鎌倉幕府と・・・(その5)

 1189年の暮れに、上洛した頼朝は後白河法皇、後鳥羽天皇に拝謁し、大納言兼近衛右大将に任じられます。これで政府の閣僚となり軍人としても最高位に上ったのですが、あっさりと辞退します。彼が望んでいたのは征夷大将軍ですが、これはもともと蝦夷征伐のための臨時職でそんなに高位の官職ではない。近衛右大将よりずっと下です。しかし頼朝からすると都に常駐して、公家たちと付き合う気はない、(少しはあったかもしれませんが)そんなことしたら関東武士から見放されてしまう。鎌倉に本拠を構えて武士たちの上に立つには征夷大将軍の位が最適なのです。そこを知ってわざとさらに高位を与えるというのが朝廷の意図、それを感知した頼朝は辞退したというわけです。これもかの優秀なブレーンのアドバイスくさい。
 朝廷がシブシブ征夷大将軍に任じるのは1192年、後白河法皇が死んでから。鎌倉時代はとっくに始まっているのです。
ところでこの後の晩年の頼朝はどうも変です。精彩なく、まるで都の公家のマネをし始めますがそれは次項で。

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鎌倉幕府と・・・(その4)

 頼朝に従わない最後のひとつ、それは奥州藤原氏です。当時陸奥の砂金の産出量はすごかったそうで、藤原秀衡は世界指折りのお金持ちだったでしょう。平泉(このたびの地震の震源地近く)の金色堂は後世、松尾芭蕉も絶賛していますね。軍事力よりも経済力で京都も鎌倉も手が出せない。でも当主秀衡はすでに老齢ですから、待てばよい、義経はいずれ平泉に行くに決まっているから、一挙に攻め込もう・・・と考えて義経を追い込んだようです。そしてそのとおりになりました。義経は蝦夷地に逃れ大陸へわたって、ジンギスカンになったとか言う話がありますが、いずれ別項で。1189年の夏、頼朝は奥州征伐には自ら大軍を率いて出征しますが、これはデモですね。1ケ月もかからず終着します。そして秋にはついに上洛します。29年ぶりの帰還ですが、頼朝自身も、また彼を迎える公家衆にも複雑な気持ちがありました。  以下次項

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鎌倉幕府と・・・(その3)

 1183年頼朝は都から来た上洛の要請を東国の事情とかでひとまずは断ります。次いで来た知らせは14歳のとき剥奪された官位を元に戻し、かつ東海道諸国の年貢の取立て管理する権利を与えるというもので、前者はともかく後者はスゴイことです。2人の弟、範頼と義経を遣わし義仲と平氏を滅ぼし、2年後には平定していまうお話は今さら言うまでもないこと。問題はこれからで、次の目標は朝廷を鎌倉からコントロールすることですが、相手は後白河法皇という天下の大天狗、陰謀が大好きで清盛も頼朝も義経も翻弄させたお人です(しかし文芸、歌舞音曲、さらに製薬まで芸は何事も達者です)。そのために利用されたのが戦はうまいがKYなる義経君ですね。義経を泳がせながら、彼を捕らえるために全国への守護・地頭の設置を迫り、ついに認めさせます。その際朝廷内を親幕府派の公卿で固めることにも成功しました。文治元年(1185年)彼は全国制覇を成し遂げた。官位は別にしてこの年をもって鎌倉幕府は事実上スタートしたわけです。その影には優れたブレーンがいますが、それは後の話。でもまだ1ケ所、意に従わぬ勢力がありました。以下次項

鎌倉幕府と・・・(1) 
鎌倉幕府と・・・(2)

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鎌倉幕府と・・・(その2)

