☆人間過去未来-2

 人類はなぜ1種類しかいないのか?犬猫象鹿いずれも何種類か現存しています。
かつては現代人と共存した人類がいました、その中で最も有名なのはネアンデルタール人、ヨーロッパが主で中央アジアあたりまで分布していたそうですが、約2万5千年前に絶滅。ネアンデルタール人はホモサピエンスと交流も闘争もなく併存していたようです。彼らは頭脳は現代人と変わらず、骨格からして体力は勝っていたようです。しかし決定的に違うのは言語能力(骨の構造からしてあまりしゃべれない)したがって集団生活に不可欠なコミュニケーション力は劣っていた。また抽象的な思考ができないので宗教芸術科学技術など文化創造はできなかったとか。逆にいえばこれができることがホモサピエンスの特徴です。最終的には文字を持ってそれを自在に操ることのできるものが勝つのでしょうね。
そういえばギリシア神話や聖書の伝承には先住民族としての野蛮な巨人族が出てきます。

 ホモサピエンスと併存した人類の別の例としてインドネシアのフローレンス島に1万2千年前までホモ・フローレシエンシスという1mくらいの小人がいたそうです。彼らは最後の非ホモサピエンス人類と言われています。

その子孫どこかにいるかも コルボックル?

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☆人間過去未来-1

人類進化99の謎 (文春新書)


 バス待ちに百万遍の角の本屋に入りなんとなく買ってしまった。短い話が99個、面白いがもうひとつツッコミがほしいです。そのうちからいくつかを紹介しながら人間の過去未来について考えてみます。
 
 むかし、猿人、原人、旧人、新人と覚えたけどもう古いのですね。人類は直列的に進化してきたのではなく、われわれホモサピエンスは多数のヒトのうちの一つにすぎない(ただ1種類なのに六十億もいる)。他のホモなんとか、なんとかトロプスはすべて滅んだのです。ヒトの誕生地はすべてアフリカで、何度も出アフリカがあったそうです。最後の出アフリカは約二十万年前、それが現代人でヨーロッパではネアンデルタール人を、アジアでは○○人(それもかつてアフリカから出てきたものも子孫)を駆逐し全世界に広まった。最後にたどりついた大陸は南米で、シベリアからベーリング海峡を歩いて渡って(氷河時代なので陸続きでした)。それはわずか2万年前だそうです。

 地球46億年の歴史の中で人類が世界中に広がったのは極々最近のこと、というよりこの2万年のテンポラリな現象のようにも思えますね

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☆新記録


円周率を小数点以下2兆5769億8037万けたまで計算
 あなたは何桁まで覚えていますか?

100m 9秒58
 9秒台の前半は人間は絶対ムリと言われていましたが・・・

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☆竹取物語

 次はかぐや姫のお話。わが国最古のしかも月世界へ帰還する物語です。

内容は言うまでもないですが、面白いのは彼女に求婚して失敗する五人の好色な公達です。その名は、石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、右大臣阿倍御主人(あべのみうし)、大納言大伴御行(おおとも の みゆき)、中納言石上麻呂(いそのかみ の まろ)。このうち後の3人は天武持統時代(7世紀末)に実在した人物です。阿倍御主人の子孫には安倍晴明がいます。車持皇子のモデルは藤原不比等とも言われています。そして帝とは?この4人の時代なら文武天皇(在位697年ー707年) しかない。したがってかぐや姫が月へ帰ってしまったのはこの間の中秋の名月(旧8月15日)であることは確かです。
 作者はわかりませんが、藤原不比等を嘲笑っているからには、これらの公家、特に藤原氏に恨みがあり、もちろん学識もあり文才もある人でしょう。そこで紀貫之が有力候補になっているそうです。
 
 なお、この物語の最後に重要な文章があります。
月へ帰っていくかぐや姫は帝に不死の薬と天の羽衣、帝を慕う心を綴った文を贈りました。しかし帝は「かぐや姫の居ないこの世で不老不死を得ても意味が無い」と、それを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じました。それからその山は「不死の山」(富士の山)と呼ばれ、また、その山からは常に煙が上がるようになりました。

