☆本能寺の変と天変


 天正十年には数多くの天変が起こっています。

・3月にはオーロラが出ました。京都でも安土でも見えたという記録があります。
・5月には彗星が現れました。その記録は中国やヨーロッパにもあり、特にチコブラーエが観測しています。彼は最後最大の眼視観測者で視力は3.0(?)、彗星は気象現象ではなく天体であることを明言した人です(中国では紀元前から知られていましたがね)。
・6月には日食が、これについては既述
☆本能寺の変と日食 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ
本能寺の変の後にはないようです。

 この年の春、武田を滅ぼして、夏には上杉・長宗我部・毛利を徹底的にたたくつもりだった信長はあっけない最期。年末になって一番得をしたのは、武田の旧領を併吞した家康ではないでしょうか。織田家の跡目争いで秀吉と勝家が争っている隙に、かつての武田領今川領を合わせた大大名になった。

本能寺の変の原因は光秀の個人的な恨みによるものとされて、真相は闇のままですが、秀吉や家康よりアヤシイ人々がいます。そこになんと暦が関係してくるのです。

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☆本能寺の変と日食

日蝕


 これも「宇宙からのメッセージ」(斉藤國冶著)からの話です。

 本能寺の変は天正10年(1582年)6月2日の早朝、実はこの暦日は旧暦で、西暦では6月21日です。旧暦2日といえば前日は1日・・・新月です。ひょっとしたら?そう実は日食があったのです。
6割欠ける部分食でした、といってもピンと来ないので、日食ソフトからのキャプチャ。
見にくいですが、クリック拡大で見てください。15時半ころこんな感じで見えたはずです。なのに日食の記録はない!
ある公家の日記によると、この日は雨だった、夜になってから晴れたそうです。

 ところが『天正十年具注暦』なるものには、ちゃんとこの日の日食が予告されているそうで、この暦は朝廷の陰陽師が細々と作っていたものらしいです。だからこれを見て日食を知っていた公家もいたでしょう。また晴れたら日食を見て中国出陣を延期するよう信長にアドバイスした公家もいたでしょう。信長が京都に来たのは明智光秀を従えて、毛利攻めに出発するためだたのです。
しかし迷信嫌いな信長のこと、たとえ日食を見ても人の忠告など聞かなかったでしょうね。

 本能寺の変と日食と何の関係あるんや?? 実はあるんです。

☆本能寺の変の黒幕 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ
 

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☆歴史の中の天文こぼれ話

宇宙からのメッセージ―歴史の中の天文こぼれ話


 非常にマニアックな本です。著者は国立天文台名誉教授でもともと太陽の専門家ですが、定年退職後に「古天文学」という新ジャンルを開拓したというパイオニアです。一度お会いしたかったけど、数年前に亡くなられました。
 ヒミコ日食あれこれ、信長と朝廷の天文官との争いなどなど面白い話があります。また古代中国では火星は不吉な星とされ、その運行は注目されていたそうです。そのなかで重要なのは、漢の高祖・劉邦の没年BC195年の天象でしょう。この年火星は年初から7月まで,てんびん座でうろうろして,8月初にアンタレス最接近します。病に伏した劉邦は「四月甲辰に崩じた」と記されていますが,この日は干支をもとにして求めると6月1日に当たります。漢の歴史官・天文官にとって初代皇帝の死には天からの予告があってしかるべきと考えたのでしょう。
 ところがその15年前(BC210年)にも火星は似たような運動をして、なんともっと大物が亡くなっているのです。その名は、始皇帝、ただし『史記』には没年の前年 始皇三十六年(=BC211年)の天象と書かれています。これは単なる記載ミスなのでしょうか?それとも現王朝の創立者と前王朝の暴君とが同じ天象のもとに亡くなったとは書きにくかったので司馬遷は故意に1年ずらしたのでしょうか?・・・この部分は著者ではなくcastorの推測。

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☆梅雨まだ明けず

 どうなってんの?今年の夏は。8月というのに梅雨まだ明けず、しかも豪雨、竜巻。もうじき台風のシーズン。今年は梅雨明けないのでしょうか?桜坂・さん!
太平洋高気圧が弱すぎなのは、日食で太陽の光熱が減ったから?まさかね。
一昨年はメチャ暑く40度を越しましたが、去年の夏はあまり暑くなかったですね。温暖化が緩和したのか?少なくとも夏は。

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☆日食余話6

 夜でも日食は起こるのか?もちろん起こります、ただし見えません。地球の裏側に行けば昼間だからみえます。来年7月11日は南太平洋で。
日本国内では26年後まで、京都では30世紀まで観られないけれど、☆日食後記 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ に書いたように日食は毎月起こっています。月の影がどこに落ちるかだけのことですね。

 金環食は皆既食のようにコロナやダイアモンドリングは現れないので、見劣りすると言われますが、そうでもないでしょう。3年後5月21日の朝の金環食を見るには東が開けた所がいいですね。下図のように南紀~東海~房総。静岡あたりから富士をバックにするのがいいようですが、比叡山頂ではどうかな?

