☆邪馬台国は大和か?


「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡(産経新聞) – Yahoo!ニュース
奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡で大型建物跡が発見され大和説が有利に、
 ほんとに大和かなぁ?日食からすると北九州に有利なんですが・・・
箸墓古墳(ヒミコの墓?)を発掘すればすべてわかる。掘れないなら、外からX線を当てて3D画像を作ればいいのにね。

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☆ヒミコは一人ではない-6

年表


 そのとき人々の間に「即位のときは群臣に共立され、日食とともに亡くなった女王」という微かな伝承が蘇ってきた。しかし、それがいつのことかも、女王の名前もわからない。そこで当時中国(隋唐)から入ってきた史書の中にそれらしき人物をさがした。史記~漢書~三国志~隋書・・・。何年いや何十年もかかってやっと見つかったのが『魏志倭人伝』の卑弥呼という名前。そこには日食のことは載っていませんが、女王トヨの記事を見つけた。歴史官たちはそれをそのまま転載するのではなく、非常に大きな話にデッチあげました。すなわち大ヒミコとトヨを合わせて神とし、そこに日が隠れたという伝承を加えてアマテラス物語を創造したのです。

 江戸時代以降現在までアマテラス日食はいつの日食か、さまざまな議論が続いていますが、決定版はありません。どれか1つの日食に限ることが無理なのです、いくつかの日食の重ね合わせの結果なんですから。きっかけは628年4月10日の日食でそこに248年9月5日と247年3月24日を組み合わせた。75歳という普通の人の倍以上も生き、36年という長期在位の推古は大ヒミコを引き出し皇祖神アマテラスを創り出したのです。このシナリオを書いたのは稀代の天才藤原不比等でしょう(不比等は史人)。
 飛鳥~奈良時代の200年間に9人(重祚が2回あるので実質7人)の女帝が出現しますが、これはまさに第2次ヒミコ王朝です。これも偶然ではなく、前例、過去の実績に則って実行されたのでしょう、きっと。

 図の赤矢印は計算から求めた大日食を表します。5世紀、6世紀中葉にも大日食がありますが、その記録はありません。なぜかというと当時女王はいなかったので忘れられてしまったのです。

当初は起承転結の4回シリーズのつもりでしたが、2回加えました。これでオシマイ

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☆ヒミコは一人ではない-5

日食


 これまでの話(ヒミコと2回の日食,複数名のヒミコなど)はすでに語られたものですが、以下の文章はオリジナルというか憶測というか独断というか・・・です。

 ヒミコの時代から約300年の歳月が流れ、舞台は6世紀末の大和に移ります。邪馬台国のこともヒミコのこともすっかり忘れ去られてしまいました。592年に初めて確かな女帝が出現しました。推古天皇と呼ばれる彼女は、夫(敏達天皇)も兄(用明天皇)も疱瘡の病で亡くしました。その跡目争いで多数の有力者が戦いに関わり命を落し、群臣たちは彼女に即位を促します。こうしてついに皇位についた時にはすでに39歳、彼女の本名は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)トヨさんなんです。彼女を補佐するのは大臣、蘇我馬子(叔父)と摂政、聖徳太子(甥)ですが、それは割愛。2人とも先に亡くなり、手がけた初の国史の編纂は未完成のまま。その老いた女帝の没年に天変が起こるのです。『日本書紀』の巻第二十二の「日有蝕尽之」という記載は628年4月10日の日食に当たります。わが国初めての日食の記載ですが、この5文字からは皆既かどうかはわかりません。現代の日食計算からも両方の主張があります。図では皆既ゾーンが日本列島を走っていますが、地球の自転の遅れのパラメータの取り方で、皆既ゾーンが太平洋上になってしまうこともあるのです。その場合は国内どこでも部分食しか見られない、と言っても9割くらい欠ける大日食ですけどね。
 ここで注目したいことは、推古女帝が亡くなるのは日食の5日後ということです。さぁ、なんかアヤシイですね。

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☆ ヒミコは一人ではない-4


 ヒミコの後、邪馬台国はトヨの治世となり、彼女も魏へ朝貢しています。当時の魏の実権は皇帝(曹氏)から司馬氏へ移っています。266年に倭の女王が魏に代わった晋へ朝貢使者を送ったことが記載されていますが、この後150年以上も途絶えます。ヒミコ王朝は滅びたのか?東へ移動したのか?わかりませんが、女王国としては3世紀後半までのようです。史実としての女帝(推古)が出現するのは6世紀末です。
 ヒミコの死と日食との関係はこれまで何回か書いてきたので繰り返しませんが、結論は
247年3月24日夕、欠けながら沈みゆく太陽 ヒミコの死と戦乱開始
翌年9月5日早朝、皆既から復円する太陽  トヨの即位による平和回復
と関連付けて考えることにします。ではヒミコ王朝の始まりはいつか?
2世紀倭国では大乱が起こりそれを収拾するため、人々は太陽神に仕える巫女を女王として共立しました。その女性こそ初代ヒミコです。なぜ太陽神の巫女が選ばれたかというとその時起こった日食(太陽神の怒り)のためです。人々は争いをやめて、太陽神を崇めました。そこで彼女の即位年を日食の起こった時期から推定します。
桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)西日本で見えた大日食は2つあります。
1)158年7月13日の皆既日食 北近畿 夕方
2)168年12月17日の金環日食 南九州 日没時
1)では昼間の暗黒となりますが数分後には元に戻ります。一方2)では太陽が沈みながら欠けていくという光景が見られます。古代人にとってどちらが恐怖だったでしょうか?それによってヒミコ王朝の始まりは10年違ってきますが、以下のような結論になります。

