☆2012年の天文現象-1


 マヤ暦によると2012年(あと3年)で世界の終末が来るとか、またまたオカルトニュースが流れています。ノストラダムス大予言は幸いにも大外れでしたね。そこで何回続くかわかりませんが天変を調べていきます。

比叡

まずは日食5月21日に金環日食、これは京都からも見えます。朝7:30ころ東天に、高いところに登りましょう。 11月13日に皆既日食 日本からは見られません。見るなら北オーストラリアへ。
6月6日金星の日面通過  太陽君の前をビーナスさんが通るのが見られる(詳説は後)
オリンピックはロンドンで、また選挙の年です 大阪の橋下さん、アメリカのオバマさん。
閏年です 秋分は9月22日 冬至は12月21日(そこでこの世は終わりとか)
タイタニック沈没100周年らしいですね

これで終末?惑星直列が起こるという話もあるが、これについては次回に

comments

☆ヒミコは一人ではない-6

年表


 そのとき人々の間に「即位のときは群臣に共立され、日食とともに亡くなった女王」という微かな伝承が蘇ってきた。しかし、それがいつのことかも、女王の名前もわからない。そこで当時中国(隋唐)から入ってきた史書の中にそれらしき人物をさがした。史記~漢書~三国志~隋書・・・。何年いや何十年もかかってやっと見つかったのが『魏志倭人伝』の卑弥呼という名前。そこには日食のことは載っていませんが、女王トヨの記事を見つけた。歴史官たちはそれをそのまま転載するのではなく、非常に大きな話にデッチあげました。すなわち大ヒミコとトヨを合わせて神とし、そこに日が隠れたという伝承を加えてアマテラス物語を創造したのです。

 江戸時代以降現在までアマテラス日食はいつの日食か、さまざまな議論が続いていますが、決定版はありません。どれか1つの日食に限ることが無理なのです、いくつかの日食の重ね合わせの結果なんですから。きっかけは628年4月10日の日食でそこに248年9月5日と247年3月24日を組み合わせた。75歳という普通の人の倍以上も生き、36年という長期在位の推古は大ヒミコを引き出し皇祖神アマテラスを創り出したのです。このシナリオを書いたのは稀代の天才藤原不比等でしょう(不比等は史人)。
 飛鳥~奈良時代の200年間に9人(重祚が2回あるので実質7人)の女帝が出現しますが、これはまさに第2次ヒミコ王朝です。これも偶然ではなく、前例、過去の実績に則って実行されたのでしょう、きっと。

 図の赤矢印は計算から求めた大日食を表します。5世紀、6世紀中葉にも大日食がありますが、その記録はありません。なぜかというと当時女王はいなかったので忘れられてしまったのです。

当初は起承転結の4回シリーズのつもりでしたが、2回加えました。これでオシマイ

comments

☆ヒミコは一人ではない-5

日食


 これまでの話(ヒミコと2回の日食,複数名のヒミコなど)はすでに語られたものですが、以下の文章はオリジナルというか憶測というか独断というか・・・です。

 ヒミコの時代から約300年の歳月が流れ、舞台は6世紀末の大和に移ります。邪馬台国のこともヒミコのこともすっかり忘れ去られてしまいました。592年に初めて確かな女帝が出現しました。推古天皇と呼ばれる彼女は、夫(敏達天皇)も兄(用明天皇)も疱瘡の病で亡くしました。その跡目争いで多数の有力者が戦いに関わり命を落し、群臣たちは彼女に即位を促します。こうしてついに皇位についた時にはすでに39歳、彼女の本名は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)トヨさんなんです。彼女を補佐するのは大臣、蘇我馬子(叔父)と摂政、聖徳太子(甥)ですが、それは割愛。2人とも先に亡くなり、手がけた初の国史の編纂は未完成のまま。その老いた女帝の没年に天変が起こるのです。『日本書紀』の巻第二十二の「日有蝕尽之」という記載は628年4月10日の日食に当たります。わが国初めての日食の記載ですが、この5文字からは皆既かどうかはわかりません。現代の日食計算からも両方の主張があります。図では皆既ゾーンが日本列島を走っていますが、地球の自転の遅れのパラメータの取り方で、皆既ゾーンが太平洋上になってしまうこともあるのです。その場合は国内どこでも部分食しか見られない、と言っても9割くらい欠ける大日食ですけどね。
 ここで注目したいことは、推古女帝が亡くなるのは日食の5日後ということです。さぁ、なんかアヤシイですね。