 頼朝は源氏棟梁である義朝の三男ですが、早くから嫡男とされていました、なぜって、それは正妻の息子だからです。9人の兄弟がいて末弟が義経です。平治の乱(第2次源平合戦)で負けて父義朝と長兄義平は断首、次兄朝長は戦死して、弟たちは四男義門はその前に死亡、五男希義は土佐に流刑、その地で死亡、六男範頼は母の郷浜松で生まれ育つ。七~九男が常盤御前の子で寺に入れられます。彼らは頼朝の挙兵(1180)で駆けつけますが、家族扱いはされずあくまで御家人のひとりです。頼朝よりも長生きしたのは七男全成のみです。頼朝は冷酷にも弟たちを切り捨てたというのは判官びいきの都人の評価で、関東武士からするともうひとつ煮え切らない指導者です。頼朝は彼らにずいぶん気を使って、弟たちに特別な扱いをしていません。早く都に上って平氏を討ち取りたいが、関東を固めるほうが先だと言われて、そうします。妻の政子には頭が上がらない。なんせ実家の北条氏の支持がなくなったら彼の地位はないから。
 平氏を都から追い払ったのは木曽義仲で、先を越されてしまいますが、その義仲は後白河法皇から疎まれついに都の上るチャンスが来た(1183)。法皇から入洛の要請です・  以下次項

鎌倉幕府と・・・(その1)

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プルートの復権

 昨日天文MLに 国際天文学連合、冥王星型天体の英語名をplutoidに決定 というニュースが流れました。太陽系外縁天体で、かつ準惑星」という天体をこのように分類するということです。冥王星型天体(プルトイド)に分類されているのは冥王星とエリスだけですが、その候補はたくさんあり、今後は増えていくと考えられます。エリスとはサイズ質量(すなわち身長体重)とも冥王星と互角で、これを第十惑星にするか、それとも2つとも除外するかのモメゴトを起こした新天体です(エリスとはギリシア神話で不和・争いの女神)。やっぱ、プルートという名前は棄てがたいようです。

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鎌倉幕府と・・・

 鎌倉幕府の成立年は1192(イイクニ)というゴロあわせで覚えた方も多いでしょうが、現在ではこの説は支持されていなくて1185年説が有力のようです。1192年は源頼朝が征夷大将軍に任じられた年で、1185年は平家が滅び、守護地頭が設置された年で、すなわち前者は朝廷からお墨付きをもらった年であるのに対し、後者は関東勢(源氏ではなく)が自力で制覇した年です。平氏を滅ぼしたのは源氏だ、あれは源平合戦だと言うのは京都の朝廷からの見方であり正確ではない、むしろ関東武士団の決起・独立運動とすべきです。
 関東地方は都で出世できない者や追放された者、いわば「負け組」が開拓したところで、都人から見れば野蛮地でした。関東人は京都の朝廷から独立したいと願っていましたが、自分たちの「頭」がいない、そこへ都から流罪人(多分最後で最大の)がやってきた。それが頼朝で、死は免れたが、伊豆で一生軟禁状態を送ると言う流刑です。関東武士は14歳の頼朝が成長して自分たちの統領になってくれるのを期待していました。20年後、清盛が重病にかかり、平氏の世も終わりに近くなった。そこで彼らは決起します。後白河法皇から平氏追討の密命を得ますが、目的は平氏滅亡ではなく、朝廷に東国支配を認めさせることでした。その主体である関東武士は決して源氏の兵ではなく、頼朝はトップに担がれたにすぎません。

 実はこれは永井路子のいくつかの小説に書いてあることで、彼女はサムライ共和国の成立といっています。  以下次項

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PDF作成

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 PDF変換のフリーソフトが窓の杜でみつかりました。PrimoPDF、コピーや印刷のオプションが選べます。早速ダウンロード、インストールしてやってみたところ
・プリンターとしてPrimoPDFを選んで印刷するという操作でできる
・確かにコピー不可、印刷可のPDFができる
・やけに時間がかかる
・ファイルサイズがもとのWordの数倍に膨れ上がる
フーム・・・・もっといい方法はないものか?

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 文書を清書するにはPDFに変換しますね。PDFファイルは本来編集できないものですが、Word2007から「名前を付けて保存」「PDF」としてできたものはテキストも画像もコピーできます。すなわちWordに戻して再編集できるのです。これは困る、何かオプションはないかとさがしたけどわかりません。フリーであるOpenOfficeWrterにはコピー不可、印刷不可のオプションがつているのに。
みなさん,どうされていますか?

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