1189年の暮れに、上洛した頼朝は後白河法皇、後鳥羽天皇に拝謁し、大納言兼近衛右大将に任じられます。これで政府の閣僚となり軍人としても最高位に上ったのですが、あっさりと辞退します。彼が望んでいたのは征夷大将軍ですが、これはもともと蝦夷征伐のための臨時職でそんなに高位の官職ではない。近衛右大将よりずっと下です。しかし頼朝からすると都に常駐して、公家たちと付き合う気はない、(少しはあったかもしれませんが)そんなことしたら関東武士から見放されてしまう。鎌倉に本拠を構えて武士たちの上に立つには征夷大将軍の位が最適なのです。そこを知ってわざとさらに高位を与えるというのが朝廷の意図、それを感知した頼朝は辞退したというわけです。これもかの優秀なブレーンのアドバイスくさい。
朝廷がシブシブ征夷大将軍に任じるのは1192年、後白河法皇が死んでから。鎌倉時代はとっくに始まっているのです。
ところでこの後の晩年の頼朝はどうも変です。精彩なく、まるで都の公家のマネをし始めますがそれは次項で。