☆超光速ニュートリノ2


 1987年2月23日の超新星爆発は16万光年かなたマジェラン雲に中で起こりました。そこから発したニュートリノが岐阜県のカミオカンデで検出され、これによって小柴博士の2002年ノーベル賞受賞となりました。超新星爆発が観測されたのとニュートリノ検出は同時で、これによってニュートリノも光速で飛んでいると考えられます。しかし今回の実験結果に従うと、光で発見されるより4年前にニュートリノは検出されるはずとなります。あるいはあのニュートリノは超新星爆発より4年後にマジェラン雲を出発したけど追いついて、地球には同時に着いたことになります。
 超新星爆発において最初に大量エネルギーを運ぶのはニュートリノというのが現在ほぼ定説になっています。さぁ困った。

 またニュートリノにも質量があるということがわかったのは最近ですが、そんなら光速にはなりえない。ましてや超光速には。光子には質量がないから光速で走れるのです。・・・なんやらヤヤコシイ

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☆超光速ニュートリノ1


アインシュタインは間違っていたとかタイムトラベルができるかもなんて言うのは早すぎです。

 超光速ニュートリノの測定結果の論文では730kmを走った結果ニュートリノのほうが60ナノ秒早く着いたと書かれています。誤差はこれより1ケタ小さく確かに有意。とすれば問題は時間の測り方かなぁ?実は同時性の設定、認識は非常に難しくてよくわかりません。
・2つの現象が同時に起こったことをどうやって測定しますか?
・2つの時計をどうやって合わせますか
・各地点で時の進み方は異なるが、A点での時とB点での時をどうやって測りますか
・などなど
再試を待つしかないと言われると、健康診断の後で要精密検査と言われるのと同じく気味が悪い

 真空中では光は最大速度ですが、媒体(例えば水)に入ると減少します。一方ニュートリノはなんでもかんでも貫通するので減速はない。ニュートリノが超高速で走ったというより光が減速した・・・当初ボクはそう思ったが、こんな物理の基本こと当然調べられてるだろうなぁ
これまで見かけの超光速現象はいくつかあったが、みな相対論の範囲で解明されました。相対論は間違っていると言われながらも今世紀になって相対論を支持する発見が続き、カーナビなど実用品にも利用されています。
今回もやっぱアインシュタインは偉かったという結末になるのか? 「常識とは18歳までに蓄えた偏見の塊」というのはアインシュタインのことばです

そのニュートリノは日本語で「のぞみ」と呼ばれます・・・うそです。

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☆森を守る文明

森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)


 面白い本で3日で読んだ。著者の言わんとすることは予想が付いていたのでフムフムな~ると思いながら。著者の専門は植物学で、太古の花粉の調査から地球の温度変化、文明の興亡に迫ろうというもの。こういう歴史の理系的アプローチは素晴らしいですよ(日食またしかり)。文献考証だけに頼ってはダメ。
 バビロンやエルサレムが栄えた裏にはレバノン杉の乱獲があった。ギリシアの山が禿山になったのも同じ、キリスト教イスラム教などの一神教がどれだけ自然破壊をしてきたかが語られています。森を大切にしてきたのは日本人(ただし今は違う)だけだったと。
十数年前の出版で、21世紀への警告です。

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☆紙の道

紙の道(ペーパーロード) (集英社文庫)


 10年くらい前に買った本が出てきて読んでいます。まだ途中ですが面白い項目を2つばかり紹介します。
古代エジプトアレキサンドリアの図書館には数十万部の蔵書があった。ほとんどパピルス製。これは放火によって焼き尽くされたが、ヨーロッパ人は火を放ったのは7世紀マホメットの後継者ウマルと思っていた。ところが実は389年ローマ皇帝テオドシウスの命を受けたテオフィロス司祭の異教弾圧の結果だった。異端文化は全て抹殺する偏狭さは信じられん。

ヨーロッパ人は紙は15世紀にヨーロッパで作られたと思っていた。実は紀元前2世紀中国(前漢 )で作られ、その200年後に大改良され、流通している。日本には4、5世紀ころ入ってきたらしいが、ヨーロッパ人が知ったのはずっと遅れて12,13世紀。それまで彼等は文字と言うものをあまり必要としなかった。

中華思想は西欧人にもあります・・・

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☆空海の風景4 

空海の風景〈下巻〉 (1975年)