平安時代には富士山は常時煙を吹いていました。

石作皇子の話の中に作花の枝という言葉があります。詳しくは原文をどうぞ。

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☆浦嶋物語-4

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 今から1300年前わが国では多数の国家的出版事業が始まりました。
『古事記』『日本書紀』『万葉集』はそのまま残っていますが『風土記』はほとんど散逸しました。『丹後風土記』も原文は失われていますが、浦嶋の話は詳しく残っています。そしてこの話の前文に「筒川の嶼子は日下部首(くさかべのおびと)たちの先祖であり,この話は飛鳥の都の説話収集の役人が記したものと相違するものではない。」という意味の文が書かれています。ということは丹後の豪族日下部首が先祖自慢、郷土自慢のネタを都に持っていったのでしょう、丹後の古い伝承に尾ひれをつけて。
そのころ長年行方不明だった老人が帰ってきて、わけのわからんことを言いまくっていたのかもしれません。

 ところが、浦嶋の話は丹後だけでなく、横浜にも西讃岐にもあるそうです。上図をクリック拡大してみて3つのフラグからその源流をたどると奄美・沖縄あたりにいきそうです。海流に乗ってこれらの地へ漂着した海部族が伝えたのかも。その中で丹後の日下部首がいち早く都への売り込みに成功したのかも。

 童話から古代史、星ネタへ移りそして最後はちょっと物足りないフィクションでした。 おしまい

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☆浦嶋物語-3

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 前述の『丹後風土記』の中で最も重要な箇所は彼を出迎えた子供たち、昴星と畢星ことこです。昴とは言うまでもなく,すばるのこと、おうし座の散開星団プレアデス410光年の彼方にあります(写真)。古事記にも枕草子にも谷村新司の歌にもあるあの星々のこと。
また畢とはやはりおうし座の散開星団ヒアデスのことで,140光年の距離にあります。なんと蓬山(=とこよ國)とは宇宙の彼方にあったのです。彼は海の彼方の大きな島または海底にあるという龍宮城に行ったのではない!

 さあそうなると、往復の手段は超高速の亀型宇宙船となります。出発の時期は雄略天皇二十二年すなわち478年、帰還は二百数十年後の飛鳥時代(後述),ところが彼の中の時間経過はわずか3年,明らかに相対論的効果です。まさにウラシマ効果を体験したのです。:::ウラシマ効果という言葉は誰の発案かわかりません(いろいろ聞いてみたけど)。しかし超高速飛行では時間経過が遅くなるという一般相対論の重要な結論を表現するには適切な言葉です・・・日本人以外には理解できないけど。

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☆浦嶋物語-2

 『万葉集』巻九には高橋虫麻呂作の「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき長歌が載っています。後半はほぼ同じですが助けた亀に連れられて行ったのではありません。

水の江の浦の嶋子がで海神(わたつみ)の娘(亀姫)と結婚し常世にある海神の宮で暮らすこと3年、帰ってから土産にもらった玉手箱をあけると、彼は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。

また『日本書紀』には出発は「雄略天皇二十二年秋七月」のことと書かれていますが,その記述は非常に短く,詳しくは別巻(ことまき)でということで終わっています。重要なのはその別巻(参考文献)である『丹後風土記』で随分詳しく書かれています。やはり後半はほぼ同じですが、主な相違点は

・主人公は丹後の国,与謝の郡,日置の里,筒川の村に「筒川の嶼子(しまこ)」別名「水江の浦の嶼子」という容姿端麗で優雅な男で、その地の有力者の息子であること
・亀姫が彼に一目ぼれして五色の大亀となって近づき、彼にモーレツに求愛し,海の彼方にある蓬山(とこよ)の国へ誘うこと
・彼女の実家は大宮殿で、迎えた「7人の童は昴星で,8人の童は畢星」であること
・お爺さんになった彼は首をめぐらしてたたずみ,涙にむせび,うろうろ歩き回るばかりだった・・・で終わっていること。