comments

☆ ヒミコは一人ではない-4


 ヒミコの後、邪馬台国はトヨの治世となり、彼女も魏へ朝貢しています。当時の魏の実権は皇帝(曹氏)から司馬氏へ移っています。266年に倭の女王が魏に代わった晋へ朝貢使者を送ったことが記載されていますが、この後150年以上も途絶えます。ヒミコ王朝は滅びたのか?東へ移動したのか?わかりませんが、女王国としては3世紀後半までのようです。史実としての女帝(推古)が出現するのは6世紀末です。
 ヒミコの死と日食との関係はこれまで何回か書いてきたので繰り返しませんが、結論は
247年3月24日夕、欠けながら沈みゆく太陽 ヒミコの死と戦乱開始
翌年9月5日早朝、皆既から復円する太陽  トヨの即位による平和回復
と関連付けて考えることにします。ではヒミコ王朝の始まりはいつか?
2世紀倭国では大乱が起こりそれを収拾するため、人々は太陽神に仕える巫女を女王として共立しました。その女性こそ初代ヒミコです。なぜ太陽神の巫女が選ばれたかというとその時起こった日食(太陽神の怒り)のためです。人々は争いをやめて、太陽神を崇めました。そこで彼女の即位年を日食の起こった時期から推定します。
桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)西日本で見えた大日食は2つあります。
1)158年7月13日の皆既日食 北近畿 夕方
2)168年12月17日の金環日食 南九州 日没時
1)では昼間の暗黒となりますが数分後には元に戻ります。一方2)では太陽が沈みながら欠けていくという光景が見られます。古代人にとってどちらが恐怖だったでしょうか?それによってヒミコ王朝の始まりは10年違ってきますが、以下のような結論になります。

2世紀後半から約100年間、邪馬台国は女王が治める国だった。その女王はヒミコと呼ばれ魏の使者が記した卑弥呼はその第2代か第3代であった。

その証拠は?どこにもないけど次回に状況証拠を。

comments

☆ヒミコは一人ではない-3


 ヒミコは桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)の倭国大乱の結果、共立された女王になり、魏の使者が来た247年か248年に没したとすると在位は60年にもおよび、80歳か90歳まで長生きしたことになってしまう。当時の平均寿命の倍以上です。この謎を解くには初めのヒミコと後のヒミコは別人ということではないか! 2人でなく3人かもしれません、とにかく1人ではないということです。『魏志倭人伝』は伝聞録であり、魏の使者も女王ヒミコには会っていません。宮殿の奥で千人の兵士召使いに守られて暮らしているヒミコの真の姿を知っているのはごく少数です。80年の間で1回や2回女王が代わってもほとんど誰にもわかりません。
 中国では239年に倭国から来た使者によりその国の王が女性であることを知り非常に珍しがった。どうして女性が王になったのか経緯を色々調べたら上記のようなこと(もちろんすべて伝聞)だった。古来中国には女王・女帝はいないので物珍しげにデカデカと書かれていますが、わが国ではトップが女性ということはそれほど珍しいことではありません。推古以降9人も女帝がいるし、神功皇后・飯豊皇女など実質的には女帝だった場合もあるし、そもそも初代はアマテラスなんですから。儒教が浸透する前の日本では女性差別は少なかった。いやその後でも、清少納言・紫式部などの女流作家が現れたり、女性差別の世になったのは江戸中期以降と思われます。
 複数の女王がみんなヒミコという名前だったのでしょうか?いやむしろヒミコとは固有名詞ではなく、女王の称号ではないか。社員が社長を、家臣が主君を姓名で呼ぶことがないように、民が王を名前で呼ぶことはありません。女王はすべてヒミコと呼ばれた。後継者であるトヨも女王になってからはヒミコと呼ばれたはず。

これらの点はA先生と同意見でした・・さすが神主さんです。

comments