OSCは盛況のうちに終わりました。参加者数1200名,前回より増えたことに主催者はご満悦(何でも数は大切ですね)。Nさん,Eさん,Mさん,いろいろごくろうさまでした。聴いたばかりのOpenOfficeを早速インストールしてみました。Word,Excel,Powerpoint,Accessにあたるもの,さらにもう2つおまけがついてタダとはすごい。しかもPDFがすぐできました。セミナーで発表したプレゼン資料をPDF化したものがここに。
月別アーカイブ: 2007年7月
Scilab
右と左
おうえいさんのご指摘通り左京右京は「南に向いて」いうことばです。ナゼって君子は南面するもの(侍ふ者は北面するもの)で,玉座から見ての左右です。平安京・平城京は唐の長安をまねて作ったのだから、長安もきっとそうでしょう。左大文字山は西にありますが,それは北を向いて送り火を見るからで上記とは関係ありません。
ところで左大臣と右大臣では左大臣が上位で,原則として皇族か藤原氏しかなれません。右大臣になった人には源実朝,織田信長,さらに豊臣秀頼もいます。ちなみに征夷大将軍は律令制度ではずっと下位の臨時職です。
サイラボ
左右逆?
四条通
京都昔話(タマヨリヒメ)
フィクションを続けます。
賀茂川工事は大変で、何回も失敗・中断しました。盆地の中心部に定住することは難しいことでした。そこで人々は川に源流にいます水の神のところへ若い娘を遣わすことにしました。選ばれたのはタマヨリヒメ,彼女は黄色い船に乗り川を遡っていきました。北山の山中で水の神に会った場所は貴船と呼ばれるようになり,人々はそこに神社を作り水神を祭りました。その後,治水工事は順調に進んだようです。旧賀茂川の流れがよどんでいた場所は池に改造されました。それは堀川御池の西にある神泉苑すなわち御池です。なおタマヨリヒメは水神の巫女(妻)となりました。神武天皇の母親もタマヨリヒメですが同名異人です。
京都昔話(賀茂川治水)
これはフィクションです。
むかしむかし,といっても最後の氷期が終わった約10,000年前ですが,京都盆地にも人が住み始めました。当時は地球全体の気温が高く,海面は今より数m高くて,大阪はまだ地上になかったころです。京都盆地には3つの川が流れていました。西に桂川,中央に賀茂川(堀川),東に高野鴨川。ただし決まった水路はなくて,大雨の後氾濫はアタリマエでした。人々は盆地の周辺に住んで,自然の木の実や魚を食べていました。こんな時代は数千年続きましたが,やがて植物を栽培し食料を確保し生活を安定させる術を知り,農業を始めました。そのためには治水工事が必要で,川の流れを変えようと言うことになりました。
賀茂川治水は何回も失敗しながら,何百年もかけて行われ,平安京造営ころまで続けられたのでしょう。