2世紀後半から約100年間、邪馬台国は女王が治める国だった。その女王はヒミコと呼ばれ魏の使者が記した卑弥呼はその第2代か第3代であった。

その証拠は?どこにもないけど次回に状況証拠を。

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☆ヒミコは一人ではない-3


 ヒミコは桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)の倭国大乱の結果、共立された女王になり、魏の使者が来た247年か248年に没したとすると在位は60年にもおよび、80歳か90歳まで長生きしたことになってしまう。当時の平均寿命の倍以上です。この謎を解くには初めのヒミコと後のヒミコは別人ということではないか! 2人でなく3人かもしれません、とにかく1人ではないということです。『魏志倭人伝』は伝聞録であり、魏の使者も女王ヒミコには会っていません。宮殿の奥で千人の兵士召使いに守られて暮らしているヒミコの真の姿を知っているのはごく少数です。80年の間で1回や2回女王が代わってもほとんど誰にもわかりません。
 中国では239年に倭国から来た使者によりその国の王が女性であることを知り非常に珍しがった。どうして女性が王になったのか経緯を色々調べたら上記のようなこと(もちろんすべて伝聞)だった。古来中国には女王・女帝はいないので物珍しげにデカデカと書かれていますが、わが国ではトップが女性ということはそれほど珍しいことではありません。推古以降9人も女帝がいるし、神功皇后・飯豊皇女など実質的には女帝だった場合もあるし、そもそも初代はアマテラスなんですから。儒教が浸透する前の日本では女性差別は少なかった。いやその後でも、清少納言・紫式部などの女流作家が現れたり、女性差別の世になったのは江戸中期以降と思われます。
 複数の女王がみんなヒミコという名前だったのでしょうか?いやむしろヒミコとは固有名詞ではなく、女王の称号ではないか。社員が社長を、家臣が主君を姓名で呼ぶことがないように、民が王を名前で呼ぶことはありません。女王はすべてヒミコと呼ばれた。後継者であるトヨも女王になってからはヒミコと呼ばれたはず。

これらの点はA先生と同意見でした・・さすが神主さんです。

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☆ヒミコは一人ではない-2


 『魏志倭人伝』には不可解な数がよく出てきます。有名なのは朝鮮半島から邪馬台国へいたる道程で「水行十日、陸行一月」などを加えていくと。邪馬台国ははるか九州の南方海上になるということが、すでに江戸時代から言われています。次に邪馬台国の人口ですが7万戸と書かれています。当時は大家族で1戸に10人くらいは同居していたので、人口は100万にもなる。これは邪馬台国だけでなく倭国の総人口だという話もあるそうです。ちなみに奈良時代の人口は推定600万~700万人とか。また倭人は長命で、百歳か、八、九十歳の人が居るという記載もあります。
 これらどうみても変ですね。人間の記憶は数が一番あてにならない、数字は忘れやすい。これは現代の我々もよく体験することで、11桁の電話番号なんて覚えられるもんじゃない、歴史で年はゴロ合わせで覚えた、事件が起こった日なんかほとんど忘れている・・・etc。 かといってすべて無視しては話が続きません。何らかの根拠があるのでしょう。
 当時の倭人はどんな数え方をしていたのか?10進数で数えていたのでしょうか?暦はまだありませんから、1年の概念は今と違うかもしれません。歳を数えるのが1年に1回ではなく半年で1回では?少なくとも年末行事は6月末にも行われていた(晦日とはもともと三十日なんです)。年齢をすべて半分にすれば、妥当な数になります。ヒミコも平均寿命+αまで生きた。

