鎌倉に下ってきた。関東武士は戦は強いが、平時となると企画立案ができない、マネジメントができない。広元は事務管理に長け、野心を持たない、朝廷の裏も表も知っているという鎌倉にとって非常に頼りになる人材です。都との交渉、対応、要求などは彼の知恵らしい。

 話はそれて、大江広元の四男が毛利を名乗ります。鎌倉御家人のほとんどは戦国時代までには滅びますが、毛利の子孫は生き延び安芸にわたってきます。毛利氏は自分たちの家を江家(ごうけ)といっていたそうです。徳川より家格が上だというプライドでしょうね、きっと(これは司馬遼太郎の小説による)。

 さて晩年の頼朝がやったこととは、なんと娘を入内させる、すなわち天皇の后にしてゆくゆくは幼帝の外祖父になろうとします。これじゃ清盛と同じですね。長女を何とか後鳥羽の后に・・・しかしこのころ朝廷では親鎌倉公家が失脚し、頼朝の意にかなわぬ反幕勢力の群れ、そういう時やることと言えば賄賂です。ところが長女が病死してしまう、が彼はあきらめず幼い次女を京に送ろうとします。なんと次女も病死(アヤシイ毒殺かも)、結局すべて失敗でした。関東武士の冷ややかな眼を見て、広元に「都育ちのおまえならわかってくれるだろう。」とグチをこぼしたとか。征夷大将軍になってやることなくなってボケたのでしょうか、でもまだ50才前後ですが。    以下次項

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