  帰国後の空海は経文翻訳、密教完成、朝廷工作、最澄との対決等々で休みヒマなし。高野山に開山と言うことは何度も登っている(もちろん徒歩で)わけですね、相当な体力です。下巻の後半は最澄との確執に多くの頁が使われているが、正直言ってややダレる。期待したのは曜日、星占い、食べ物など密教以外に彼がもたらしたものについてでしたが、残念ながら書いてなかった。司馬遼さんが生きていたら、手紙を書いて尋ねるところですが・・・。
 空海は高野山で即身成仏、ミイラ化していると一般に言われていますが、実は火葬された、当時の記録もちゃんと残っているそうです。
 彼は真言密教をひとりで完成させた大天才で、彼と並ぶ弟子はいません。逆にライバルの最澄は優秀な弟子たちとの合作で天台仏教を創っていくし、しかも比叡山からは後世も法然親鸞など偉大な僧侶(庶民の仏教・・・いずれまた別項で)も出ています。教育者としては最澄の方を評価したい。

戦国物と違って読み切るのはしんどかった。

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☆空海の風景3


 密教の日編を伝授された空海は急いで帰国します。「もはや学ぶものはない」といって
20年の就学期間をわずか2年で切り上げるのですが、謝金、経文、仏具などで金を使い果したようです。
 帰路は嵐に会わず、博多に着き大宰府に入りますが、京都に戻るまで2年の歳月がかかっています。これも彼独特のやり方で、朝廷が彼を必要とするまで、待機している。実はその間に奈良の大寺などに働きかけて、長安での活躍を吹聴しているみたいです。帝が会いたがっているようにお膳立てを整えてから、入洛するという演出、心憎い。時の帝は、書の達人である嵯峨、専制君主だった父桓武とは大違い。
 唐に渡る前までは無位無名の青年僧だった彼はこの後。嵯峨帝とは終生友人つきあいしています。

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☆空海の風景2


 空海は天才・努力家というだけでなく、実に自己アピールに長けています。登場のタイミングや前準備には脱帽します。
1)遣唐船は福州に漂着し、土地の役人は怪しんで取り合ってくれない。遣唐使藤原なんとかの提出した手紙はへたくそな中国語文章で意味不明らしく無視。一同困っている時、だれかが空海に執筆を依頼しました。彼の書いた文章に田舎役人はびっくりして、長安に報告しやがて、正式に遣唐使一行と待遇され都に向かう。文章作成力は重要です
2)唐で密教の第1人者は恵果という長老です。空海の目的からすると、すぐに訪ねればいいのに、実際に訪問したのは数カ月後、そのとき恵果は空海を大歓待します。空海は都の文人と詩文を交換しながら、自分の評判が恵果に届くのを待っていたようです。しかもその間にサンスクリット語を勉強していたそうです。これを知らないと密教の奥義は理解できない。彼は初めてインド・ヨーロッパ語を学んだ日本人です。
恵果は一目で空海の才能を評価し、自分の後継者と定め、翌日から猛修業。多数の先輩弟子をさしおいてすべてをマスターしたとか。恵果はすでに病身でまもなくなくなりますが、空海は弟子の代表者として弔文を書いています。

3)次回で

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☆空海の風景1

空海の風景〈上巻〉


 大掃除の戦利品。昭和50年発行の単行本です。懐かしの司馬遼太郎。
空海はものすごい大天才です。唐に留学する前に自力で密教をほぼ会得していたようです。20代ではどういうコネで入れたのか奈良の大寺の経文は殆ど読破していて、室戸岬の岩山で修業しています。彼の19歳の時の作である「三教指帰」は戯曲だそうで、自分になぞらえた若い僧、貧しいながらも如来の勅命を帯びているとは、気負ったもの。
 ちなみに彼は都の大学に入りましたが、将来高級官僚になれる道を断って出家しています。幼いころからの天才なので、周囲も彼の挙動を黙認していたようです。

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☆ヒミコの虚像

つくられた卑弥呼―“女”の創出と国家 (ちくま新書)


 久しぶりに面白い古代史の本を読みました。魏志倭人伝の記載は相当色が付いているそうです。それは中華思想ではなく、古代中国には女王女帝は全くいない、いやそれどころか女性の詩人や芸術家もいない、男性優位社会なのてす。多分儒教の影響でしょう。彼らからみれば「東海の女王国」とは興味津々です。
わが国ではトップにいった女性は少なくいない、女性の地位は言われるほど低くはなかった、男尊女卑が確立したのは多分江戸時代になってからですね。ところが、歴史学者はそれに気づかず「女王」を特殊なものとして見ている。日本書紀の中にも大和朝廷と戦って服従させられた女性の首長はたくさん出てくるそうです。
ヒミコはだれかということにこたえてはいないが、面白いアプローチです。

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☆ 草原の風


こういうタイトルの宮城谷昌光の新聞小説が読売朝刊に連載されています。主人公は劉秀、後漢の創始者光武帝、都に上っていく若い日の姿から始まりました。世は新の王莽の時代。まだ20数回ですが。はや人物がたくさん出てきてわからなくなりそう。

 わが国が初めてコンタクトをもった中国の皇帝は光武帝です。奴国王は光武帝から金印をもらったのです。

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