 古代には100歳を超える天皇も珍しくなく、みんな長生きです、奈良時代以降は早死に。もっとも日本に限ったことではありませんがね。

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☆ ヒミコは一人ではない-1


 幻の女王ヒミコ、彼女は1000年以上も日本人を惹きつけ、また悩ましてきました。もちろん出典は『魏志倭人伝』、その本格的研究は江戸時代からですが、すでに『日本書紀』の成立前後、奈良時代から行われてきました。彼女がいた邪馬台国は北九州だ奈良盆地だというだけでなく、日本中いたるところにさらには海外までも多数の候補地があります。卑弥呼とは中国での当て字でこの字にこだわることはありません。わが国的には日巫女でしょうが、ここではヒミコと書きます。Americaにアメリカとか亜米利加とかいう字を当てるようなものですから。
 『魏志倭人伝』は文字数2000字、その解釈のネタはもう尽きたでしょう。そこで別サイドから考えてみます。それは数についてと当時の天体現象についてです。ヒミコはいつごろの人か?生年はわかりませんが、没年は247年か248年らしい、この年に魏から来た使者の記録です。また後漢の桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)に倭国は大いに乱れ、その結果、卑弥呼という一人の女子を共立して王としたという文章は魏志以外にも多数の中国の史書に書かれています。この期間の末期に即位としても在位は60年にもおよび80歳か90歳まで長生きしたことになってしまう。当時の平均寿命はせいぜい40歳くらいでしょうから、どうも変ですね。
 この疑問から出発して、かなり独善的ながら面白い結論が得られました。それを先日A先生に話したところ、なんと同じような考えでした。

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☆竹取物語

 次はかぐや姫のお話。わが国最古のしかも月世界へ帰還する物語です。

内容は言うまでもないですが、面白いのは彼女に求婚して失敗する五人の好色な公達です。その名は、石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、右大臣阿倍御主人(あべのみうし)、大納言大伴御行(おおとも の みゆき)、中納言石上麻呂(いそのかみ の まろ)。このうち後の3人は天武持統時代(7世紀末)に実在した人物です。阿倍御主人の子孫には安倍晴明がいます。車持皇子のモデルは藤原不比等とも言われています。そして帝とは?この4人の時代なら文武天皇(在位697年ー707年) しかない。したがってかぐや姫が月へ帰ってしまったのはこの間の中秋の名月(旧8月15日)であることは確かです。
 作者はわかりませんが、藤原不比等を嘲笑っているからには、これらの公家、特に藤原氏に恨みがあり、もちろん学識もあり文才もある人でしょう。そこで紀貫之が有力候補になっているそうです。
 
 なお、この物語の最後に重要な文章があります。
月へ帰っていくかぐや姫は帝に不死の薬と天の羽衣、帝を慕う心を綴った文を贈りました。しかし帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味が無い」と、それを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じました。それからその山は「不死の山」(富士の山)と呼ばれ、また、その山からは常に煙が上がるようになりました。

平安時代には富士山は常時煙を吹いていました。

石作皇子の話の中に作花の枝という言葉があります。詳しくは原文をどうぞ。

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☆浦嶋物語-4

urshima

 今から1300年前わが国では多数の国家的出版事業が始まりました。
『古事記』『日本書紀』『万葉集』はそのまま残っていますが『風土記』はほとんど散逸しました。『丹後風土記』も原文は失われていますが、浦嶋の話は詳しく残っています。そしてこの話の前文に「筒川の嶼子は日下部首(くさかべのおびと)たちの先祖であり,この話は飛鳥の都の説話収集の役人が記したものと相違するものではない。」という意味の文が書かれています。ということは丹後の豪族日下部首が先祖自慢、郷土自慢のネタを都に持っていったのでしょう、丹後の古い伝承に尾ひれをつけて。
そのころ長年行方不明だった老人が帰ってきて、わけのわからんことを言いまくっていたのかもしれません。

 ところが、浦嶋の話は丹後だけでなく、横浜にも西讃岐にもあるそうです。上図をクリック拡大してみて3つのフラグからその源流をたどると奄美・沖縄あたりにいきそうです。海流に乗ってこれらの地へ漂着した海部族が伝えたのかも。その中で丹後の日下部首がいち早く都への売り込みに成功したのかも。

 童話から古代史、星ネタへ移りそして最後はちょっと物足りないフィクションでした。 おしまい

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☆日食余話5


 中国の天文古記録は質・量とも世界最高です。天変は政治の上で非常に大切な事件で、また漢字という文字はそれを表すのに適していたと思われます。たとえば日食記事において「既」という文字があれば100%とはいきませんが、皆既食が起こったことを表し、部分食と区別しています。孔子(BC551年‐BC479年)が編纂したといわれる『春秋』という歴史書には多数の日食記事があります(孔子サン自身が日食を見たかどうかは知りません)。
BC709年7月17日「桓公三年、秋七月壬辰、日有蝕之、既」
BC549年6月19日「襄公二十有四年、秋七月甲子、日有蝕之、既」

しかし天文屋にとってこわ~い日食事件もあります。
☆皆既日食まであと70日 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ
これは『書経』に書いてあるそうで、もしホントなら夏の第4代仲康の時代で世界最古の日食記録です。そこで紀元前19世紀か20世紀に洛陽で見える皆既日食を探すと。。。実はいい候補がないいんです。
やっぱこれはアヤシイ。でも伝承元の日食はあるはず。

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