中国に来てからますます考えていることですが、わが国の中国文化は華北からではないようです。ここは乾燥した地域で米は余りよく育たずむしろ麦麺中心の食文化です。それには羊肉や豚肉を伴います。米と魚という食文化はわが国と気象環境が似ている湿潤な華南です。長江流域に中華文化が広まったのは春秋時代(詳しくはサスペンダーさんのご推奨の十八史略を)と言われていますが、実は最近長江中流に米作文化史跡が発見されました。黄河文化に滅ぼされ、中国正史からは無視されてきましたが、彼らは文字を持たなかったため文献は残っていません。彼らはどこに行ったのでしょうか?一部は南のタイへ、また一部は東の海を渡って倭国へ逃れた、そのとき米作技術をもってきた・・・という説があります。紀元前数百年のことです。華北の文化が伝わったのは秦漢時代(前200年ころ)からでしょう。
固有の縄文文化の上に華南米作文化が載りさらに華北文化が重なったと考えるといろいろ面白いです 以下後日
天津より-5
天津より-4
天津より-3
今日から授業開始です。欠席者1人、他のクラスでは全員出席もあります。今日はイントロで本論は明日からですが、やはりネックは言葉です。これについては徐々に話していきます。
ところで構内にこんな胸像を見つけました。この人1500年前の数学者・天文学者なんです。詳しくはここに。名前は祖沖之,πの値を小数第7位まで求めた、これはヨーロッパより1000年早い。また暦を作ったり機械を設計したり、かなりの大物です。身分は宋の太史令(天文官)で、活躍地は南京ですが、天津科技大学とどんな関係があるかわかりません。
天津より-2
天津市は直轄都市で人口は1000万(大阪市+京都市くらい)という話ですが、面積がメチャ広く京都府と大阪府を合わせたくらいあります。外国の都市の人口はこの点、要注意です。天津からまっすぐ東へ行くと、秋田・盛岡あたりで結構北にあります。北京からバスで来る途中、夜でよく見えなかったが、高い山はなく広大な平地でした。天津は古代史には登場せず、清代に北京の外港として作られた中国では比較的新しい都市です。ここから緑の山は見られません。今日は雨が降っていますが、この雨雲は2日後くらいに日本に行くのでは。
天津より
処暑
殷周革命BC1046年
サスペンダ-さんのオススメ本「封神演義」の時代背景は、今を去ること約3000年前、舞台は黄河中流です。当時の中国は商(殷)王朝の末期、紂王(帝辛)というとんでもない暴君がいました。日夜宴会を開いて乱交にふけり酒池肉林の日々をおくり、炮烙と言う残酷な刑罰を行ったり・・・なんて悪行が無数にあります。そこで周の姫発(武王)が天命を受けたとして(天命を受けたのはおやじさんの姫昌=文王です)革命を起こし10万の軍で70万の大軍を破って殷は滅ぶわけですが、その最終戦が牧野の戦い、武王の参謀が太公望でこの演義の主役です。
この殷周革命がいつのことか、諸説さまざまだったのが最近BC1046年と特定されたそうです。実はこの結果はワタクシの計算と奇しくも一致しました。どうやって計算したのか?それは天文古記録をもとにして、それに最もよくフィットする星空を捜し求めたのです。古色蒼然としたネタですが、モデル化とシミュレーションの一例です。
皆既月食 Aug28
暴走中
もう少し続けます。
神は最も進化しやすいパラメータを微分方程式の初期条件に選んだとは思えないのです。地球に限っても何回か生命絶滅の危機に面しています。現生人類はあまたのヒト科の生物のうちの唯一の生き残りに過ぎません。神はそのつど「産めよ増やせよ地に満てよ」とく繰り返してきたのでしょうか。全智全能とは程遠い情けない神ですね。
また初期条件を片っ端から与えて無数の宇宙を創造したのなら、ずいぶんと投げやり的ですね。神はサイコロを振ってはならないのです。フェルマー・ハミルトンの数式には電子の質量、重力定数、光の速度などの値は入っていないのでより基本的といえます。
マジシャン的要素、お恵み支給的要素、創造者的要素・・・がはがれてきたとき、神の正体は・・・自然基本法則そのものではないでしょうか?