これがオリジナルです。はたしてどう解釈すべきでしょうか?その謎を解いていきましょう。

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☆浦嶋物語-1 

 これまでと趣を変えまして、しばしおとぎ話にお付き合いください。

  むかしむかし,浦島は 助けた龜につれ連れられて,
  ・・・・・・・
  ・・・・・・・
  中からぱっと白煙,たちまち太郎はお爺さん。

浦島太郎が助けた亀に乗って竜宮城に行き,乙姫様と楽しく暮らし,お土産に玉手箱をもらい,帰ってみたら知らない人ばかり,開いた玉手箱から出た煙でたちまち彼はお爺さんになってしまった・・・という童話は誰もが知っていますね。ところが彼は最後はどうなったのでしょうか?
・そのまま死んだ
・鶴になって飛び去った
・竜宮へ戻った
色々な説があるそうです。私たちが知っている物語は江戸時代に庶民が本を読むようになったときに書き直されているものが少なくありません。実は浦島伝説はずっと古くからあり,その原型は私たちがなじんでいるものとかなり異なっています。その源流を探ると奈良時代にまで遡ります

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☆テキストエディタ

KeEditor

 久しぶりに天文、歴史を離れて

 皆さんはEditorには何をお使いですか? 秀丸、PeggyPad,, TeraPad,CPadforJava・・・いいフリーがたくさんできました。Eclipseもそうかな。今、castorが最もよく使っているのはK2Editorです。 なぜかというと、図は明らかにscriptを含んだHTMLファイルですが、保存後に「その他」「開いているファイルを実行」と選ぶとHTMLファイルがブラウザで実行表示される。これって便利ですよ。そのファイルがどこのフォルダーにあるか探すのが結構大変です。いつも同じフォルダーに保存するというわけにもいかないしね。もちろんタグによって色分けや強調文字などもできますし全角空白なども表せます。

 メモ帖はなるべく使わないよう言っていますが、何と最近 NotePad++ なるフリーソフトができました。試しに使ってみたけど強力すぎ、これまで書いたテキストファイルがすべてNotePad++ 最優先と関連付けされてしまったので外しました。
 

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☆本能寺の変と改暦

 本能寺の変より9年前、1573年に信長は自分が担ぎ出した足利義昭を室町将軍から追放して、ここに室町幕府は終わるのですが、その後朝廷に強要して元亀から天正へ年号を変えさせています。これは改元の権限を奪うもので、朝廷へのものすごい干渉です。

 そして天正十年、武田へ出兵の前に公の京暦を三島暦(当時尾張美濃で使われていた)に変えることを要求したそうです。変更は閏月の置き方なのですが、京の公家衆からするととんでもない越権行為、もうしそうなれば陰陽寮の役人は当然総入れ替え、その次に来るのは朝廷人事への口出し、ひいては朝廷乗っ取りです。左大臣右大臣も藤原氏ではなく信長の息のかかったもの、そしてついには天皇にもおよびかねない。すでに正親町天皇は嫌気がさして退位するとか言いだす始末。武田を滅ぼし毛利・上杉・長宗我部ももうじき制圧する信長はしつこく三島暦の採用をせまります。

 もうやるしかない、そこで極秘のうちに信長包囲策ができます。実行犯は光秀、その後は秀吉か家康かそれとも義昭の返り咲きか、謙信のいない上杉や、元就のいない毛利では頼りない・・・結果的に改暦は回避され、朝廷の思惑はうまくいきました。家柄のない秀吉は莫大な金銀で高位高官を買いました。

 こうなると源平合戦のストーリーを思い出しますね。平家追放は木曽義仲にやらせて、その後は頼朝を使う。自らの手は汚さず、武士同志を争わせて、最終権力だけは保持して生き延びた後白河とその取り巻き公家衆を。

暑い真夏の夜の夢でした。
☆本能寺の変と天変 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ

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