【日本酒】「南三陸庄内の風」と幻の酒米「亀の尾」

南三陸庄内の風

先日,梅田阪急で山形の鮎川酒造の『南三陸庄内の風』という日本酒を買いました。

東日本大震災で壊滅的な津波被害を受けた南三陸町で作られた「亀の尾」というお米を90%,そして,山形庄内町産の「亀の尾」を10%使用したお酒とのこと。

このお酒1本の売上から200円が南三陸町への義援金になるそうです。

==========
720ml,1350円

精米歩合 60%
日本酒度 +6
酵母 山形酵母
酸度 1.7
アルコール度 15.3度
==========

お世辞抜きですっきりしていて,飲みやすく,美味い1本です。

ところで,この「亀の尾」という酒米,以前は幻の酒米だったんです。

漫画『夏子の酒』のモデルになった新潟県長岡市の久須美酒造が,この幻の酒米を復活させて作ったお酒が純米大吟醸『亀の扇(かめのお)』です。

「亀の尾」はコシヒカリやササニシキの祖先に当たり,食べてもおいし良いお米らしいのですが,栽培しにくく,戦後新しい品種にとって代わられてしまったのです。

久須美酒造が「亀の尾」の復活のために農業試験場から譲りうけた種もみはわずか1500粒。

「亀の尾」は背が高く,籾の数も多いので,実るとイネが倒れやすく,倒れれば米が痛むし,その上,病害虫に弱いのです。

久須美酒造では,倒伏を防ぐため田に杭を打ち,縄を張ってイネを支えて,防虫にも努めた甲斐があって,ようやく30キロの種籾を収穫できたのだそうです。

「亀の尾」には特徴的な白い実の外殻にある毛が生えるそうで,初め真っ白になった田んぼを見て,イネが病気になったと思ったとか。

なにしろ,苦労の末に復活した酒米「亀の尾」を使ってできたお酒が『南三陸庄内の風』なわけです。

そしてその90%はあの南三陸町産なのです。

ここまで読んでしまった人は,買わずには,飲まずにはいられませんね。

comments

プロ野球交流戦【阪神タイガースVS埼玉西武ライオンズ】(T1-2L)

昨日,5月22日(日),友人に誘われて,阪神甲子園球場で行われたプロ野球セ・パ交流戦,阪神タイガースVS埼玉西武ライオンズの試合を観に行ってきました!

朝から,京都は暴風雨で,試合はないだろうと思っていたものの,ネット情報では,球場は何度問い合わせても「やる!」と言っているらしいので,それを信じていざ甲子園へ!

ゴアテックスのレインコートや,荷物用ゴミ袋(大)も用意していったものの,雨は上がり,試合が進むにつれ,日差しが強まり,ジリジリと太陽にローストされる結果になりました。

ということで結果は晴れ,,,じゃなくて,2-1で我がライオンズの勝利でした。

延長11回に元タイガースの平尾の決勝タイムリーでライオンズの勝利!ライオンズの帆足もよく投げたのですが,タイガースの5併殺,11回は城島のエラーからの失点と半分タイガースがこけた試合でした。

甲子園球場が新しくなってから,初めて行ったのですが,きれいになりましたね。

甲子園カーネルおじさん

売店なんかも充実していて,カーネルおじさんも頑張っています。
ちなみに京都西京極前の9号線では,カーネルおじさんがサンガFCのユニを着ています。

そして久しぶりにタイガースファンに交じって,ジェット風船に挑戦。

「六甲おろし」の合唱の後に風船を一斉に飛ばすのだと思い込んでいたら,7回に「六甲おろし」がないことに気が付き,時間がなく半分しが膨らませられず,飛ばした風船は目の前の金本のユニを着たおばちゃんに当って落ちるという悲しい結果に終わりました。

ライオンズのユニを着ていたので,ほとんど嫌がらせに見えたらしく,睨まれました。

そういえば,埼玉出身で子どものころ西武球場に通っていた私は,日本シリーズで対戦したタイガースに敗れ,試合後に悪乗りしたタイガースファンに,「害虫だ!」へんなスプレーをかけられた悲しい思い出が。。。。西武球場前駅では阪神ファンの「六甲おろし」の大合唱。当時,なぜか黄色だった西武線(関西では「西武電車」と呼ぶ)が,阪神ファンに乗っ取られ,なんとさびしく見えたことか。。。

