鎌倉幕府と・・・(その11)

 実朝暗殺事件は日本史の謎のひとつですが深追いはやめて先に進みます。源氏嫡流が途絶えてしまい、4代将軍には頼朝の姉のヒマゴとかいう2歳の幼児を据える。実権はもちろん政子とその弟義時(執権)です。これに喜んだのは都衆で、後鳥羽院は御家人の分断を図ったり、さまざまな注文をつけてきます。それをなんとか、かわしているうちに、ついに倒幕院宣が発せられる。さあ、大変。鎌倉では大評定が開かれました。さすがの関東武士もビビりますが、主戦論を唱えたのは大長老の大江広元、京から下ってきて幕府創業に携わった文官です。実はその時、彼の息子と三浦義村の弟は在洛で、院に取り込まれているのですが、2人とも肉親を見殺しにして都との決戦を訴えます。最後のとどめは政子の大演説「これ最後の詞なり・・・で始まり、今こそ故右大将(頼朝)の恩に報いるときという言葉に関東武士は涙を流して忠誠を誓ったそうです。
 故右大将の挙兵前は関東武士は都の公家に犬のように扱われてきた。この屈辱を解放したのは故右大将であり、ここで院に屈するとまた昔に戻ってしまう。われら(政子や広元など)の苦労は水の泡。せっかく勝ち取った関東独立を無にするなということですね。
  19万の大軍が京に入り、戦いはあっけなく終わります。これによって西国の支配権も朝廷の人事権も幕府の手に移りさらに後鳥羽院は隠岐島に流され幕府は皇位継承についても口を挟むようになりました。承久の変(1221)。これにて鎌倉幕府の全国支配が完成したのですが、後世、義時は逆賊の汚名を受けるわけです。

  さて、サスペンダーさん、みなさん、鎌倉時代に始まりはいつが適当だと思われますか?
1180  頼朝挙兵
1183  義仲追討令を受け京へ出兵
1185  平家滅亡 守護地頭を設置
1190  奥州平定 頼朝右大将に任じられる
1192  頼朝征夷大将軍に任じられる
1221  承久の変 全国制覇

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