☆日食余話4

 世界最初に日食記録は?この質問にはかなり調べました。昔から有名な古代オリエントの事件として
メソポタミアにあったメディア国が今のトルコにあったリュディア国と戦闘中に日食が発生し、恐れおののいた両軍は講和を結んだ。これはBC585年5月28日の日食であり、実はタレス(BC624年 – BC546年頃)が予言していた。
というものです。この話はヘロドトス(BC485年頃 – BC420)の『歴史』に書かれています。彼は「歴史の父」とも呼ばれていますが、脚色捏造も多いそうです。

 実はもっと古い記録もあるのです。多分最古でしょう。
メソポタミアの天文の歴史と日食/月食の記録によればトルコのシリアの境あたりにあった都市国家ウガリッドで見つかった粘土板に
新月の日は汚され、火星を供に沈んだ。
と記されているそうで、これはBC1375年5月3日の早朝、しかし、日の出直後で火星は太陽から離れているのでBC1223年3月5日13時半の日食のほうがベターとも言われています。
どちらの日食も皆既かどうかはわかりかせん。

 では中国ではどうなのでしょうか?

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☆日食余話3

 源平合戦のひとつ、水島の戦いは珍しく平氏が勝ちました。時は1183年11月17日、場所は岡山県倉敷市(今は工業地帯)。戦い中に日食が起こたため、それまで優位に立っていた源氏側が驚きのあまり逃げ出したという話が『源平盛衰記』巻33にあるそうです、読んではいませんけどね。
 平家方は予め日食のあることを知っていたが、源氏方(実は無学な木曽義仲の兵)は知らなかったのでびっくりしたのでしょう。金環食だから真っ暗にはならず「天俄かに曇りて日の光見えず」という表現はオーバーです。源氏方が負けたのは兵力ではないことを言い訳しているように見えますね。ともあれ義仲は京へ逃げ帰りこの後、急速に低落していきます。
 この時の金環食は山陰山陽四国で観られました。京都では部分食、でも9割以上欠けたはずです。

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☆日食余話2

 わが国最古の日食の記録は『日本書紀』に載っている推古三六年三月二日(=628年4月10日)のもので,その記述は「日有蝕盡之」のみです。このときの皆既帯は日本列島上にあったか、それとも外れて太平洋上か?は議論が分かれているそうです。
 日食は必ず新月のときだから旧暦では1日になるはずなのに2日とかおかしい。これは当時の暦が不正確だったためといわれています。
 この日食の5日後に最初の女帝である推古天皇は75歳(当時としては非常に長寿)の生涯を閉じるのです。さぁ,何かアヤシイですね!。このとき人々の間に「日が隠れて女王が亡くなる」と言われてきた微かな記憶(いつのことか女王の名前すらわからなくなっていた)が蘇ってきたのではないか?その女王はもちろんヒミコ,推古女帝より約400年も前の人。ここから先は下記をお読みください。
☆○○コの日食-2 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ
☆○○コの日食-1 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ

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☆ヒミコの墓?

 奈良県桜井市にある巨大な古墳である箸墓古墳のできた年代が西暦240~260年ころと測定されたそうです。まさにヒミコの没年ころ、これで邪馬台国は奈良という説が有力になってきました。箸墓にいったことはあるが大きい、あそこにほんとにヒミコは眠っているのか?
 ボクは邪馬台国は北九州にあったと思っていますが、その根拠は日食です。天文計算によると247年3月24日の日食の日に彼女(日巫女)は死んだ。そして後に太陽の女神アマテラスとして崇められるようになった。

箸墓古墳、240~260年築造 卑弥呼の死亡時期と一致 炭素年代で判明(産経新聞) – Yahoo!ニュース
ヒミコの日食

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☆○○コの日食-2

『古事記』・『日本書紀』には
アマテラスは弟スサノオの乱暴にほとほと手を焼き天の岩屋戸という洞穴に籠もってしまった。日の女神が隠れたのだからこの世は真っ暗になった。困り果てた神々は協議し,安の河原でとんでもないどんちゃか騒ぎを開いて彼女を引き出した。
これの意味するところはまさに日食です。アマテラス事件の元は日食に違いないということは江戸時代いやもっと以前から知られていました。
 また3世紀前半のわが国のことを記した『魏志倭人伝』によると
邪馬台国の女王ヒミコが没し、後継の男王が立ったが争いが収まらず、内乱状態になった。そこでトヨという少女を女王に押し立てて争いは収まった。」とあります。
248年9月の日食はヒミコの死やアマテラス事件を表しているという着想は確かにすばらしいが、247年3月の日食も皆既ではないからといって除外せず、併せて考えるべきでしょう。すると邪馬台国九州説に有利になるという副産物も生じます。続けて起こった2つの日食状態を考えると