と昔の思い出を振り返りながら,太陽に照らされて,野球を満喫した1日でした。

阪神甲子園球場
comments

中国・韓国からの東日本震災支援

石巻の避難所(渡波小学校)のゴミ置き場で見つけた段ボール。

中国・韓国の支援

中国と韓国からの東日本大震災支援物資の空き箱でした。

中国の支援物資の中身は分からなかったのですが,韓国の段ボールはカップラーメンが入っていたものです。

炊き出しで,この韓国のカップラーメンが配られていました。

中国・韓国のみなさん
みなさんの支援はしっかり被災者の方々に届いています!

非常謝謝!
カムサハムニダ!

comments

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 - ボランティアの記録 - その4

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 -ボランティアの記録-
その1
その2
その3
その4

倒れても咲く桜

↑海辺の住宅地。倒れた桜が花を咲かせていた。水色の家の壁にはマジックで持ち主の名前、避難している場所、そして「母(おばあさん)は亡くなりました」とマジックで記してあった。

非常時の組織,コミュニティ,リーダーシップ

私たちは,渡波小学校での活動以外でも,避難所となっていた葬祭所「ほたる」の1階の泥かきも行いました。

この「ほたる」の2階には現在20名が避難していますが,震災直後には250名が避難していました。

1階の壁には,天井まであと約40センチに迫る水位に達した津波の跡がはっきりと残っていました。

災害直後には,葬儀用の白装束や足袋で寒さをしのいだということです。

葬祭所ほたる1階

↑「ほたる」の1階。ここの泥かきを行った。壁に津波の水位がくっきりと残る。

この避難所の特筆すべきところは,厳格なルールが決められて,しっかりした組織で避難所を運営していたこと。トイレなども担当者を決めて使用していたため,仮設トイレが入った後も,土足禁止にするなど,他の避難所とは違ってとても清潔でした。

また,避難者同士の仲がいいのです。聞いてみると,震災前は面識がなかった人が多かったようです。また,ここの避難所の人たちはとにかく明るいのです。

泥かき終了時に夜,お邪魔して一緒にお酒を飲む機会を設けてもらったのですが,その楽しかったこと。被災地で楽しい思い出ができるとは思いもしませんでした。

一方,避難者同士がいがみ合っているといった避難所もあるようで,渡波小学校でも些細なことから,親同士の喧嘩に発展したり,避難されている方が,ちょっとしたことからヒステリックを起こして,警察が呼ばれるということもありました。

もちろん,避難所の規模などにもよりますが,こういった非常時のコミュニティのあり方,組織のあり方,その組織をまとめるリーダーの力量が大きな差をもたらすことをつくづく感じました。

一歩ずつ復興への道を歩む被災地

5月5日に渡波小の近くにある大宮神社でお祭りがありました。

瓦礫や流されてきた車に囲まれた状況でのお祭りでしたが,ボランティアの人たちも参加して,盛大なお祭りになりました。

しかし,今年のお祭りには御神輿が担がれることはありませんでした。津波の際,御神輿につかまって一命を取り留めたおばさんが,「来年のお祭りには是非御神輿を担ぎに来てください」と言っていました。

石巻大宮神社

↑大宮神社のお祭りでカレーとおしるこを振る舞った。他にも、ボランティアによるマッサージ、足湯、散髪、コーヒー、スパゲッティも。もちろん無料!

ボランティアに参加した1週間でも目に見えるように日々瓦礫が片付き,家の片づけが進んでいました。

今後,数年かかるでしょうが,着実に復興へと前進していくはずです。

来年の5月5日,大宮神社のお祭りでは,大きく前進した石巻の姿を見せてほしいと期待しています。

おわり

消防庁による捜索

↑津波から7週間が経過しいたが、行方不明者の捜索が消防庁によって行われていた。

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 -ボランティアの記録-
その1
その2
その3
その4

comments

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 - ボランティアの記録 - その3

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 -ボランティアの記録-
その1
その2
その3
その4

