河内湖のなぞ
大阪府は摂津,河内,和泉からなるのですが,その河内とはとういう意味なんでしょうか?
「淀川の内側」なので河の内で河内と呼ばれたなんて説明では納得行きませんよね。では淀川の北側の三島(茨木市や高槻市)などは淀川の外側なのかということになります。
正解は,淀川と大和川の内側という意味なんですね。
実は,大和川は現在では柏原市付近でまっすぐ西進しますが,この流れは江戸時代に開削したんです。
【参照】
大和川付替え300周年|
さて,その昔,7000年前ぐらいには,河内(現在でいえば中河内)は完全に海だったのです。現代人は「河内湾」と呼んでいます。
約2000年前ぐらいになると河内湖になっていき,河内湖はわずか2000年ぐらいで消えていって陸地になったんです。それは,大和川と淀川から運ばれる土砂の量がとても多かったからです。
【参考】
大和川付替え300周年|大和川の歴史
しかし,ここでもう一つ知っておく必要がある知識をここでは述べましょう。「縄文海進」という現象です。縄文時代(7000年前ぐらい)には海面が今よりも高かったため,現在では内陸部になっているところまで,海だったのです。そう,だから,中河内は昔は完全に海だったのです。
今回からは,かつての波打ち際であった場所を想像しながら,地名の由来を考察したいと思います。
【海面上昇の時の地図】
列島沈没地図 / SAFETY JAPAN [細野 透氏] / 日経BP社