運転中にラジオで聞いた話、なかなか面白いけど難しいクイズです
あなたの立っている前に深い深い穴を掘って地球の裏側まで突き抜けます。その中にボールを落とすとさぁどうなるでしょう?
1)中心で止まる
2)中心で潰れる
3)通りぬけてブラジル(アルジェンチン?)に届く
2)はないよね。正解は3)です。では中心で引力は?
1)∞
2)有限最大
3)ゼロ
「科学史」カテゴリーアーカイブ
常識とは
とある流体工学者が「金属の塊が空を飛べるはずがない」と言った数年後にこの常識を破ったのは自転車修理工のライト兄弟でした。大西洋を西に進んで東洋に行こうとしたコロンブスは非常識な船乗りでした。ガリレオ(地動説)もダーウィン(進化論)もかつては非常識と、世の非難を浴びました。ソフトウェアが世の中を変えるということが非常識でなくなったのはごく最近のことです。いつの時代にも先駆者(パイオニア)は世間の常識に押しつぶれされながら、がんばってきたのです・・・てなことを今日の自然科学史の授業で話しました。
時間の進み方は宇宙のどこでも同じはずという常識を破ったアインシュタイン語録に「常識とは18歳までに得た偏見の塊」という言葉があります。なかなか含蓄ある言葉ですね。
日本の科学技術7
7)稲と森
7つの最後は食の技術です。わが国では古くから米を主食にしてきましたが,稲はもともと亜熱帯植物です。それを長い年月をかけて新潟・秋田・北海道などの寒冷地でも栽培できるようにしてきたのです。原産地は華南・タイ・ネパールあたりらしいが定説はまだないそうです。わが国へは紀元前後に弥生人が朝鮮半島経由で持ってきたと習いましたが,多分それはない,寒い地を経てきたとは考えにくい。むしろ華南から直接渡ってきたのでしょう。航海は揚子江移動性高気圧に乗れば意外と簡単です。その時期はBC5,6世紀まで(またはそれより古い)大幅に遡っています。
世界中には米よりも麦を主食にする民族のほうがずっと多く,華北から西アジア,北アフリカ,ヨーロッパ,アメリカなどではパンや麺を食べています。ところがそのときに肉を一緒に食べます。そのためには羊,牛,豚を飼うことになりますが,これらの家畜は大量の草木を食べ森を荒らします。そのため世界の多くの文明は放牧・伐採で滅びました。いわゆる乱開発,代表例は古代オリエント。
それに反し,米と一緒に食べるものは魚ですから,米食民族は食料用の家畜を持たず,森は荒れずに残っています。さらに自然と共生する優しい神(トトロのような)を敬っています。米と魚の料理として最高傑作はすしですね。すしの嫌いな人はまずいないでしょう。
米と魚を食べて森を守ってきた文化技術を大切にしてぃきたいものです
・・・以上ほとんどはA先生の薫陶の賜物です。
「森を守る文明・支配する文明」安田喜憲著
日本の科学技術1 50の手習い 伊能忠敬
日本の科学技術2 自作望遠鏡で観測 国友一貫斎
日本の科学技術3 なにわの精錬所
日本の科学技術4 世界一の鉄砲製造国
日本の科学技術5 平安京の高層建築
日本の科学技術6 雲太 和二 京三
日本の科学技術6
6)雲太、和二、京三
平安初期に源為憲(頼朝・義経とは無関係の源氏)という人が書いた『口遊』という公家の子供達の教科書のような書物があります。その中にその大きさの順位を表すゴロ合わせとして「雲太、和二、京三」と書かれているそうです。京三とは京の大極殿で、すでに平安時代に焼失してしまいましたが、今の平安神宮の本殿はそのミニチュア版で、あの約2倍も大きかったそうです。和二とは大和の東大寺大仏殿で、源平争乱時代と戦国時代と2回ほど戦焼しました。現在ものは江戸時代にできたものですが、奈良時代にできたときも高さ十五丈(約45m)で今とほぼ同じです。それよりも大きい雲太とは出雲大社のことで、平安時代には45m以上だったことになります。
現在の本殿は8丈(およそ24m)で、これも神社としては飛びぬけて大きい(伊勢神宮は9m)ですが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったという伝承があるそうです。
創建は神代、すなわち不明ですから、上古とはいつのことかわかりませんが、奈良時代より前でしょう。2000年の発掘で発見された遺跡から、48mの建物の復元図が作成されました。そのイラストは出雲大社建造の謎を参照。96mは怪しいとしても,平安初期の48mはホントらしく、これは15階建てのビルに匹敵する高さです。出雲には朝廷よりも仏教よりも大切なものがあって,人々はそれを守ってきたのでしょう。でもなぜどうやって造ったのか?