もえないゴミ

↑「もえないゴミ」の看板を作ってくれたスズちゃん。

情報の大切さ

今回,私が主に担当したのは,渡波小でのゴミ集積場所の整理でした。

私が初めて避難所となっている渡波小学校に行った際は,当初のゴミの集積量の予想を大きく超え,分別されていたごみの山が大きくなりすぎて,ビン・カン,ペットボトル,可燃物,ダンボールの山が合体してしまい1つの山になり,次第に分別も曖昧になり,ゴミが混ざりあってしまっていました。

徐々にゴミの収集は始まっていたのですが,これから気温が高くなるにつれて,衛生的な問題も発生しかねないと考え,集積所の整理を開始しました。

ゴミ集積所整理作業前

↑これが作業前のゴミの山

まず,ゴミ回収の情報を得ようと渡波小の近くにある支所を訪ねました。

しかし,ゴミ収集に関する情報は誰からも得られませんでした。

次に渡波小の避難所本部に聞いても,可燃物が月・木で回収に来るという情報は得たものの,その時点で未だ回収がなかったビン・カン,ダンボール,ペットボトル(ペットボトルは水曜日に回収された)の収集開始に関する情報は全く得られませんでした。

青年海外協力隊OVの方がショベルなどの重機を携えてボランティアに参加していただいたので,ダンボールの山の移動とゴミ集積所の近くにあった使えなくなった机などの移動,そして津波で流され動かくなった自動車の移動をお願いしました。

これは,避難所の本部(市役所の職員1名と臨時職員1名,他の自治体からの応援職員数名から構成)にこの話を届けてから実行したのですが,作業中,自動車の撤去を担当する市の職員が血相を変えてやってきて,車の撤去は所有者とのトラブルを避けるために許可を持った業者が行うので作業を中止してほしいと言ってきたのです。

その許可を持った業者はその日にやってきて作業するとのこと。同じ石巻市の職員でありながら,その車撤去の情報は避難所の本部の職員には伝わっていなかったのです。

重機部隊による瓦礫の整理

↑じゃんじゃん片付けてくれる重機の力はすごい!

こういった非常時には情報がいかに大切かということを思い知らされることは,この他にも多々ありました。

まず,炊き出しの情報です。

渡波小学校の炊き出しは毎日行っているのですが,近くの渡波駅や支所などでも,単発的な炊き出しが行われていました。

芸能人などが行う炊き出しはニュースにもなるので,意外とどこで炊き出しが行われるといった情報が伝わるのですが,そのほかの炊き出しの情報は,被災者自身が歩いて,見聞きしないと伝わりません。

せっかくの炊き出しを行ったのにもかかわらず,人が集まらなかったり,突発的な炊き出しにより,渡波小のような定期的な炊き出しが余ってしまう事態にもなってしまいます。

また,義援金に関しても35万円という金額が独り歩きして,一人当たりなのか,一戸当たりなのかというのを,炊き出しをもらいに来た,お母さんたち3人が議論していました。

義援金の第1次分配に関しては,石巻市のWebサイトなどを見ればすぐにわかるのですが,インターネットを含めた情報インフラが災害時には機能しないため「人的被害…死亡者,行方不明者1人につき35万円。住家被害…全壊,全焼の住家1戸につき35万円・大規模半壊,半壊,半焼の住家1戸につき18万円」といった大切な情報さえも被災者に伝わらないという事態に陥ってしまうのです。

このようなことから,災害時の情報伝達を改めて見直す必要を感じました。

ゴミ集積所整理作業後

↑これがゴミ集積場所の整理後。違いが分かってもらえたら嬉しい。

つづく

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 -ボランティアの記録-
その1
その2
その3
その4

comments

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 - ボランティアの記録 - その2

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 -ボランティアの記録-
その1
その2
その3
その4

11日で,震災から2か月。まだ2か月。これからの復興への道のりの長く険しいことを実感する。

協力隊OV石巻市震災支援プロジェクト

前回お伝えした状況にある石巻で,私は青年海外協力隊OB・OG(以下OV)を中心としたグループ『協力隊OV石巻市震災支援プロジェクト』に参加しました。

青年海外協力隊のOVが中心となり,震災後の3月14日から隊員OVの2人で物資輸送,昼食約800人分炊き出し開始。

3月20日に石巻市より避難所となっている渡波小学校の支援を依頼され,渡波小学校での炊き出しを中心に,看護士,理学療法士の隊員OVが保健衛生部門を立ち上げ,保育・児童教育関連のOVが子供のためのプレイルームを立ち上げるなど,活動を広げています。

