これまでの話(ヒミコと2回の日食,複数名のヒミコなど)はすでに語られたものですが、以下の文章はオリジナルというか憶測というか独断というか・・・です。
ヒミコの時代から約300年の歳月が流れ、舞台は6世紀末の大和に移ります。邪馬台国のこともヒミコのこともすっかり忘れ去られてしまいました。592年に初めて確かな女帝が出現しました。推古天皇と呼ばれる彼女は、夫(敏達天皇)も兄(用明天皇)も疱瘡の病で亡くしました。その跡目争いで多数の有力者が戦いに関わり命を落し、群臣たちは彼女に即位を促します。こうしてついに皇位についた時にはすでに39歳、彼女の本名は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)トヨさんなんです。彼女を補佐するのは大臣、蘇我馬子(叔父)と摂政、聖徳太子(甥)ですが、それは割愛。2人とも先に亡くなり、手がけた初の国史の編纂は未完成のまま。その老いた女帝の没年に天変が起こるのです。『日本書紀』の巻第二十二の「日有蝕尽之」という記載は628年4月10日の日食に当たります。わが国初めての日食の記載ですが、この5文字からは皆既かどうかはわかりません。現代の日食計算からも両方の主張があります。図では皆既ゾーンが日本列島を走っていますが、地球の自転の遅れのパラメータの取り方で、皆既ゾーンが太平洋上になってしまうこともあるのです。その場合は国内どこでも部分食しか見られない、と言っても9割くらい欠ける大日食ですけどね。
ここで注目したいことは、推古女帝が亡くなるのは日食の5日後ということです。さぁ、なんかアヤシイですね。