九州にあった邪馬台国の女王で太陽神に仕える巫女であったヒミコは,亡くなる頃に起こった壮絶な日食により,死後は太陽神アマテラスとして崇められるようになった。その事件は長く人々の記憶に残り,後に岩屋戸隠れ伝承のもととなった。
247年3月 ヒミコが没し内乱始まる      アマテラス岩戸に隠れる
248年9月 トヨのもとで平和がよみがえる  アマテラス岩戸から出てくる

とするのが妥当ではないでしょうか、多少の無理は承知の上。

 なお「卑弥呼」とは『魏志倭人伝』の作者が当てた字で,いわばAmericaをアメリカとか亜米利加と書くようなもの。わが国でいえばむしろ「日巫女」とすべきでしょう。筆者はどちらの漢字も使わず.ヒミコと記すことにしています。
○○に入る文字はおわかりですね。

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☆○○コの日食-1

 日食の話を続けます。
わが国にも平安時代には日食の記録はたくさんあります。安倍晴明さんも日食の予報を出しています(これは975年 8月10日に全国的皆既)
 247年3月23日と翌年9月5日の日食は日本古代史に重要なヒントを与えてくれます。前者はアフリカから朝鮮半島まで皆既がみられますが、わが国では太陽が沈んだ後です。しかし部分食は日没前に始り、その欠け具合は西にいくほど大きいです。近畿では日没時に半分足らずですが、九州ではもっと欠けます。地平線あたりで欠け始め,細くなりながら没する太陽、明日はもう昇ってこないのではないかという不安を駆り立てるかなり壮絶な光景です。また後者の皆既ゾーンは能登半島から北関東さらに太平洋上に長く延びています。昇って来るのは黒い太陽、しかしすぐに復円が始まり、7時にはすべて終了します。近畿でも九州でも90%以上欠けます。これを見た当時の人々は太陽の復円の過程を見てホットしたことでしょう。これら2つの日食をあなたが眺めたとしたらどのように感じますか?
 これらの日食はPCで再現できますが、記録や伝承は残っていないでしょうか?あります、あの有名な伝承が・・・

つづく

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☆本能寺の変の黒幕

 本能寺の変は明智光秀の単独行為ではなく黒幕がいたという話は無数にあります。その黒幕は秀吉?家康?朝廷?・・・それとも?。信長の死で一番得したのは明らかに秀吉だが、その直前に信長に滅ぼされそうになっていたのに、彼の死で生き延びたのは四国の長宗我部と北陸の上杉です。実際,四国へは信長の三男である信孝が総大将として攻め入るために大阪で準備していた。また越後へは西から柴田勝家が、東から滝川一益が攻め入り上杉は武田の二の前寸前でした(ここらは次回の大河ドラマで)。また毛利とは戦いの真っただ中で信長自ら出陣の用意をしています。ところが本能寺の変でこれらの戦いはすべて消滅したのです。
 すると黒幕は上杉・毛利・長宗我部と共謀し光秀にやらせたということになりはしないか?そんな壮大な陰謀ができるのは前征夷大将軍である足利義昭か前関白である近衛前久か、いずれにせよ新興勢力ではなく中世の抵抗勢力でしょう。
 しかし光秀は事前に連絡取り合った気配はなく、全貌を知っていたのは黒幕だけ。そして光秀が不利になると知らん顔して引っ込んだ。ちなみに本能寺の変の時は新月で、明智勢は月明かりのない道を亀岡から京都まで攻めてきたのです。

