鎌倉幕府と・・・

 鎌倉幕府の成立年は1192(イイクニ)というゴロあわせで覚えた方も多いでしょうが、現在ではこの説は支持されていなくて1185年説が有力のようです。1192年は源頼朝が征夷大将軍に任じられた年で、1185年は平家が滅び、守護地頭が設置された年で、すなわち前者は朝廷からお墨付きをもらった年であるのに対し、後者は関東勢(源氏ではなく)が自力で制覇した年です。平氏を滅ぼしたのは源氏だ、あれは源平合戦だと言うのは京都の朝廷からの見方であり正確ではない、むしろ関東武士団の決起・独立運動とすべきです。
 関東地方は都で出世できない者や追放された者、いわば「負け組」が開拓したところで、都人から見れば野蛮地でした。関東人は京都の朝廷から独立したいと願っていましたが、自分たちの「頭」がいない、そこへ都から流罪人(多分最後で最大の)がやってきた。それが頼朝で、死は免れたが、伊豆で一生軟禁状態を送ると言う流刑です。関東武士は14歳の頼朝が成長して自分たちの統領になってくれるのを期待していました。20年後、清盛が重病にかかり、平氏の世も終わりに近くなった。そこで彼らは決起します。後白河法皇から平氏追討の密命を得ますが、目的は平氏滅亡ではなく、朝廷に東国支配を認めさせることでした。その主体である関東武士は決して源氏の兵ではなく、頼朝はトップに担がれたにすぎません。

 実はこれは永井路子のいくつかの小説に書いてあることで、彼女はサムライ共和国の成立といっています。  以下次項

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屈原の誕生日

 中国史や漢詩に興味のある人ならよくご存知の,古代中国の憂国の大詩人である屈原さんの誕生日がわかりました。KCGで行われている漢詩の教科書に彼が自分の誕生について作った詩が載っています。生まれたのは寅年の孟春(一月)の寅の日のことであると。干支は何千年もたっても正確に計算できるので,これをもとに計算するとBC343年3月16日(陰暦では1月21日)求まりました。
 彼の命日はいつかサスペンダーさんが言っていたように5月5日ですね。

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太公望

 宮城谷昌光「太公望」をまた読んででいます。商(殷)に親を殺され家を焼かれた6人の子供が,成長してやがて反商勢力を作り上げていく・・・・実に面白い歴史小説です。何もない草原を、食べ物を求めて1日中さまようというシーンは日本では理解できないが、華北の風土ではさもありなんと思いました。

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珍説 日中文化の流れ-2

 TVはNHKBSしかわからないので、天気予報を見る機会が増えました。そして気づいたことは、日本へ続く東西の長い雲は黄河ではなく長江あたりからということが実に多いです(→桜坂。さんからコメントほしい)。風流も海流も華南発、ならば文化の流れもそうではないのか。その例は春秋時代(縄文時代)の稲作伝来、もちろん農具(鉄はまだ)も一緒に入ってきました。彼らは無文字・米作・長江民の子孫です。
華北の文化の到来はその数百年後、秦の前後の大内乱時代です。特に始皇帝の暴政から逃れて亡命してきた人々がたくさんいました。もはや計画的な移民です。その代表が徐福ということになります。  以下 後日。

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珍説 日中文化の流れ-1

 中国に来てからますます考えていることですが、わが国の中国文化は華北からではないようです。ここは乾燥した地域で米は余りよく育たずむしろ麦麺中心の食文化です。それには羊肉や豚肉を伴います。米と魚という食文化はわが国と気象環境が似ている湿潤な華南です。長江流域に中華文化が広まったのは春秋時代(詳しくはサスペンダーさんのご推奨の十八史略を)と言われていますが、実は最近長江中流に米作文化史跡が発見されました。黄河文化に滅ぼされ、中国正史からは無視されてきましたが、彼らは文字を持たなかったため文献は残っていません。彼らはどこに行ったのでしょうか?一部は南のタイへ、また一部は東の海を渡って倭国へ逃れた、そのとき米作技術をもってきた・・・という説があります。紀元前数百年のことです。華北の文化が伝わったのは秦漢時代(前200年ころ)からでしょう。
 固有の縄文文化の上に華南米作文化が載りさらに華北文化が重なったと考えるといろいろ面白いです     以下後日 
 

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殷周革命BC1046年

 サスペンダ-さんのオススメ本「封神演義」の時代背景は、今を去ること約3000年前、舞台は黄河中流です。当時の中国は商(殷)王朝の末期、紂王(帝辛)というとんでもない暴君がいました。日夜宴会を開いて乱交にふけり酒池肉林の日々をおくり、炮烙と言う残酷な刑罰を行ったり・・・なんて悪行が無数にあります。そこで周の姫発(武王)が天命を受けたとして(天命を受けたのはおやじさんの姫昌=文王です)革命を起こし10万の軍で70万の大軍を破って殷は滅ぶわけですが、その最終戦が牧野の戦い、武王の参謀が太公望でこの演義の主役です。
 この殷周革命がいつのことか、諸説さまざまだったのが最近BC1046年と特定されたそうです。実はこの結果はワタクシの計算と奇しくも一致しました。どうやって計算したのか?それは天文古記録をもとにして、それに最もよくフィットする星空を捜し求めたのです。古色蒼然としたネタですが、モデル化とシミュレーションの一例です。

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