日本の科学技術1 50の手習い 伊能忠敬
日本の科学技術2 自作望遠鏡で観測 国友一貫斎
日本の科学技術3 なにわの精錬所
日本の科学技術4 世界一の鉄砲製造国
日本の科学技術5 平安京の高層建築
日本の科学技術5
5)平安京の高層建築
時代は平安時代に遡り,舞台は当然京都です。赤い四角は平安京のおおよその範囲ですが、東西の中央は千本通、現在に比べ西寄りです。南北の中央は四条通、ちょうど北緯35度です。この都市計画の記録技術は都が落ち着くと忘れられてしまいました。江戸も大坂も○○もほとんど乱開発で、京都の後で計画的に作られたのは札幌(明治)までありません。
京の都の高層建築といえば、東寺の五重塔(57m)で,約1200年前に建てられました。KCG駅前校から見えますが、ぜひ九条通りに行って眺めてください。
(九条大宮にて撮影)
ところが,かつてこれをはるかに凌ぐ塔があったのです。11世紀に動物園あたりに86mの法勝寺九重塔が建てられました。寺というよりあのワンマン白河法皇の別荘です。そのミニチュア模型を京都アスニーで見ました。また14世紀末には足利義満が相国寺に七重大塔を造ったそうで,高さはなんと106m(ホンマかいな?),その記録は昭和になるまで破られませんでした。どちらも落雷戦乱で焼失(地震ではない)してしまい,さすがの秀吉も再建する気はなかったようです。それにしてもこんな大建築の技術もったいないですね!地図の赤矢印は3つの太寺の位置です。
日本の科学技術1 50の手習い 伊能忠敬
日本の科学技術2 自作望遠鏡で観測 国友一貫斎
日本の科学技術3 なにわの精錬所
日本の科学技術4 世界一の鉄砲製造国
日本の科学技術4
4)鉄砲製造世界一
戦国時代の1543年に種子島に漂着したポルトガル人がもたらした鉄砲は日本の歴史を変えてしまいました。その翌年には早くも国産鉄砲が近江国友(長浜市)で作られて,堺,根来(和歌山)とともに3大鉄砲製造所になっています。これを最も有効に使ったのは信長で、国友、堺を押さえて、無敵の武田騎馬軍団を長篠の戦い(1575)で破って天下統一に向かいます。
鉄砲伝来から50年、わが国は世界一の鉄砲製造国となり、関が原の戦い(1600)では5万~7万の鉄砲が使われたそうです。当時のヨーロッパではまだ槍と剣の戦いでした。秀吉・家康と同時代のエリザベス女王はイングランドを統一し、スコットランドを従え、アジアアメリカに船団を繰り出したといっても、映画「エリザベス」には銃撃戦はありませんでしたし,シェークスピアの作品にもそんなシーンはありませんね。
当時の技術は非常に優れていた
鉄砲伝来はもっと早かったのでは?
日本の科学技術1
日本の科学技術2
日本の科学技術3
日本の科学技術3
3)精錬技術世界一
千葉滋賀に続きなにわの科学技術もスゴイです。江戸時代を通じ、大坂の道頓堀,中之島長堀,周辺に多くの精錬所(銅吹屋)ありました。銅吹所では「南蛮吹き」という精錬技法が用いられ、約99.9%という高い純度の銅を作り出していました。鉱石は伊予の別子鉱山から運んでいました。これら大坂の純銅は、国内の銅製品に加工されたほか、棹状に成形されてオランダ経由でヨーロッパ諸国に輸出されていたそうです。また製鉄量は当時、イギリスの数倍あり、なんとスウェーデンに次いで世界第2位とか。
鎖国のため西欧科学技術は入ってこず、文化は遅れたというのはウソ!
以上は精錬所の跡がある中之島に勤務している友人から聞いた話です。
日本の科学技術2
2)国友一貫斎(1778-1840) の望遠鏡
次に近江長浜の鉄砲鍛冶屋さんの話です。父のきびしい教えを受け、17歳で父のあとをつぎます。一貫斎は、腕のよい鉄砲鍛冶として活躍しただけでなく、気砲(空気銃)や懐中筆(万年筆というか筆ペン)の開発や、鉄砲製作方法の公開しました。さらに天体望遠鏡を製作し、それを使って天体観測をしています。長崎から入ってきた反射望遠鏡を見て鏡の鋳造から始めたそうです。オランダ語はできなかったらしいが器用な人ですね。現在実物が彦根と信州上田に残っていて、今でも曇りなくちゃんと見えるそうです。ボクの知人にそれを自作復元した物好きな人がいます。それで太陽を見せてもらいました。
一貫斎は月のクレータ、太陽の黒点、土星の環などを観測して正確なスケッチを残しています。
一昨年その誇るべき滋賀県民の生家(博物館)へ行きましたが、残念ながら写真は撮っていません。その望遠鏡がなぜ信州にあるかというと、天保の大飢饉のとき愛用の望遠鏡を大名に売って国友村の村民を救ったと館員さん言っていました。
日本の科学技術1
日本の科学はほとんど欧米からの輸入と思いがちですが、実は日本にも優れた科学技術があるのです。自然科学史の授業ではその7つを選んでみました。
1)伊能忠敬の日本地図 生没は1745-1818 ですから江戸時代後半、千葉佐原の醤油・酒屋さんですが、日本中を歩いて「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させました。この地図は衛星からの写真をもとにした現在のものと比べてもひけをとらないほど正確なもので当時のヨーロッパ人を驚かせています。しかも彼は50歳で隠居してから、19歳年下の先生の下に入門しオランダ語、暦学、天文学、測量学の勉強を始め、55歳から71歳まで測量の旅を続けるのです。
いやぁ、ご立派、実年のおじさんたちに元気を与えてくれます。
世界天文年7
火星にはフォボス、ダイモスという2つの月がありますが、19世紀末に発見される前にケプラーはその数を予言していたそうです。もちろん自分で観測したわけではなく、どんな根拠かわかりませんが、地球には1個、木星には4個(ガリレイが発見)なので、途中の火星には2個だろうと考えたらしい。このようにケプラーは数の神秘性にこだわっています。当時知られていた惑星数6個(水金地火木土)と正多面体の数6個というのに関係を求めたり、惑星の和音を考えたり・・・なんせ彼は科学者(400年前そんな言葉はない)ではなく占星術師と思われていたし、自分でもそう思っていたのではないか???ケプラーの法則は近代科学の先駆けですが、彼自身はまだ中世の影を色濃く残しています。
彼は聖書の記述からイエスの誕生日を計算したり、貴族・将軍のさらに自分のホロスコープを作ったり・・・占星術は生活費稼ぎのためではなく、本気だったらしいと言われています。