鎌倉幕府と超新星(12)

SN1181

 最後は星ネタで締めくくります。これまでタイトルの末尾に・・・となっていたところには超新星が入るのです。
 さて鎌倉幕府の成立は「吾妻鏡」という書物に書いてあるのですが、書かれたのは鎌倉時代の後半らしく、その当時の記録はむしろ京都の公家の日記にあります。その中でも藤原定家の「明月記」は第一級資料でしょう。彼は百人一首や新古今和歌集の選者として有名ですが、この日記(エッセイというかブログというか)も国宝です。治承4年(1180年ー頼朝挙兵) から嘉禎元年(1235年)までなんと56年間にわたって書き綴られています。全部漢文・・・とても読めません。
 この日記には、超新星出現の記録(ヒジョーにキチョー)が3件もあり、天文屋にとっては定家サマサマなのです。  どうでもいいことですが、Teikaという小惑星がありまして、その名付け親(命名提案)は実はワタクシ。  超新星とは星の最期の大爆発で、一夜にして数万倍も明るくなります。実は1181年の夏に超新星が出現しているのです。図の↓のところ(カシオペア座)に織姫星(←)と同じくらいの明るさの星が出た。そのことは陰陽師の記録にあり、定家は晩年それを安倍泰俊(晴明の5代か6代の孫)から聞いて「明月記」に書いたそうです。当時19歳の定家自身の観測記録は見つかっていませんが。
 1181年といえば清盛が死んだ年です。この星を見た都の公家は「巨星消ゆ」と、また鎌倉の頼朝周辺では天命下ると思ったのではないでしょうか。天変は天の警告であり命令であると思われていたころのこと。超新星出現は新時代到来にふさわしい天象ですが、これを吹聴した天文屋の話は伝わっていません。

このシリーズには
時々頼りないが担ぐにはいい指導者・・・頼朝
わが子を犠牲にして関東の独立を守った女将・・・政子
無欲で企画力のある知恵者・・・広元
やっぱり怪物、天才かも?・・・後白河
時代の空気が読めなかったのは・・・義経、後鳥羽
これらの過程を冷静に見つめていた・・・定家
などなど色々な人物が出没しました。
ここらで鎌倉幕府成立に関する物語は終わります。長期間ご愛読ありがとうございました。オヒマなとき最初から読み直してくださいね。

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