てなストーリーはどうでしょうか、サスペンダーさん。

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☆月明らかにして

moon1015

 
きれいな空です。月が眩しい。昨日が満月、少し欠けています。
明るすぎてすばるも見えない。時々甲高いキーンというのは鹿の鳴き声らしい。

月明らかにして星稀なり・・・とは曹操の作でしたね、たしか、サスペンダーさん。赤壁の戦いの前夜、曹操は翌日の勝利を確信し空の月を眺めてこんな詩を作ったそうです。1800年前の秋のできごとです。

(画像提供:ラオさん)
秋の夜やすばるも見えぬ月明かり 遠く聞こゆる鹿の鳴き声

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☆金文が明かす史実

 サスペンダーさんから引き継いで  
古代中国の大規模な王朝交代戦争である殷と周との最終戦はその地名をとって牧野(ボクヤ)の戦いといわれています。その様子は史記には甲子の日に周の数万が殷の70万に1日で勝ったと書いてありますが、19世紀から西欧史学が導入されると、ウソやと思われてきました。ところが1970年代に利簋(りき)という青銅器が発見され、その銘文には史記と同じ内容が書かれていたのです。「武王、殷を倒す。戦いは甲子の日の朝始まり、黄昏はやく終わった」と。この青銅器はその時代の作品で、これによって伝承と思われていたのが史実だったことがわかりました。これぞ第1級の金文ですね。

 嗚呼、司馬遷はえらかった、単に言い伝えをまとめたのではなく、きちんと考証しているようです。もっとも数はオーバーでしょう。数字は忘れてもその事柄はけっこう覚えていることは今のわれわれにも通じることですね。また主役は武王ではなく、太公望でしょう。

ころは紀元前11世紀(castorの天文計算ではBC1046年1月20日)、日本ではノンビリした縄文時代、エジプトにはピラミッドが並び、ユダヤではダビデの現れるちょっと前、ギリシアはまだ世界史に登場前です。

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鎌倉幕府と超新星(12)

SN1181

 最後は星ネタで締めくくります。これまでタイトルの末尾に・・・となっていたところには超新星が入るのです。
 さて鎌倉幕府の成立は「吾妻鏡」という書物に書いてあるのですが、書かれたのは鎌倉時代の後半らしく、その当時の記録はむしろ京都の公家の日記にあります。その中でも藤原定家の「明月記」は第一級資料でしょう。彼は百人一首や新古今和歌集の選者として有名ですが、この日記(エッセイというかブログというか)も国宝です。治承4年(1180年ー頼朝挙兵) から嘉禎元年(1235年)までなんと56年間にわたって書き綴られています。全部漢文・・・とても読めません。
 この日記には、超新星出現の記録(ヒジョーにキチョー)が3件もあり、天文屋にとっては定家サマサマなのです。  どうでもいいことですが、Teikaという小惑星がありまして、その名付け親(命名提案)は実はワタクシ。  超新星とは星の最期の大爆発で、一夜にして数万倍も明るくなります。実は1181年の夏に超新星が出現しているのです。図の↓のところ(カシオペア座)に織姫星(←)と同じくらいの明るさの星が出た。そのことは陰陽師の記録にあり、定家は晩年それを安倍泰俊(晴明の5代か6代の孫)から聞いて「明月記」に書いたそうです。当時19歳の定家自身の観測記録は見つかっていませんが。
 1181年といえば清盛が死んだ年です。この星を見た都の公家は「巨星消ゆ」と、また鎌倉の頼朝周辺では天命下ると思ったのではないでしょうか。天変は天の警告であり命令であると思われていたころのこと。超新星出現は新時代到来にふさわしい天象ですが、これを吹聴した天文屋の話は伝わっていません。

このシリーズには
時々頼りないが担ぐにはいい指導者・・・頼朝
わが子を犠牲にして関東の独立を守った女将・・・政子
無欲で企画力のある知恵者・・・広元
やっぱり怪物、天才かも?・・・後白河
時代の空気が読めなかったのは・・・義経、後鳥羽
これらの過程を冷静に見つめていた・・・定家
などなど色々な人物が出没しました。
ここらで鎌倉幕府成立に関する物語は終わります。長期間ご愛読ありがとうございました。オヒマなとき最初から読み直してくださいね。

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