日食ネタもそろそろ尽きたのでここらで終わります。ご愛読ありがとうございました。

金環食

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☆日食余話5


 中国の天文古記録は質・量とも世界最高です。天変は政治の上で非常に大切な事件で、また漢字という文字はそれを表すのに適していたと思われます。たとえば日食記事において「既」という文字があれば100%とはいきませんが、皆既食が起こったことを表し、部分食と区別しています。孔子(BC551年‐BC479年)が編纂したといわれる『春秋』という歴史書には多数の日食記事があります(孔子サン自身が日食を見たかどうかは知りません)。
BC709年7月17日「桓公三年、秋七月壬辰、日有蝕之、既」
BC549年6月19日「襄公二十有四年、秋七月甲子、日有蝕之、既」

しかし天文屋にとってこわ~い日食事件もあります。
☆皆既日食まであと70日 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ
これは『書経』に書いてあるそうで、もしホントなら夏の第4代仲康の時代で世界最古の日食記録です。そこで紀元前19世紀か20世紀に洛陽で見える皆既日食を探すと。。。実はいい候補がないいんです。
やっぱこれはアヤシイ。でも伝承元の日食はあるはず。

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☆日食余話4

 世界最初に日食記録は?この質問にはかなり調べました。昔から有名な古代オリエントの事件として
メソポタミアにあったメディア国が今のトルコにあったリュディア国と戦闘中に日食が発生し、恐れおののいた両軍は講和を結んだ。これはBC585年5月28日の日食であり、実はタレス(BC624年 – BC546年頃)が予言していた。
というものです。この話はヘロドトス(BC485年頃 – BC420)の『歴史』に書かれています。彼は「歴史の父」とも呼ばれていますが、脚色捏造も多いそうです。

 実はもっと古い記録もあるのです。多分最古でしょう。
メソポタミアの天文の歴史と日食/月食の記録によればトルコのシリアの境あたりにあった都市国家ウガリッドで見つかった粘土板に
新月の日は汚され、火星を供に沈んだ。
と記されているそうで、これはBC1375年5月3日の早朝、しかし、日の出直後で火星は太陽から離れているのでBC1223年3月5日13時半の日食のほうがベターとも言われています。
どちらの日食も皆既かどうかはわかりかせん。

 では中国ではどうなのでしょうか?

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☆日食余話3

 源平合戦のひとつ、水島の戦いは珍しく平氏が勝ちました。時は1183年11月17日、場所は岡山県倉敷市(今は工業地帯)。戦い中に日食が起こたため、それまで優位に立っていた源氏側が驚きのあまり逃げ出したという話が『源平盛衰記』巻33にあるそうです、読んではいませんけどね。
 平家方は予め日食のあることを知っていたが、源氏方(実は無学な木曽義仲の兵)は知らなかったのでびっくりしたのでしょう。金環食だから真っ暗にはならず「天俄かに曇りて日の光見えず」という表現はオーバーです。源氏方が負けたのは兵力ではないことを言い訳しているように見えますね。ともあれ義仲は京へ逃げ帰りこの後、急速に低落していきます。
 この時の金環食は山陰山陽四国で観られました。京都では部分食、でも9割以上欠けたはずです。

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☆日食余話2

 わが国最古の日食の記録は『日本書紀』に載っている推古三六年三月二日(=628年4月10日)のもので,その記述は「日有蝕盡之」のみです。このときの皆既帯は日本列島上にあったか、それとも外れて太平洋上か?は議論が分かれているそうです。
 日食は必ず新月のときだから旧暦では1日になるはずなのに2日とかおかしい。これは当時の暦が不正確だったためといわれています。
 この日食の5日後に最初の女帝である推古天皇は75歳(当時としては非常に長寿)の生涯を閉じるのです。さぁ,何かアヤシイですね!。このとき人々の間に「日が隠れて女王が亡くなる」と言われてきた微かな記憶(いつのことか女王の名前すらわからなくなっていた)が蘇ってきたのではないか?その女王はもちろんヒミコ,推古女帝より約400年も前の人。ここから先は下記をお読みください。
☆○○コの日食-2 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ
☆○○コの日食-1 | ほしぞら.・古代史・コンピュータ

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☆日食余話1


 このたびの日食でいろいろな質問がありましたので、そのうちのいくつかを紹介します。
中には答えられなくてこの3連休に調べまくったものもあります。
世界最古の日食記録は?
日本最古の日食記録は?
日食時にはどのくらい暗くなるの?
金環食と皆既食のちがいは?
ヒミコの日食はいつ?
安倍晴明はホントに皆既食を見たの?
源平合戦の時の日食はどうなったの?
京都での次の皆既食はいつ?
夜間でも日食は起こるの?
ーーーーなどなどーーーー
日食時にはどのくらい暗くなるのかは、あの通りほとんど変化ありませんでしたね、8割欠ける程度では。真っ暗になって星が見えるのはやはり皆既時だけ、暗くなったのがわかるのは9割以上でないと無理みたいです。でも51年前(子供のころの記憶であてになりませんが)、1958年4月19日には85%の日食でしたが、周りがうす暗くなった。でもその日はとてもよく晴れていました。昨日のような曇天なら、変化はわからないようです。ということは気づかれず、記録されなかった日食はたくさんあったということですね。

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