国際ボランティアセンター山形,関西大学や静岡文化芸術大学の学生・OBへとネットワークを広げ,GW中には,1日最大31名のボランティアが集まりました。

渡波小学校だけでなく,同じく避難所となっている湊小学校や葬祭所「ほたる」での泥かきやがれき撤去の活動,東松島市の図書館再開のための応援など,活動を広げていきました。

国際協力から災害支援へ

青年海外協力隊のOVが中心となっていることから,自分の専門分野を生かした支援活動を行えるのが私たちのグループの強みです。また,国際協力に携わった経験も活かせるのが,私たちの最大の特徴です。

避難所である渡波小学校では,震災直後には約1,500名の人々が避難していたそうです。

5月5日時点では避難者は約300名になっていましたが,渡波小学校での炊き出しに関しては,周辺住民への配給分が約500食でしたので,学校内の避難者と合計して800食を調理していました。

しかし,GW中には最大31名になったボランティアは,私を含めてGW後には自分たちの生活に戻らなければなりません。

私たちのグループもGW後には3人(後日2名増員予定)になってしまいます。そこで,避難者の人たちに炊き出しに参加してもらうことになりました。

GW期間中はボランティアと避難者のお手伝いの人たちが共同で炊き出しを行い,調理のみならず,食材の発注方法なども避難者の方にしていただけるようにしました。

これは青年海外協力隊が発展途上国で行っている技術移転と同じであり,避難者を含めて被災者の自立を促していきます。

さらに,GW後には責任を持って作業していただくために,有償ボランティアとして時給750円で避難者の人たちだけで作業をしてもらうことになりました。

避難所内の人だけが無償で作業をして,周辺住民が食事を供給されるのみになると,不公平が生じてしまいますし,何より長続きしないからです。

この炊き出しに関する取り組みが成功すれば,他の避難所などでも避難者や被災者の自立の足掛かりになるかもしれません。

つづく

渡波小炊き出し

↑避難所になっている渡波小の炊き出しキッチン。キッチンと言っても学校の玄関。衛生的な問題から,家庭科室に移動したいのだが,校舎内の上下水道は復旧していないので,水道が使える玄関で調理をしている。

渡波小前歩道橋

↑渡波小前の歩道橋。歩道には瓦礫や流された車が残る。津波が襲ったあの日,この歩道橋に多くの人が避難し命を守ったという。

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 -ボランティアの記録-
その1
その2
その3
その4

comments

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 - ボランティアの記録 - その1

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 -ボランティアの記録-
その1
その2
その3
その4

ゴールデンウィークを利用して,2011年4月30日から5月7日まで,東日本大震災で甚大な被害を受けた地域の一つ宮城県石巻市で復興支援ボランティアに参加してきました。

今日から,少しずつその報告をしていきます。

津波の被害を受けた石巻

石巻市の被害状況は5月6日現在で,人口162,822(2月末現在)に対して,死者2,244人,行方不明者2,770人(4月4日現在),避難者8,920人となっています。

私が石巻に入った4月30日の時点では,震災から7週間が経過していたのですが,津波の被害を受けた地域では,未だに潰れた家屋やひっくり返った車などで溢れていました。

街がかき回されてグチャグチャになっているという表現でも言い足りないくらいの状態です。2階建ての家の2階に突き刺さるトラック。ガソリンスタンドの中に流れ込んだ家屋。海岸の堤防近くの住宅街では,住宅の土台部分のみを残してきれいさっぱり何も残っていない場所が100メートル位近く広がる光景も目にしました。

流された車

↑ 積み身により被害を受けた家屋と重なる自動車

ガソリンスタンドに家

↑ ガソリンスタンドに流され入った家屋

2階にトラックが突き刺さる

↑ よく見ると家の2階にトラックが突っ込んでいる

そのような状況にある石巻で,私は青年海外協力隊OB・OG(以下OV)を中心としたグループ『協力隊OV石巻市震災支援プロジェクト』 に参加しました。

つづく

一歩ずつ復興への道を歩む石巻 -ボランティアの記録-
その1
その2
その3
その4

comments