☆ ヒミコは一人ではない-4


 ヒミコの後、邪馬台国はトヨの治世となり、彼女も魏へ朝貢しています。当時の魏の実権は皇帝(曹氏)から司馬氏へ移っています。266年に倭の女王が魏に代わった晋へ朝貢使者を送ったことが記載されていますが、この後150年以上も途絶えます。ヒミコ王朝は滅びたのか?東へ移動したのか?わかりませんが、女王国としては3世紀後半までのようです。史実としての女帝(推古)が出現するのは6世紀末です。
 ヒミコの死と日食との関係はこれまで何回か書いてきたので繰り返しませんが、結論は
247年3月24日夕、欠けながら沈みゆく太陽 ヒミコの死と戦乱開始
翌年9月5日早朝、皆既から復円する太陽  トヨの即位による平和回復
と関連付けて考えることにします。ではヒミコ王朝の始まりはいつか?
2世紀倭国では大乱が起こりそれを収拾するため、人々は太陽神に仕える巫女を女王として共立しました。その女性こそ初代ヒミコです。なぜ太陽神の巫女が選ばれたかというとその時起こった日食(太陽神の怒り)のためです。人々は争いをやめて、太陽神を崇めました。そこで彼女の即位年を日食の起こった時期から推定します。
桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)西日本で見えた大日食は2つあります。
1)158年7月13日の皆既日食 北近畿 夕方
2)168年12月17日の金環日食 南九州 日没時
1)では昼間の暗黒となりますが数分後には元に戻ります。一方2)では太陽が沈みながら欠けていくという光景が見られます。古代人にとってどちらが恐怖だったでしょうか?それによってヒミコ王朝の始まりは10年違ってきますが、以下のような結論になります。

2世紀後半から約100年間、邪馬台国は女王が治める国だった。その女王はヒミコと呼ばれ魏の使者が記した卑弥呼はその第2代か第3代であった。

その証拠は?どこにもないけど次回に状況証拠を。

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